幕末に、1万石の小藩が年収の何倍もの資金を小銃を買うために支出し、鳥羽伏見の戦いで薩摩軍と共に幕府軍と戦い勝利します。これが多度津藩です。丸亀藩や高松藩が太平の眠りの中で動こうとしなかったのに、小藩の多度津藩は、なぜ狂気のような軍隊の近代化に邁進したのでしょうか。
 多度津藩の軍事改革への積極的な取り組みは、四代藩主高賢に源がありそうです。
彼は若くして藩主となると、丸亀藩からの自立・独立を目指して陣屋建設にとりくみました。同時に、藩の将来に対する布石をいろいろと打っています。
 『古田流大奥秘之書』によると、宝暦八年(1758)に二百目御筒と同稲妻筒を財田上之村で鋳造し、試射しています。文化二年(1805)には、藩士を長崎に派遣して高島秋帆の門下で西洋流砲術を学ばせています。そして、その年の9月1日には、白方村と堀江村で藩主高賢が見守る中で同筒の早打乱打が行わたと記されています。ここには、小藩であるがゆえの軍事力の限界を、砲術の導入によって補強しようとする若き藩主のねらいが読み取れます。 多度津藩は、本家の丸亀京極家からの自立のために陣屋や多度津新港を建設し、経済的な成長をはかりながら「軍事技術の近代化」にも取り組んでいたようです。
多度津の兵制改革が本格化するのは、ペリー来航以後です。
その藩軍制の再編成と砲術訓練を見てみましょう 
 黒船来航より5年前の嘉永元年(1848)には、多度津は越後流兵式の一隊を編成します。これが時代遅れなのに気づくとオランダ式に、さらにイギリス式に編成替えをするなど時代の流れを捉えています。安政五年(1858)9月に、大坂の御用商人米屋佐助は多度津藩に新式のモルチール銃を献上します。この銃の性能の良さを知った多度津藩は、小銃調達に力を入れるようになり、歩兵主体の戦闘組織への編成に着手していきます。
 さらに文久二年(1862)1月25日から白方で大砲鋳造がはじまり、2月7日に試射されています。
指揮にあたった砲術方の富井泰蔵は、『西洋流砲術見聞録』に次のように記しています。
「二月七日、白方土壇に於て六斤此度鋳造御筒試し打ち、ショウエンギ三度目凡そ七丁、強薬三百五拾匁、七発打つ。コロスも入れる。鉄丸製実丸の六斤弾丸一つに付代料凡そ十匁づつ也、加濃砲」
同四年二月一九日見立山に於て新六斤加濃砲二挺(三原出来)試し打ち七丁場、林家連中これを打つ、十一放、矢倉三度強二寸歩これあり、打薬百六拾匁又百八拾匁、右あとにて十三寸弱臼砲(新規装造三原出来)試し打ち、四五度、満薬、百七拾匁、強百九拾匁」
など、 鋳造された大砲の試し打ちが白方で何度も行われ、これを藩主も見守っています。
(1863)7月8日にの記録には次のように記されています。
「御丁場に於て大砲方へ 此度より毎月塩硝二貫目宛御下げ下し置かれ、六月分より受取り、一、二、三番へ三ッ割り一組六六六匁六分六厘也、右を此度一、二番一所に致し都合一貫三三三匁三分二厘也、打薬十発分一貫三〇〇匁掛り筒払薬にいたす」
   ここからは大砲方の本格的な演習が始まり、六か月分の火薬が一度に現場に渡されています。 このような多度津藩の兵制改革(兵制の近代化)は、ひろく藩外から注目されていたようです。多度津藩の大砲方一番組を率いていた富井泰蔵の記録だけでも、他藩の砲術家が何人も来藩して砲術訓練に参加しています。そして、その訓練の様子を、藩主もやってきて見守っていたようです。当時の藩主は京極高典です。彼が先頭に立って、家老を筆頭に砲術研究をさせ、自ら大砲の試射に立ち会うなど、積極的な軍備強化策を進めていたことがうかがえます。
   多秋山秀夫氏は、「多度津の家中屋敷は語る」(文化財報17号)で、丸亀藩と多度津藩の軍事政策に比較し次のように述べています。
「双方の重臣たちの時代感覚がちがいます。
丸亀は保守派が枢要を占め勤王派を圧迫し、武備も旧来の山鹿流を主体とする編成です。多度津藩は高島秋帆の流れを汲む洋式で。最終時にはフランス流からイギリス式という吸収の早さです。鉄砲も本藩を出し抜いて、直接に横浜五十五番館で購入していました。
 殿様が多度津に居館を移してから39年目です。このような事態を心配していたのか、時の丸亀藩主高朗は、その娘豊姫を高琢に嫁にやって百数十年の兄弟の交りを、今度は親子として親しみを復しています。このような心づかいも世の流れ故なのか判らない間に、両家の意志を疎外するような現象がつぎつぎに起きるのは不思議です
 多度津藩が宗藩の不安を無視して、積極的な兵制改革を推進した背景に、丸亀藩からの干渉を抜けだし、己の自立をめざしての富国強兵策であったことが、ここからも窺えます。

多度津藩の大砲を主体とする兵制改革が、小銃を主体とした歩兵編成に切替えられるのは慶応年間に入ってからです。
その要因を2つ挙げておきます。
 多度津藩は、一万石小藩にしては「小粒で精鋭の実力」を持つ藩と高く評価されるようになり、これが本家の丸亀藩を出し抜いて朝廷への軍役の一端を担う道を開きます。元治元年(1864)11月に、朝廷は、京都御所日御門の警衛警備を命じます。多度津藩の小隊は上京し、薩摩など部隊と共に御所警備の任に就き行動を共にすることになります。この時に培われた経験やネットワークは、その後の多度津藩の動きに大きな影響を与えることになります。また、小銃小隊の充実整備が多度津藩にとって急務であることを身を以て経験する場にもなったようです。
 もう一つの要因は多度津港に入港してくる幕府や雄藩の軍艦です。
改修された多度津港は、水深もあり当時の大型艦船の入港には、丸亀港よりも適していました。そのため雄藩が買い入れた西洋式軍艦が、相次いで多度津港に入港するようになります。例えば文久三年(1863)12月5日には、佐賀藩の軍艦二隻が多度津沖合に停泊します。この時には多度津藩士が乗艦見学する機会を得ています。慶応元年(1865)7月15日にはイギリス軍艦が入港しています。
 そして、翌年正月には長州征伐のために将軍御召艦順徳丸が多度津港に入港します。江戸幕府が威信をかけて購入した軍艦の艦上に上がる体験した指導者達は、その近代兵器の威力や指揮系列などに大きな刺戟を受けたはずです。ところが幕府軍は敗れます。長州での勝敗を左右したのは、軍艦でも大砲でもなく、小銃を持った庶民編成の小編成部隊だったのです。戦後の軍事分析はすぐさま多度津にも伝わります。これから整備すべきは歩兵小銃部隊と全国の砲術家たちは考え、藩主や重臣に提言します。そして、各藩は一斉に小銃買付に走ります。
 長州征伐失敗後の幕末威信の失墜についても、リアルな情報が次々と多度津港にはもたらされます。小藩で風通しもよく、藩士たちの意思疎通も行えていたので、藩論は、急速に尊皇討幕の方向へとまとまっていきます。ここで多度津藩も小銃買付に動きます。多度津藩が丸亀藩などと比べて有利だったのは、すでに独自の買付ルートを持っていたこと、そして小銃歩兵の組織編成が出来ており演習なども行ってきていることです。
 かつて、藤沢周平原作で山田洋次監督の時代劇3部作の「鬼の爪」で、維新間近の東北のある藩での小銃歩兵訓練の様子を描いていたのを思い出します。砲術指南が雇われてやってきて武士達を歩兵として使おうとしますが、なかなかうまくいかないのです。隊列縦隊行進をさせようとすると嫌がる、早駆けを命じてもすり足でしか走れない。武士の作法と流儀は、なかなか歩兵には向かないことをさりげなく描いていました。
 多度津藩には、すでに歩兵はいたのです。後は新式銃を買い求め与えるだけです。
多度津藩の慶応二年(1866)の小銃大量買付け
当時の日本における兵器市場を見ておきましょう。長崎のグラバー亭が武器市場の中心であった時代は、すでに終わっています。慶応期に入ると、とくに横浜・兵庫からの小銃購入が中心になります。まず幕末期における横浜貿易と小銃輸入の状況について見ておきましょう。
1ゲベール銃2
 当時は旧式になっていたゲベール銃
横浜貿易の輸入品目の中で、長州征伐前後の元治元年(1864)以降は、幕府や諸藩が争うように兵器を購入するので、小銃の需要は高まるばかりで輸入量はうなぎ登りに増えます。
1864年、11568挺で約12万ドル
1865年 56843挺で約85万ドルへ
と数量で四倍、輸入額で7倍の急激な増加ぶりです。ここには戊辰戦争の接近を感じて各藩の準備が進んでいたことがうかがわれます。
 戊辰戦争突入寸前の小銃の国際マーケットでの評価は、次のようなものでした。
①最も旧式ゲベール銃クラスは、ただ同然でも良いから欧米諸国は売り払いたかった。
②南北戦争終了後、不要なエンフィールド銃を大量に持つ米国は大口の購入先を探していた。
③新型後装式銃は、スナイドル=薩長、シャスポー=幕府、のルートで情報を保有。
④最新式小銃は先覚的諸藩のみ情報を把握して購入を模索していた。佐賀藩入手
 極東の小国日本の動乱は「死の商人=武器輸出業者」にとって旧式銃器、余剰銃器の供給先として注目を集めます。欧米では余った銃器が、ミニエー銃18両、エンフィールド銃が40両、旧式のゲベール銃でさえ5両で売れたのです。
1ミニエー銃FAGUN0002

 ミニエー銃(後込・ライフル)
 新旧取り混ぜての世界中からの銃器の売り込みを前にして、諸藩指導者の見識レベルが大きく作用します。火縄銃とそう変わらない①の1670年のフランスで開発された旧態依然たるゲベール銃を安価で購入して主力装備とした諸藩もあれば、最新鋭の④のスペンサー銃を装備したのが佐賀鍋島藩です。その結果、戊辰戦争は戦国時代以来の火縄銃から旧式のゲベール銃、普及型のミニエー、スプリングフィールド、エンフィールド銃、新型のスナイドル、ドライゼ、シャスポー銃、加えるに最新型のスペンサー銃まで世界中の「新旧小銃の試験場」となったと研究者は指摘します。

1戊辰戦争『会津藩使用 イギリス製 エンフィールド・ミニエ
 鳥羽伏見の戦いの段階では、佐幕派の会津藩はミニエー銃を薩長両藩はミニエー銃の英国バージョンのエンフィールド銃を主として戦っています。双方の小銃共に②の先込式ライフル銃なので銃器の性能的には大差が無かったようです。
1スペンサー銃
最新式のスペンサー銃
多度津藩が買付けたのはフランスのミニエー小銃、ゲエベル小銃、ヤアゲル小銃、カラパン小銃、ピストルなどだったようです。
小銃一挺当り価格は一丁13~15ドルで輸入されたものを、多度津藩では伊勢屋から21ドルで買入れています。仲買の伊勢屋の利益は、一丁につき5ドル前後となります。当時の1ドルは、大まかに計算すると約1両になるようです。 
慶応二年(1866)における小銃買付けの詳細を、富井家文書でみてみましょう
 慶応二年九月 横浜御用元払算用帳
   元
十二月四日 一金百両 大納戸占請取之
同 十四日 一金干両 右同断
   渡
十二月四日 一金弐拾五両 六連砲 いせ彦次郎渡、
       役所二而渡
 同 八日 一金四拾両  右同断 同人渡、
       野毛三浦屋二而
       一金拾両   右同断 同人宅二而
 同 十日 一金弐拾五両 右同断 役所二而渡
  金百両  壱丁二十一ドル ドル相場四拾五匁五厘、
       代金拾六両として七分五厘負ヶ
       金九百六拾両、小銃六拾挺代金壱丁廿壱ドル
       洋銀弐百六拾匁
       内金五拾両 万延四年二而百両之内立用引
    差引 金九百両 野毛広島屋二而彦次郎渡候、
       但シ金拾両渡シ、不足明算用
 同十一日  トル四拾六匁弐分二厘
       一金五拾両 引落 六連砲五挺代之内渡
卯正月十一日 右同断 彦次郎 書付文
 同 十三日 右同断 同人渡 同断
     〆金手八拾両 渡
  小銃代金
五月十八日 一金三拾両       いせ屋彦次郎
       但シ岩四郎引受之証文入渡
       正 月  一金三拾両      前々年代金
       一金弐拾五両     彦次郎渡
       一金七百七拾壱両三歩 同人渡
          〆金八百弐拾六両三歩 渡
     一金百四拾両壱歩壱朱弐匁弐分五厘
惣都合 金九百七拾壱両壱朱弐匁弐歩五厘
 この史料からは、
①慶応二年(1866年)9月に藩の大納戸役から1100両が支出
②横浜で小銃60挺と12挺の六連砲を買付
③「金九百六拾両、小銃六拾挺 」とありますから、小銃は60丁はで960両ですから1挺=1 6両=21ドルで購入しています。
④伊勢屋彦次郎を主とする貿易商に1080両支払
 多度津藩と小銃の取引きをしていた伊勢屋彦次郎は、伊勢の松坂に本店をもつ伊勢屋の江戸店の支店のようです。伊勢屋はこの小銃取引きで、総額で420ドル余の純益をあげた勘定になります。一挺あたりにすると約5ドルです。

1普仏戦争 M1866 歩兵銃
 小銃買付資金を、多度津藩はどのように捻出したのでしょうか?
 この時の60丁の買付でも千両の資金が必要でした。多度津藩の天保年間の『積帳』によると、この千両は藩予算の支出総額の30~35%に当たります。平時に置いては「異常な比重」であり、まさに戦時軍事予算と考えざるを得ません。1万石の小藩の財政状況では、出せるお金ではありません。
 しかし、多度津藩には陣屋や新港建設の際の資金集金のノウハウがありました。領民への小銃買付のための上納金を拠出依頼です。これに応じて多額の上納金を納めているのが次のメンバーです。
米屋七右衛門、大隈屋宇右衛門、浜蔵屋四郎兵衛、高見屋平次郎、島屋孫兵衛、綿屋林蔵、舛屋助右衛門、大黒屋調兵衛、松屋三四郎、浜田屋仁兵衛、福島屋平十郎、野田屋伝左衛門、舛屋彦兵衛、梶屋忠兵衛、戎屋弥平、紀伊国屋発右衛門、大和屋嘉蔵、島屋徳次郎、角屋定蔵、松島屋弥兵衛、土屋嘉兵衛、松本屋常蔵、柳井屋治左衛門
 彼らは城下の回船問屋をはじめ、干鰯問屋などの「商業資本」層で、陣屋や新港建設でも資金調達マシーンの役割を果たし、「多度津新港建設後の経済発展」の恩恵を最も受けていた階層です。この中に後に「多度津の七福人」と呼ばれ、鉄道・電力・銀行などの讃岐の近代化のトレッガーに成長していく人たちの名前も見られるようです。
 新港建設で経済的な成長を果たしていた彼らは、藩の求めに応じたのです。このような多度津の商業資本の成長と経済力があってこそ、小銃の購入資金は調達できたのでしょう。
小藩の藩主高典が、なぜ積極的に軍備の近代化を推し進めたのでしょうか?
多度津藩の積極的な兵制改革は、藩政に対する「宗藩」丸亀藩のきびしい干渉や制約からの自立をめざすための「富国強兵策」として推進されたのではないかと研究者は考えているようです。「外圧」を利用することによって、
①慢性的藩財政の窮乏を克服するための財源を得、
②農村荒廃による石高・身分制原理の引締めをめざそうとする
ここには、「外圧に対する危機感」を背景に藩論を統一し、兵制改革に突破口を見出そうとする藩主高典もくろみがあったのかもしれません。また、多度津藩は①陣屋建設 → ②大規模新港建設というビッグイヴェントを、官民総出でやり遂げてきた実績とノウハウをもっていました。その経験を生かして「軍備の近代化」という目標を掲げて藩論を統一していくというのは、ある意味で実現可能な政策のようにも思えます。どちらにせよ、多度津藩は身丈に合わない軍事力を持ち明治維新を切り開く現場に官軍の一員として立ったのです。これが戦後の明治維新において、高松藩や丸亀藩よりも有利な座を占めることにつながります。