この地図は、約90年前の昭和7年(1932)に作られた綾歌郡林田村の行政地図です。現在の坂出市林田町ですが、この地は古代讃岐国府の外港があったところです。まず地図を見ながら旧林田村のアウトラインを掴んでおきましょう。
西側を綾川が南から北の瀬戸内海へ流れ出しています。北側の海岸線は一直線で、埋め立てられて塩田化しているようです。そして、埋め立てられる前の旧海岸線沿いに人家が集中しています。
東側は雌山・雄山が並んで、その麓の微髙地に集落が形成されています。ここには、総社神社が鎮座していて、古代はここから先が海でした。南は条里制跡が残り、整然とした土地区画が続きます。つまり、南側は古代から陸地で水田化が進んだことが窺えます。
この地図の中央から北に掛けては条里制の跡はみられません。今は西を流れる綾川が、古代には幾重にも別れ、湿地・水郷地帯を形成し、耕地化を拒んできたきたようです。その中に浮かぶ島のような微髙地に人々は集住し、周辺の開拓・開発を進めたようです。その歴史を、この地図から読み取って行きましょう。
この地図の中央から北に掛けては条里制の跡はみられません。今は西を流れる綾川が、古代には幾重にも別れ、湿地・水郷地帯を形成し、耕地化を拒んできたきたようです。その中に浮かぶ島のような微髙地に人々は集住し、周辺の開拓・開発を進めたようです。その歴史を、この地図から読み取って行きましょう。
現在の林田出張所には、江戸時代の検地帳が残されています。そこには、地目・地位等級・面積・耕作者のほか、田畑の呼び名(古地名)などが記されているものもあります。また、明治時代に作成された数種類の絵図も保管されていて、田畑1筆ごとに赤字で地番、黒字で地目・地位等級・二号・人名(所有者)が記されています。絵図の赤字の地番と所有者、文化年間に作成された『阿野郡北林田|||巨道帳』に添付された貼り紙に記された赤字の地番と所有者を見比べると、ほぼ一致していことから、文化年間の検地帳の貼り紙に記された赤字の地番と、地引絵図を対照させることで、検地帳に記された古地名の場所が現在のどこに当たるのかを比定することができます。口で言うのはたやすいのですが、この比定作業は気の遠くなるような手間と時間がかかることは、私にもおぼろげながら分かります。
この作業の結果、どの田畑にどんな古地名が付いていたのかが分かります。研究者が復元した地図を見ながら江戸時代以前の林田町の地形・開発・構造物などについて追いかけて見ましょう。
古地名からは大きく分けて、次のような4つの情報を読み取ることができます。
①構造物または付近の構造物、
②地形
③土地利用
④田畑開発の時期に由来するものが多い
①には「寺ノ西」・「祇園前」・「宮ノ脇」・「宮武新開堤」などで、ここからは寺や神社に近隣することが分かります。また、「宮武新開堤」は宮武氏が開発した堤であることを示します。
②は「須が端り(すがべり)」・「さこ」などで、前者は砂州の端、後者は低地を表します。
③は「新開畑」「茶園」などで、「新開畑」は新たに開発した畑、「茶薗」は茶畑です。
④は「元禄六酉新興」「延宝二寅新興」・「宝永元申新興」などで、年紀が入ります。「興」は開発を表すので、「新興」は新開発した田畑を表しています。
第7図は、林田町の小字名と微高地に当たると思われる箇所を黒く示した図です。これを見ると、林田町の南東部(標高2.5~5.0mの平地)には条里制地割が広がっていることが分かります。つまり、条里制が実施されているエリアは安定した陸地で会ったということです。それに比べてまた、林田町の北部、標高2.0m以下の平地には江戸時代に開発された田畑が多いことも分かります。つまり、それまでは湿地・荒地として放置されてきたようです。
黒くメッシュ掛けされた部分が微髙地です。
この部分に古くからの神社が鎮座し、その周辺に人家が集中しているのが分かります。台風時の洪水を避けることが出来た微髙地に人々は、家を建てて周辺の湿地を開発していったのでしょう。
この部分に古くからの神社が鎮座し、その周辺に人家が集中しているのが分かります。台風時の洪水を避けることが出来た微髙地に人々は、家を建てて周辺の湿地を開発していったのでしょう。
このエリアは現在の雄山の南から綾川にかけての地域で、現標高は2.5~5.0mです。黒い部分は微髙地ですので「上」の中央部から「角戸」にかけて、南北に細長い微高地があり、その上に集落があります。その東は、下所にかけて条里型地割りの田畑が広がり、新興住宅が点在します。
微髙地の上には、次のような建物を示す古地名が残ります。
「蔵尻」・「地蔵ノ元」・「道西」・「今井井手西ノ上」・「三時今井井手東」
「蔵尻」は「上」の南端にあたります。「蔵尻」の北西方200mに「地蔵ノ元」が見えます。この付近に地蔵さんがいたことを暗示しますが、今はなにもありません。
「地蔵ノ元」の南100mに「道西」があります。
これは道の西にある土地からついた地名のようです。この田の東を南北に走る道に[地蔵ノ元]は隣接していたようです。「道西」や付近に地蔵があることから、この南北の道は当時の幹線道路と研究者は考えているようです。ひょとしたら国府から林田湊への幹線道だったのかもしれません。
「上」の南西の角に「今井井手西ノ上」があります。
現在でも「今井井手」と呼ばれる用水路がこの田畑の東を走っています。今井井手は、林田町の南方の府中町で綾川から取水し、林田町に水を供給しています。
地形との関りが深い地名には「流田」があります。
地形との関りが深い地名には「流田」があります。
「角戸」の南東に「流田」があります。位置的には、坂出市立白峰中学校の西方150mになります。「流田」は、かつて洪水により田が潰された土地によく付けられる地名です。この付近は南北の細長い微高地の東側の低位部になり、地形的にもぴったりと合います。古代において綾川は、この辺りを台風の洪水のたびに奔放に流れを変えながら海に流れ出していたようです。しかし、ここから東側は条里制が残りますので、古代からの耕作地ということになるのでしょう。
B 祓川西岸(川向・長明寺・野末)
綾川の左岸(西岸)の「野末・川向」の境には
「寺ノ西」・「寺裏」・「寺東」・「寺前新開」・「長命寺新開」
の古地名が残ります。『阿野郡北絵図』には、この付近に高照院という寺が記されています。現在の高照院は坂出市西庄町にある四国霊場79番札所です。現在の高照院のある場所は、江戸時代には妙成就寺があったようです。この寺は讃岐へ配流された崇徳上皇を祀る御廟の別当でしたが、明治初年(1868)の神仏分離令によって廃寺となりました。その後、末寺の高照院が現在地に移転し、79番札所を引き継いだようです。今はここに高照院があったことを示す遺構や碑はありません。しかし、これらの古地名から移転する前の高照院の場所がよくわかります。
寺院の名称をもつ地名としては「長命寺新開」があります。
「長命寺新開」は、綾川に架かる長命寺橋と三井橋間に挟まれた綾川西岸の堤防のすぐ西にあたります。長命寺は、讃岐に流された崇徳上皇が3年間過ごした場所とされます。この寺は戦国時代に長曽我部氏の兵火により消失し、崇徳上皇御親筆の柱だけが1本残りますが、万治年間(1658~1660)の洪水で綾川の堤防が崩壊し、この柱も流失してしまったという伝承が伝えられます。「長命寺新開」の北方100mには、「崇徳天皇駐暉長命寺奮趾」と刻まれた石碑が大正時代に建立されています。
この地域には「新開」という開発を表す次のような地名が数多く残ります。
「長命寺新開」以外にも「二天新開」・「新開」・「道新開」て「人名口新開」・「道西新開」・「寺前新開」・「裏道之端新開」・「帰佐古新開」
ここからは、この一帯が湿地や荒れ地を開発し、田畑にしていったことが分かります。
年紀の入る地名は「野末」に「正徳五未新興」があります。ここは今は堤防となっていますが、地名から正徳5年(1715)に新たに検地された田畑として登録されたことが分かります。
『綾北問尋紗』には正徳5年(1715)の50年ほど前に大洪水がおこり、この付近は荒廃し「流田」になっていたと記されています。それを後再開発したことから、新開という地名が数多く残っているようです。ここからは、綾川河口の開発が江戸時代の元禄年間に本格化したことがうかがわれます。
C)雄山の麓から祓川東岸の林田町中部から南西部(字中川・東梶乙・城ノ角・三十六・川原・西梶・前場・惣社・馬場北・馬場南付近)
この付近の綾川右岸(東岸)には、構造物があったことを示す地名が数多く残っています。「東梶乙」には「蔵ノ元」「蔵元」、「城ノ角」には「蔵佐古」「城屋敷」・「蔵前苫屋敷」「馬場北」から「惣社」には「弁財天西」・「弁財天裏」・「宮添」・「宮添井手東」・「井手東」・「井手西」・「道北井手内西」、「東梶乙」には「ゑび堤添宝永六巳新興」、「西梶」には「宮ノ脇」・「宮ノ東堤下屋敷」・「寺裏」・「祇園前」・「祇園前新開」・「祇園東さこ新開」などが残ります。
この地域は船の「舵取り」たちの居住区だったといわれるます。瀬戸内海を交易する船頭や船乗りが生活し、周辺には蔵が建ち並んでいたとも伝えられます。
東梶乙の「蔵ノ元」・「蔵元」は、綾川の右岸(東岸)堤防から100mほど東の土地です。
東梶乙の「蔵ノ元」・「蔵元」は、綾川の右岸(東岸)堤防から100mほど東の土地です。
このあたりから「城ノ角」の林田小学校付近にかけては、南北に細長い微高地があります。その上に「蔵ノ元」・「蔵元」の地名があるのは、水運に便利な綾川から近い場所に物資管理用の倉庫が立ち並んでいたことをうかがわせます。
また、坂出市立林田小学校の北方の「蔵佐古」・「城屋敷」「蔵前苫屋敷」は、微高地の北端に当たります。そして小高い所に「城屋敷」の古地名があるのは、中世城館があったことを示しているようにも思えます。しかし、かつて城があったという記録や伝承はないようです。
崇徳上皇がの仮住いとなった綾高遠の屋敷がどこにあったかは昔から議論されてきました。彼は林田郷を管轄する責任者の職務に就いていたとされるので、その屋敷も林田郷内にあったと考えられます。「城屋敷」の古地名が残るこの丘もひとつの候補かもしれません。
「西梶」の「宮ノ脇」・「宮ノ東堤下屋敷」は綾川の右岸堤防沿いに残る地名です。
「宮」は隣接する總倉神社を指しているようです。總倉神社は「綾北問尋鈴」に「西梶の牛頭天王」、「神功皇后の右舵を守らせ玉ふ神」、「威神天王とも、又は惣蔵天王とも云す」と記されています。
「宮ノ脇」の北方100mにある「寺裏」は薬師院総倉寺の北にあたります。
薬師院総倉寺は總倉神社の北にあり、總倉神社の別当であったエ薬師院総倉寺の所蔵する鰐口には「明徳元年」(1390)、「讃岐国北条郡林田郷梶取名惣蔵天皇御社」の銘があります。
八坂神社の旧名は祇園社
「西梶」の「祇園前」・「祇園前新開」・「祇園東さこ新開」は県道大屋富築港宇多津線(通称さぬき浜街道)の南方100mにあたり、「寺裏」の100m北西になります。この付近には八坂神社があります。八坂神社の旧名は祇園社ですから、これらの地名は祇園社に由来するものでしょう。祇園社は寛文年間(1661~1672)に備後鞆の祇園宮を勧請したので、これらの地名はそれ以後に生まれたと研究者は考えているようです。
惣社神社に隣接する弁財天を祀る厳島神社
「馬場北」から「惣社」にかけては「弁財天西」・「弁財天裏」・「宮添」・「宮添井手東」が残ります。
昭和7年作成の『綾歌郡林田村全図』(第2図)には「弁財天西」・「弁財天裏」付近には弁財天を祀る厳島神社が記されています。今は、厳島神社の社域は県道大屋富・築港宇多津線の道路になり、厳島神社は隣の惣社神社に合祀されたようです。「宮添」・「宮添井手東」は惣社神社に隣接することを表すものなのでしょう。
惣(総)社神社は海に突き出す北端の微高地の上に鎮座していることになります。
境内には古代のものと考えられる土器片が散布しており、古来より安定した地盤で、林田湊の最有力地であることは、前回お話ししました。
「前場」にある「鞍敷之内」は、林田町東端の雄山・雌山に挟まれた谷部で、神谷川の右岸になります。
雄山・雌山を横からみると、その間の凹み部分が鞍壷にみえることから、この付近を鞍敷と呼ぶようになったようです。
佐古(さこ)は一般的に低地・湿地を表します。
「馬場南」の「さこノ上」・「さこ」は県道大屋富築港宇多津線(通称さぬき浜街道)のすぐ北で、林田町交差点の西にあたります。「さこノ上」・「さこ」付近の地割は、細長く蛇行していることから、この付近は河川跡であったようです。
「前佐古」は綾川東岸から林田小学校付近までのびる微高地と、惣社神社付近の微高地の間の低地にあたります。「川原」の「道西佐古ノ上」は綾川東岸から林田小学校付近まで南北にのびる微高地の西側に立地していることが分かります。
また、開発を示す地名として神谷川東岸と雌山・雄山の間には
「堤下延宝二寅新興」・「水口東延宝二寅新興」・「水口西延宝二寅新興」・「橋之元延宝二寅新興」・「卯ノ興」・「興八王神下川中瀬」、神谷川西岸には「宝永元申新興」
などの地名が続きます。年代からこの周辺は、江戸時代になってから開発されたことが分かります。
(D)林田町北部(字大番南・大番北・番屋前・浜・北須賀・与北・新開・古川付近)
林田町の北端で瀬戸内海に面する「大番南・大番北・州鼻前・番屋前」には開発を表す地名が続きます。
「雀二き新興」「元禄八亥新興」・「道東角地元禄六酉新興」・「立道東・元禄六酉新興」・「中井手ノ肥直こ元禄六酉新興」・「屋敷元禄六酉新興」・「元禄八亥新興」・「裏ノ堂元禄六酉新興」・「墓ノ堂元禄六酉新興」・「屋敷、之三禄六酉新興」・「道下元禄六酉新興」
これらの年紀から、この付近が元禄年間に開発されたことがわかります。この付近の現地表の標高はO~1mを測り、高潮の際には被害を受ける可能性がある地域です。
大番南・大番北・番屋前の海岸部には、細長い微髙地が南西から北東に長く向かってのびています
この高まりの上には[明治四辛新興]・「文政十一子新開水門裏源八屋敷」の地名があることから、幕末から明治初期にかけて開発したことがわかります。
「浜・字北須賀・字古川・新開・与北」には
「宝永元申新興」・「延宝二寅新興」・「新開」「新開畑」・「中檻が新開」・「須が前新開」・「安政二卯新興」・「宝永六巳新興」「明治四辛興」
があり、小規模な開発が、延宝2年(1674)頃・宝永年間(1704~1710)・安政年間(1854~1859)頃・明治初期と何回かに分けて断続的に行われたようです。
綾川にかかる雲井橋の北東付近から北西方向の「川原・古川・北須賀」に向かっては、新田が長く、蛇行しながら連続します。ここは周囲に比べると標高も低く、細長い窪みとなっていることから、綾川の支流の河川跡のようです。
江戸時代の林田湊は米の積み出し港
江戸時代の林田湊は米の積み出し港
大番北にある現在の林田港は、江戸時代にも港として機能していたようで、明治初期に作成された地引絵図にもL字状の突堤が描かれています。
突堤の南側には「米下道須が端」・「米下通寅添」・「米須端り西」「米下道東」があります。幕末に作成された『讃岐国松平領海岸絵図』には林田港付近が描かれていますが、この絵図には、「女山」の北側に四角に飛び出した部分があり、この部分に「打場」、その先端に「米出場」と記されています。ここから江戸時代から林田の港から米を積み出していたころが分かります。「米下道」というのは米を港へ運ぶ運搬道路だったのでしょう。
この付近の様子を記した資料に[海上湊之記]があります。
これは寛文7年(1667) 幕府乃毎辺唆使高林又兵衛の視察記で、この中には
「林田 拾軒、遠干潟也、舟掛り無、是ヨリ白奎ヘ程有、此ノ辺ノ浜ヲ綾ノ浜卜云。」
とあります。この資料をみると、林田付近には遠干潟が広がっており「舟掛かり」(湊)はなかったとされています。「大番北」にある港は、寛文7年(1667)には築造されていなかったようです。「遠干潟」は字大番北・大番南・洲鼻前・番屋前の平坦地を指しているようですが、この「遠干潟」の干拓と同時に、港も築造したのではないかと研究者は考えているようです。したがって、港の築造は元禄年間(1688~1703)頃で、米下道・米下道と呼ばれたのは港築造後ということになります
以上をまとめると、次のようになるようです。
①古代条里制が施行されたのは林田町南部まで②林田町の北部は中世に「潮入新開」として海浜部の一部が開発された③しかし、大部分は「綾ノ浜」と呼ばれる遠干潟が広がっていた。④新田開発が行われたのは17世紀後半以降で⑤干潟の開発や港の築造が行われ、港では米をはじめとする物資の積み出しが盛んに行なわれていた
参考文献 森下友子 検地帳の古地名からみた坂出市林田町 香川県埋蔵物文化センター研究紀要Ⅷ
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