多度津藩の初代京極高通は、正徳2年(1713)二年四月十九日に、将軍徳川家宜から多度津領知の朱印状を授けられます。このときが多度津藩が名実ともに成立したときになるようです。幕府からの朱印状の石高は次のようになっています。
公儀より京極高通への御朱印状
讃岐国多度郡之内拾五箇村、三野郡之内五箇村、
高壱万石(目録在別紙)事充行之屹依正徳之例領知之状如件享保二年八月十一日京極壱岐守どのへ
ここからは多度郡の15村と三野郡の5村の20村でスタートしたことが分かります。そして石高はぴったし1万石です。家臣の数は91名の小藩でした。その家臣団をサラリーで階層化したのが下の表です。
10俵は二石五斗ですから、家老などの重役4人でも、100石に届かないことになります。また、石高層が一番多い10~19俵が46名と、約半分です。宗家の丸亀藩に比べると給料面では見劣りがします。分家の悲哀が感じられます。給米額が10俵以下の下級家臣団をもう少し詳しく見てみましょう。
① 多度津番・蔵付・下横目・代官手代などの下級家臣は、苗字も持たない軽輩層が担当者になっていること。② 大庄屋が家臣団のなかに位置づけられていること。
例えば多度津番の仁兵衛の場合、給米わずかに10俵という禄高です。これは二石五斗ですから、これで一家の生計を支えることは出来なかったはずです。そのために生計の途(本業?)は、他にあったとおもわれます。「サイドビジネス」を持っていたのでしょう。
一方、伊兵衛と与三兵衛は大庄屋でありながら三人扶持が与えられています。この役職は多分に、豪農層への名誉職的なものであったと考えられます。もともと小藩の数少ない家臣団を、補完(水増し)するために、豪農や富商が家臣団に登用されたようです。また、多度津藩は陣屋町経営にも豪農・豪商・中間知識層などを登用しています。
藩による陣屋町経営に参加していた人名を抜き出すと、次のようになります
庄屋の塩田武兵衛、塩田周兵、大年寄には草薙伝蔵、藪内彦兵衛、岩田理兵衛、元締には庄屋の控えで補佐役の小国嘉兵衛が、地方には浜口屋甚兵衛、三井屋次吉がいずれも屋敷調べに当たり、町役人として小国兵吉、塩田武兵衛、吉田勘兵衛、香川理右衛門、香川理吉、瀧本文左衛門が、その他に御殿医四人、町医者二人、手習師匠三人、町道場主二人
これらの町人層にも何らかの役割が与えられていたようです。
行政面や町方経営に裕福な町人層・知識人が家臣として加わる体制は、これは時代を経るに従って藩と豪農・富商層の密接な関係を深めていく結果になります。これをプラス面から見れば、藩と地主や大商人層の垣根が低く官僚集団として一体化していくことになります。幕末の多度津藩の「陣屋+新港+軍隊の近代化」という小藩のチャレンジを可能にする原動力は、ここから生まれたのではないかと私は考えています。
多度津藩の『五人組帳』から見えてくるものは?
江戸時代の村支配の最少単位は五人組制度でした。多度津藩の『五人組帳』には、藩の勧農・貢納・農民支配・訴訟など13か条におよぶ政策方針が示されています。その主要部分を見てみましょう。
差上申一札之事一 御支配人、添役衆惣て御家中迄名主百姓に対し、依恬聶負御座候義、又者少分たりとも非分成義御座候ハ無拠可申上事一、御年具(年貢)皆済不仕以前二他所へ米出シ申間敷候、若シ能米売替悪米を御年貢二納申候ハ 当人者不及申、
名主五人頭迄も何様之曲事二も可被仰付候 弁御年貢御蔵入いたし候、あら紛無之様二米拉致シ、繩俵拉二て諸事御定之通り入念御蔵入之時分 御支配人より被御渡候庭帳二付、還納主銘々判形致可置申事一、男女二不依、欠落もの郷中へ参候ハ押置早速可申上候、猶以先々により構有之由届有之者、早速寄合吟味いたし申上得と御下知可申事、(中略)一、惣而家業を専一相勤、親二孝行、主人二忠を尽し、師匠又者老たる人を敬い、物毎于に心を合せ村中区々二無之取締行届候様取計.貧民を憐救い奇特之もの早々可訴出事、右之通此度申渡候間、五人組前書一同月々読諭シ、悪事二不移善道二導候様心掛、可若違背致候もの有之者、当人者不及中組合村役人迄急度可被仰付もの也天保七申年
多度津藩でも村落支配構造は、大庄屋→庄屋→組頭→五人頭→五人組という系列であることは変わりありません。五人組を最末端組識とし、さらに五組、二五戸で大組を形成し、この大組から五人頭を出します。大組はまた四組、約100戸の組織体として、その代表者を組頭に選出して、庄屋を助けることになっていました。
五人組は、年貢を納める際の連帯責任体制として組織されたものですが、同時に農民にとっては、小農経営を維持するための共同体としての役割もあり、彼らにとってこの組織を離れて生きてはいけません。
『差上申一札之事』のポイントを挙げると
①年貢を全て納める前に、産米の売買を禁じていること
②上納の際に、能米(良質米)を売却し、悪米(廉価米)を買入れて上納し、その差額を得るような行為を禁じていること。これは、良質米を全て年貢として納めさせることで、最大の商品である蔵米を、大坂市場に売却し、逆に大坂において廉価米を買入れることを藩の手で行い利潤を独占する意図があったようです。うまくて良い米は売って、安い米を買って領民には食べさせていたということになります。
③領民の欠落(没落)を防ぐために、欠落者の処置についての規定があり「牛濤により構有之 由届有之者、早速吟味いたし申上得御下知可申事」と処置策が示されています。対策がされているということは、逆に言えば、農民の離散・逃散が頻繁にあったことを物語ります。
④農民の村共同体での結びつきの強化を進めると同時に、農民層の両極分解が進むなかで、貧民救済や相互扶助についても触れられています。そのうえで、村役人の職務分担と村落内において処理できない問題については、より広域の組合村落によって解決をはかることが命じられています。
⑤この触書は、毎年正月に実施される宗門改めのとき村役人が読み聞かせ、その遵守を誓約させたのち、署名押印させていたようです。五人組を最小単位にして、村共同体のネットワークの中に囲い込んでいたことが分かります。
ところで、多度津藩の人口はどのくらいだったのでしょうか。
幕末期の多度郡十四か村の戸数・人口は次の表のとおりです。
多度津への人口集中の背景には、
①陣屋建設に伴い藩主が丸亀から引っ越してきたこと、②湛甫(新港)築造と、その後の経済的な発展③それにともなう周辺からの人口流入
などが多度津の人口集中現象の要因と考えられます。どちらにしても、幕末の多度津や金比羅は経済的な好景気に沸いていたようです。その景気の過熱はインフレと米価高騰を招きます。天保四年(1833)に多度津陣屋町で発生した米の買占めに反対する打ちこわし米騒動は、天領の琴平門前町にも波及します。
当時の多度津家中の記録には、次のように記されています。
姫路一揆に引続、多度津一統に一揆して、米買占の者二軒を打潰し、又金比羅にも五千人計浪人共大勢其中へ打交り、屯をかまへ大に騒動に及びぬるゆへ、江戸表へ両度まて早打にて注進せしと云。されとも格別の大変にも及はすして漸々と取鎮めしと云。家老始め一家中大うろたへなりと云噂なりしか如何なる事にや其実を知らす。
ここからは次のようなことが分かります。
①二軒の米を買占めた商人が打ちこわされたこと。②琴平など他領にまで波及しているという事実。③この打ちこわしが、藩に大きな動揺をおこさせたこと。
江戸にいる藩主に二度早打ちを出し、その下知を仰がねばならなかったことからも、大きなショックを与えたことがうかがわれます。
この打ちこわしの主体となったのは、周囲の農村から流入した根無し草の人々だったのかもしれません。このような中で、多度津藩は翌年に湛甫築港を着工させます。どうしてこのような時期に?と疑問が沸くのですが、研究者は「大量流入した労働者に仕事を与え救済するための公共事業を起こす必要」があったと考えているようです。天保期の多度津藩が民衆暴動のたかまりと広がりに、危機感を持って対応していたことがこの史料からは分かります。
多度津藩の郷村石高の変化を見てみましょう
宝暦十年(1760)と左から3番目の嘉永元年(1848)の石高を比較して、88年間における石高増減見てみると
①石高が減っているのは三か村のみで、他の11か村は増えています②この背後には多度津藩の新田開発の成果がうかがわれます。③別の見方をすると収入増のために、打直し検地が実施されたのかもしれません
それにしても、藩の勧農政策による一定の成果とも考えられます。村は疲弊していません。
例えば明治三年(一八七〇)の諸品目に対する課税率一覧表にが、以下の品目が記されています。
生綿、繰綿、篠巻、綿実、小麦、大豆、胡麻、荏胡、麻油麦、味噌、鍛冶炭、婉豆、蜜.葉藍、蚕豆、黍、大角豆、菜種、藁麦、稗、種油、粟、醤油.米売粕、葛篭、白油粕、酢、米、白下砂糖、佐伯取粕、菅笠、網代笠、木綿、白砂糖、繩、芋、
ここには37品目の農産物および農産加工品があります。この他にも32品目の手工業品も挙げられていて、その多様性には驚かされます。小さな藩でも商業作物が想像以上に数多く栽培されています。これが次の時代を切り開いていく潜在能力になります。ここからは当時の多度津藩の農業生産性は、高水準にあったことがうかがわれます。
多度津藩の新田開発は灌漑・水利事業がポイント
多度津藩の新田開発は灌漑・水利事業がポイント
讃岐は雨が少なく旱害を受けやすい所です。そこで讃岐は、江戸時代になると平野部でも溜池濯漑が整備されてきました。多度津藩でも溜池築造と、その運用は藩政上でも大きなウェイトを占めていたようです。
新田開発による石高増加のパターンを、葛原村で見てみましょう
旧金倉川の伏流水が流れると言われる殿井は水量が豊富な出水です。今でもこの周辺には清酒金陵の多度津工場があり、美味しい水をつかって酒造りが行われている所です。殿井の出水は大木15町歩が水掛りで、多度津藩政初頭には開かれていたと云われます。それまでの葛原村は旱魅の常習地だったようです。
『讃岐のため池」には次のように記されています。
ある時、八幡の森に清水がわき出ているのを見て、これを水源にと堀を掘らせたのが、いまの殿井、かっては八幡湧と呼ばれていたとか(中略)やがて旅寵ができ、茶店が出、湯屋まで出現して、宿場としてにぎわいを見せた。森の西側には千代池、中池、佃の四つの池があり、その総面積が八町歩あった。
このため池群の整備をすすめ新田を拓いていったのは、近世初頭に安芸からやって木谷家であったことは以前述べました。木谷家が築造した上池は水掛り約二八町歩、千代池が約五〇町歩、買田池が五四町歩というように、殿井の開かれたことによって、約一三〇町歩の水掛り区域をもつようになり、葛原村の新田開発は、その後に急速な進展を見せます。これが藩が出来てわずか半世紀で26%の新田高増となる原動力となっているようです。
多度津藩は天領の満濃池修築への人夫派遣要請にも、さまざまな理由をあげて断ることが多かったようです。それは満濃池の水路から一番遠いエリアに当たる多度津藩までは、水が充分に供給されないことの方が多かったからのようです。それが素直に労働力を提供できない理由のひとつでした。そのためにも自前のため池群の整備が急務でした。
最後に多度津藩の農民負担について、見てみましょう
三野郡の『大見村細見目録写』には次のような記録が残っています。
高弐百九十七石八斗八升三合五勺一、弐拾壱町八反九畝拾四歩本村免五ッ三歩御物成 百五拾七石八斗七升弐合三勺高百四拾弐石弐斗六合一、拾壱町八反五畝廿歩竹田免五ッ五歩御物成 七拾三石三斗四升五合壱勺 高三拾七石八斗壱升七合一、三町八反弐拾三歩浜免四ツハ歩御物成 拾八石壱斗五升弐合五勺 高八拾九石三斗弐升七合五勺一、七町壱反四畝廿四歩上免四ツ九歩原村下免四ツ九歩御物成 五拾弐石四斗八升四合九勺高/五百六拾九石弐斗三升四合畝数 四拾四町七反廿壱歩御物成 三百弐石六升六勺
天保二年(1832)の大見村の本村に課せられた本途物成の年貢率は、五ッ三歩=53%で、竹田村が55%、浜村が48%であったことが分かります。課税は、これだけではありません。他に小物成・高掛物・夫役の賦課額が加わります。それを考えると、当時の多度津藩の農民には極めて高いの貢租賦課率が課せられることが分かります。
天保年間に行われた湛甫(新港)築造という大事業は、農民に対してこの負担の上に臨時の国役賦課がかけらたことになります。これは農民にとっては、重税の上の増税とも言えます。数字上では、これ以上の増税を実施することは無理な状況です。農村への課税強化をこれ以上行うことができなかったことが、ここからはうかがわれます。
軍備近代化のための資金捻出を多度津の商人達に頼らなければならなかった背景が見えてきます。
参考資料 三好昭一郎 多度津藩政の展開と幕末期の経済基盤 幕末の多度津藩所収
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