古代の遺跡を見る場合に、その当時の地理環境を復元することが大切なようです。例えば古代と現在の海岸線では大きく変わっています。川も流れを変えられている場合もあります。まず巨視的に古代の坂出湾を見ておきましょう。
この地図は標高3m以下にグラデーションを付け「海の下に沈めて」古代の海岸線をよみがえらせたものです。五色台の先端を境に備讃海峡の東西両側の平野部に、大きく湾入する低地が浮かんできます。東側では、高松市街地と屋島の間に大きく湾入する低地で、近世の干拓の範囲と重なります。屋島は陸と離れた島で、この地域の中心は現在の古高松とその外港である方本(かたもと)湊です。そして現在の高松市街地は郷東川の河口で、野原村がありました。これが中世以前に存在した海域「古・高松湾」です。このエリアについては以前紹介しました。
目を西側に転じると、坂出市街地にも深く湾入する低地があります。
大屋富一青海一高屋一林田-西庄一江尻一福江一坂出一御供所
と集落が連なる旧海岸線と、その中央に幾筋もにも分かれゆったりと注ぎ込む綾川が浮かび上がってきます。西には宇多津、東には木沢・王越があります。これらの海域世界を研究者は「古・坂出湾」と呼んでいるようです。古・坂出湾には、港がいくつかありました。

この中で中世史料に登場するのが松山津と福江です。
「松山津」の史料上の初見は、西行が崇徳上皇の慰霊のために讃岐に渡ってきた時の様子が山家集に次のように記されています。
「讃岐に詣でて、松山の津と申所に、院おはしましけん御跡尋ねけれど、形も無かりければ]
これに続いて『白峯寺縁起』(1406年、応永13)に「松山津」と見えます。これら以外は「津」がなく「松山」とのみ記す史料ばかりで、『とはずがたり』(1313年)や新葉和歌集(1381年)、『鹿苑院殿厳島詣記』(1389年、康応元)などがあるようです。
ここから中世に「松山津」があったことは確かなようです。
古・坂出湾拡大図 島は津山と聖通寺山
もう一方の福江は、私は初めて聞く名前でどこにあるのか分かりませんでした。 福江は現在の坂出市街の南側にそびえる金山の麓にあった湊で、
坂出商業や坂出高校は海の中にあったようです。神櫛王の悪魚伝説を伝える「綾氏系図」(南北朝期)に「福江湊浦」と記されています。また、兵庫関に入った船に「福江丸」があったことが記録されています。(1460年、長禄4、「六波羅蜜寺文書」)ここからは崇徳院御影堂領北山本新庄の年貢積み出し港としての役割をもった湊がここにあったことがうかがえるようです。
坂出商業や坂出高校は海の中にあったようです。神櫛王の悪魚伝説を伝える「綾氏系図」(南北朝期)に「福江湊浦」と記されています。また、兵庫関に入った船に「福江丸」があったことが記録されています。(1460年、長禄4、「六波羅蜜寺文書」)ここからは崇徳院御影堂領北山本新庄の年貢積み出し港としての役割をもった湊がここにあったことがうかがえるようです。
また、『玉藻集』(1677年、延宝5)には、天正7年の香川民部少輔(西庄城主)の讃岐復帰の際のこととして、次のような記述があります。
讃州宇足津の浦にわたる。香川、潮を計て遠干潟の坂出の浜魚の御堂より八町計沖の方を一文字に渡し、西ノ庄へ押着ける。(中略)彼中道と云は、聖通寺山より西ノ庄の間一里なり。外は道なく、陸路の方より八町計は歩の者足も立たざる深江なり。沖は満汐にてなけれ共、猶足入なり。
ここには戦国時代末期に香川民部が西ノ庄の城に帰る際に、宇多津から角山(津の山)の北から西の庄に向けて「潮を計り」って干潟になった「海の中道」を押し渡ったと記されます。海の中道は、現在の坂出市寿町2丁目、本町2丁目、元町2・4丁目の砂堆のことです。これが戦国末期には形成途上で、福江の浜との間はまだ水深があり、福江の港湾機能は維持されていたことがうかがわれます。確かに福江の街並みを歩いてみると、石組みの古い井戸が残されたりしていて瀬戸の島の港町の雰囲気が感じられます。この地域が中世までは、古・坂出湾の西部の湊町だったようです。
古・坂出湾の東側=「松山津」と、西側=福江浦(のち御供所・平山・宇多津)の対抗関係は?
砂堆形成、潟湖埋積、河道変化などの地形環境の変化を背景に、各時代ごとの湊の盛衰の推移を簡単に見ておきましょう。 図式としては、
両者の並立(7世紀)→「松山津」の優勢(8~12世紀)
→宇多津・平山・御供所の優勢(13~17世紀)→坂出浦の興隆(18~19世紀)
という流れを研究者は考えているようです。
2 レベル2:備讃海峡》
海峡の西側(古・坂出湾)と東側(古・高松湾)は、讃岐国内での港湾機能をめぐる対抗関係がありました。それは政治拠点がどこにあったかということと結びついています。
図式としては、
両者の並立(7世紀)→古・坂出湾の優勢(8~14世紀)→
両者の並立(14~16世紀)→古・坂出湾の優勢(16世紀末葉)→古・高松湾の優勢(16世紀末葉~17世紀中葉)→古・坂出湾外周地域の拡張・丸亀城下町建設)と、両者の並立(17世紀中葉~19世紀)
という流れを研究者は考えているようです。
まず総社神社の由来です。古代、国司にとって「国祭り」重要な任務の一つでした。そのためは各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたといいます。しかし、これは手間暇が掛かるので国府近くに国内の神を集めて合祀した「総社」を設け、まとめて祭祀を行うようになったようです。この総社神社は、もともとの讃岐国の総社だと、この神社の由来は伝えます。確かに、府中に近く松山湊にも近い地理的にはふさわしい場所に鎮座する神社です。
社殿では、旧林田村の郷社であり、926年に国府近くにあったものが現在地に移ってきたといいます。戦国末期の1597年(慶長2)に新社殿が建てられ、江戸時代には現在のような状況になったようです。どちらにしても讃岐一国の総社として存在したのは10世紀以降のことと研究者は考えているようです。
境内には総社神社遺跡があり、弥生時代中期中葉の壷形土器がほぼ完形で出土していることから、これまで弥生時代の遺跡とされてきました。しかし、改めて遺跡の立地を見ると、総社神社境内と東側・北側にまとまる総社集落は、周囲の土地とははっきりとした高低差がある微高地です。最初に見た国土地理院「5mメッシュ標高データ」でも、このエリアが小高い場所であることが確認できます。つまり、総社神社周辺の微高地は、自然堤防もしくは砂堆で「古代の古・坂出湾において最も海側に突出した安定した地形面に遺跡が所在」する場所で、8~9世紀の綾川河口の林田郷において、唯一の臨海性遺跡といえるようです。
この遺跡からは製塩土器や漁携具が出て来ない代わりに、畿内系土師器が出てきます。ここからは、外部との交易活動を行う港湾機能をもった湊ではなかったのかと推測できます
古・坂出湾の古代臨海性遺跡としては、福江浦に近い文京町二丁目西遺跡があります
3.菅原道真が「寒早十首」を詠ったのは林田湊?
讃岐に国司としてやって来た菅原道真は、庶民の生活に視線を注いでいます。『菅家文草』巻第三の「寒早十首」には「賃船の人」(206)・「魚を釣る人」(207)・「塩を売る人」・「商(塩商人)」(208)が、津頭(港のたもと)に集い売買や廻漕の請け負いをする姿が詠われています。
何人寒気早 誰に寒さは早く来る寒早釣魚人 寒さは釣魚人に早く来る陸地無生産 陸地じゃ何にもできないから孤舟独老身 じいさん一人で舟の上撓絲常恐絶 釣り糸切れそうで心配し投餌不支貧 魚とれても貧乏のまんま売欲充租税 税金ばっかり取られっぱなし風天用意頻 風空まかせのその日暮らし何人寒気早 誰に寒さは早く来る寒早売塩人 寒さは塩作人(塩汲み)に早く来る煮海雖随手 塩焼きは手馴れているけれど衝煙不顧身 煙にむせて身を擦りへらしている旱天平價賤 お天気続きは塩の値段を下げちゃうから風土未商貧 この地で塩商人は大もうけ欲訴豪民攉 お役人に訴えたくて、港で待っているんだ。
886年(仁和2)に作られたと見られるこの漢詩を通して、たくましい庶民の暮らしが見えてきます。 讃岐人にとって、先祖に当たるこの人達を道真が見かけた湊はどこなのか?というのは古くから興味の的でした。まず最初に思い浮かぶのは、
「予れ近会、津の11る客館に、小松を移し種ゑて、遊覧に備へたりき」
との自註(234)があり、別の詩(222)で「小松を分かち種ゑて」と詠んだ「官舎」=「松山館」に程近い「松山津」です。しかし、松山津は現地に立ってみると分かるとおり雄山・雌山の東側に広がる入江に面した閉鎖的な港湾です。そのため
「松山館の主要機能は要人の接待・逗留であることから、限られた人的な移動(交通)を前提にするものであり、一般的な流通とは一応切り離される」
と考える研究者が今では多いようです。
これに対して林田郷周辺は、綾川の河川交通と海運が結びつく結節点です。「石清水八幡宮文書目論」(石清水文書)の1023年(治安3)の文書で讃岐国の石清水領として見える「林津」が、林田巷湾(林田津)とも考えられます。
したがって「寒早十首」のいう「津頭」とは、林田(林津)の一角と捉え、総社神社遺跡周辺が最もふさわしい場所と多くの研究者は考えているようです。
また、この漢詩には「津頭」には、「塩を売る人」が塩商人を訴えることを考えた「吏」がいたことが詠われています。ここからは、港湾の管理を行う役人と役所が存在したことがうかがえます。このような機能を持っていたのが総社神社遺跡のようです。
次は林田町の綾川右岸に鎮座する総倉神社を見てみましょう。
先ほどの総社神社とよく似ていますから混同しないでください。
この神社の近くには西梶と東梶という地名が残っています。梶は「舵」で中世の船舵たちの拠点であったと考えられている地域です。
ここには地元で「碇石」と呼称される石造物が2基あります。西碇石は総倉神社の西約150mの水田の中に、東碇石は同神社の東約100mの宅地にあります。
これらは『綾北問尋紗』(1755年、宝暦5年)には次のように記されています。
攬(ともづな)石 〔神功〕皇后御船の梶取し石とて東西にあり。其間十町計り。
神功皇后がここに着岸したのは、「三韓征伐」の際に強風が吹き航行が危険になったためと、同書の「東梶・西梶」の項で記されています。同じような説話は、幕末の『讃岐国名勝図会』にもあります。また、総倉神社境内の石製注連柱(1888年、明治21)の片側には「霊区碇石表神威」と刻されていて、総倉神社との関わりをうかがわせます。しかし。これは明治の神仏分離以前には牛頭天王(惣蔵天王)と呼ばれていたこの神社が神功皇后の船の右揖を守護したとする伝承(『綾北問尋炒』「東梶・西梶」「牛頭天王」の項)に由来するもののようです。
「綾北問尋炒」では、両碇石(徴石)の間隔は10町(約1,100m)とされていますが、現在は約250mです。この違いはどこから来るのでしょうか。
同書が書かれた時には、東の碇石が東梶神社周辺にあったのではないかと研究者は考えているようです。ちなみに西碇石から東梶神社旧境内地までは800m程度であり、字「城ノ角」の東限までは約1,100mであることから、この推測は距離の点では整合します。
東碇石が現在の石造物になったのは、神社郷士運動が進められる明治末期頃に東梶神社が総社神社に合併され、拠るべき伝承地がなくなってしまったためのようです。その時に、東碇石が東梶から移されたのか、新たに西梶の石造物が東碇石とされたのかは分かりません。
東西の碇石を考古学者は次のように分析しています
西碇石は五夜ケ嶽産の凝灰角傑岩で作られた六角石憧であり、東碇石は五夜ヶ嶽産凝灰角傑岩の五輪塔水輪と考えられる。両者ともに15~16世紀の所産と思われ、伝承で語られるような係船石柱ではないことは明確である。
つまり、碇石(緻石)というのは事実無根な伝承ということになります。しかし、この地域の石造物の多くが総社神社や薬師院(総倉神社)に集められたのに、西碇石だけは、ぽつんと水田の中に斜めに埋まって残されたのでしょうか。その不思議さは消えません。
2.中世の梶取名と「潮入新開」
先ほど述べたように中世の東梶・西梶は、八坂神社文書や「昭慶門院領目録案」、薬師院所蔵の鰐口銘(1390年、明徳元)には「梶取名」と呼ばれていたことが記されています。
京都の祇園社は、文永年間(1264~74年)に林田郷内の「湖(潮力)人新開」を寄進され、開発を進めていました。この「新開」はどこなのでしょうか?
祇園社関係の史料を見ると、 1340年(暦応3)の「顕増譲状」に次のような記載があります。
讃岐国・(潮力)入新開田内壱町 塩浜五段内三反坪附等在之
「塩浜5反のうち、3反分に条里の坪付がある」というのです。ここから塩浜(塩田)の一部は条里制の中にあったことが分かり、条里型地割の広がるエリアに近接して塩田があったうかがわれます。ここで祇園社領の新開田が、「湖入新開」あるいは「潮入新開」と記されていることを再確認すると「湖入」というのは、綾川旧河道と砂堆の間のラグーン状の水域と推測できます。以上から八坂神社領として新田・塩浜の開発が行われたのは、東梶・西梶・川向(以上、林田町)、東条・南条(以上、江尻町)付近のエリアの範囲内であったと研究者は考えているようです。
条里型地割を伸ばしての開発と、地形に応じた不定形な開発単位。この二者が、綾川河ロエリアの中世開発パターンであったようです。京都の祇園社は、そうした土地や飛び地を少しずつ開発したことが見えてきます。
以上をまとめると
①古代讃岐には五色台を挟んで「東の古・高松湾と西の古・坂出湾」のふたつの大きな湾入があった。②古代の古・坂出湾では、林田津と福江津が並び立っていた③総社神社遺跡が古代林田津であると考えられる④菅原道真が「寒早十首」を詠ったのも林田湊ではないか?⑤総倉神社周辺は、京都の祇園矢坂神社の荘園があり周辺の開発を行っていた。
参考文献
西村尋文・佐藤竜馬 綾川河口域における開発史一古代から中世の林田郷周辺-
香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ
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