多度津は早くから小銃を核とする歩兵編成への転換を行ってきましたが、長州征伐における奇兵隊の活躍に学んで農民からの志願制の農兵組織の編成に動きます。これが赤報隊と呼ばれた農民兵たちです。
 赤報隊の募兵状況を見てみましょう。
 大見村の場合村内で応募したのは次の11人です
「小畑惣兵衛・三好初治・横田大蔵・藤田粂蔵・横田茂市・三好勝之丈・藤田文治・佐藤信治・佐藤半之助・則包万助・森綱造」
神田村(現三豊市山本町)の場合には、
地主や富農の子弟からえらばれ、集団行動を中心とする西洋式戦術によって訓練され、戦闘力も大きく、海岸防備や一揆の鎮圧、さらに維新期の朝廷軍に協力してあなどり難いものがあった。神田から岩倉六二(伍長)・長谷川一二(同)・細川保五郎・岩倉角治・山下品治・森利吉・穐山重吉・石川春治・大西雪治の九名が志願」
と山本町史に記されています。隊員は詰襟服と帽子、そして小銃が支給されました。全体では50人規模の編成だったようです。
 次の辞令で赤報隊の性格や隊員の待遇の一端を知ることができます。
  其方儀 此度赤報隊二差加、依之在隊中扶持二人笛字帯刀差許シ 藩籍二差加者也 
 隊員は在隊中に限って二人扶持が支給され、苗字帯刀の特権が許され「新足軽」という身分に格村けされ「藩版」に加えられたようです。隊員が支給された扶持米は、一日玄米一升になりますから、二人扶持は玄米二升で年間に七石三斗の玄米支給となり、藩の全隊員への支給総額は365石にのぼったという計算になります。これも小藩にとってはかなりな財政負担となったはずです。
 赤報隊の隊員を送りだした村サイドから見れば、
①「農家の過剰人口対策」として口減し
②玄米収入の道であり、
③士籍を得るための絶好の機会
という「一挙三得のいい就職先」という認識があったようです。
 他方、藩サイドからすれば、
 新歩兵銃隊の編成を農民で行うことによって小藩の藩士不足=兵力不足を打開することができます。また、先ほど述べたように武士達は単独で戦うことを訓練されており、集団密集訓練や「鉄砲足軽」を嫌がる風潮があり、はっきり言うと不向きでした。農民出身者を鍛えた方がものになるということを長州の高杉晋作は奇兵隊で実証したのです。これに学ばぬ手はありません。従来の軍事力を補完し、農民出身者を小銃隊として編成するメリットはいくつも挙げられます。
 あらたに赤報隊を組織したので、小銃が足りなくなります。多度津藩が慶応期において、大量の小銃買付けに走った理由のひとつはここにありました。赤報隊のための小銃購入だったのです。ちなみに赤報隊のためのミニエー銃60丁は千両の支出で藩予算の支出総額の3割半にあたります。
 赤報隊に初出動が命ぜられたのは、慶応四年(1868)の高松征伐のときです。
高松藩は、同年正月五日に鳥羽伏見で官軍と戦って朝敵とされ、藩主松平頼聡は官位を剥奪され、京都と大坂の藩邸も没収されます。同十七日に土佐藩士片岡健吉率いる土佐郡が丸亀城下に到着し、高松征伐の勅命を伝達します。そこで一九日には丸亀藩200人、多度津藩50人が先鋒として高松城下に向かいます。このときの多度津藩の兵員が多度津藩大目付服部喜之助に率いられた赤報隊でした。
 征討軍を迎えた高松藩では、すでに朝廷に恭順の意を表していて、19日には高松城を開け渡し、浄願寺に謹慎していました。丸亀・多度津両藩の征討軍は、石清尾山に布陣しますが、戦う意志がないことを確認し、土佐藩とともに高松城を受取り、21日には多度津に引揚げています。赤報隊の「戦歴」はこれだけです。彼らのその後は、どのようになったのでしょうか。それを語る史料にまだ出会えていません。
 赤報隊が50人編成で、その規模は小さい部隊です。
しかし、奇兵隊と比較してみると長州藩は37万石で1500人程度の組織だったとされます。これは一万石で40人弱の規模になり、多度津藩と変わらない隊員数になります。その扶持米と小銃調達に伴う支出額も、決して軽いものではありません。多度津藩の兵制改革の積極性を示すものとみることができます。
 しかし、長引く「戦時予算」で軍事支出は増大し巨額の借金が増え続けます。
 慶応四年(1868)5月付の「御軍用御入目請払帳」から多度津藩の軍費会計の収支決算書を作成すると次のようになります。
この決算額約一万三千両というのは、当時の江戸の米相場に換算すると米一石は金で約四両となるようです。多度津藩が慶応四年にミニエー銃をはじめ火器購入のために支出した代金は、石高に換算すると約3250石となります。これは藩石高の33%になります。
 慶応四年人金額一覧表を見ると、藩の元方、吟味方、元方よりの入金の下に、湯浅為八、木谷綱輔、木元茂三郎、岡栄治、佐藤栄助、大塚茂佐衛門、大塚新太郎、和泉屋源助など人名が並びます。これは多度津の商人からの献金によって調達された資金のようです。ここからは藩財政が地元の有力な商業資本からの支援なしでは立ちゆかない状況がうかがえます。ここにも天保期の湛甫(新港)修築という藩運を傾けた大事業が、地元商人たちの利益につながり、それを契機とし多度津藩の兵制改革にも支援協力をおこなっている姿が垣間見えます。

次の表は軍事装備費の支出状況を費目別に整理したものです。
総額12689両余の内訳は、
銃砲購入代金として、大砲・小銃に  1289両
大岡藤左衛門へ             65両
江戸・横浜への小銃支出       5193両
その他の小銃代            387両
以上の合計額が           6934両
それは年間支出総額の53%にあたります。これ以外にも弾丸・雷管・火薬類に1722両が支払われています。鳥羽伏見の戦いによる「戦時予算」であったとは言え、軍備充実政策が藩財政を破綻に追い込んでいることが分かります。多度津藩という一万石の外様小藩が、その財政規模や藩政機構の限界を無視して行った兵制改革の顛末がここに現れているようです。

 時代を先取りし、その実績を持って新政権のなかで一定の地位を占めようとした多度津の狙いは小藩にもかかわらず幕末に独自の軌跡を残しました。しかし、藩の経済力をはるかに越えた軍事支出は、大きな負債となり破滅的状況を迎えます。多度津藩は、明治4年の廃藩置県を待たずに、新政府に対して廃藩の認可を求める上奏をしなければならない状況においこまれます。
 しかし、藩主は去っても地元資産家は残ります。
そして、幕藩体制の桎梏から解き放たれ商業資本家から産業資本家へ変身を遂げ、西讃地方の近代化のトレッガーとなっていきます。それが「多度津七福人」と呼ばれる資産家達です。その若きリーダとして登場するのが景山甚右衛門なのでしょう。

参考文献 三好昭一郎 慶応期外様小藩の兵制改革   讃岐多度津藩の小銃政策をめぐって 

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