3綾川河口ezu JPG
     
讃岐国府の外港として「林田港」の存在が注目されるようになっていることを以前に伝えました。それなら今まで国府の都とされてきた「松山津」との関係は、どうなのかという点が疑問に残ります。今回は松山津について見ていきます
 松山津は讃岐国府から綾川沿いに南約五㎞の地点にあり「国府の外港」として古代以来の重要な港とみなされてきました。讃岐国十一郡のうち阿野郡に所在する九郷の一つである松山郷のにあったとされるのでこの名前で呼ばれてきました。現地に石碑は建てられていますが、具体的な位置など分からないことが多いようです。

坂出・丸亀の古代海岸線復元
坂出市の古代海岸線


6松山津

史料に出てくる松山津をまずはチェックしましょう。
 菅原道真の「菅家文草」には、讃岐国の迎賓用施設である松山館が津(松山津)のほとりにあったと記し、海や津の情景が詠われています。そこには
「予れ近会、津の客館に、小松を移し種ゑて、遊覧に備へたりき」

との自註があり、別の詩で「小松を分かち種ゑて」と詠んでいますので「官舎」=「松山館」で、その近くに「松山津」があったと考えられてきました。
 保元の乱に敗れ、讃岐国に配流された崇徳上皇の上陸地は?
 上皇の滞在地については諸説ありますが、讃岐国への上陸は松山津からであったことがいずれの史料も記されています。ここからは公人を迎え入れる国府の港としての松山津の役割がうかえます。
6白峰古図
 この「白峯山古図」(資料13)は、永徳二年(1382)以前の白峯寺とその周辺の景観を江戸時代になって描いたものです。
ここには断崖絶壁の上から流れ落ちる稚児の滝と、その上に立ち並ぶ白峰寺の伽藍群や崇徳上皇陵が描かれています。目を下に移してみると、画面右下に綾川が右から左に流れ、中央下に男山・女山に湾入した入海があり、そこに館が描かれています。ここが松山津の有力な候補地となります。
  もう少し詳しくこの絵を見ていくことにしましょう。
①湾入地形に続く緩斜面地からは、上屋敷西遺跡と高屋遺跡が発掘され、塩作りに関連した集落がここにあったことが分かっています。
②雄山東麓にある雄山古墳群は、県下でも導入時期となる横穴式石室墳です。近畿と九州地方の横穴式石室の特徴を融合した石室形態で、この地が古くから瀬戸内海を往来する船が出入りし、人と物が行き来した場所であったことを示しているようです。


 文献史料+考古学的データ+現地踏査=「松山津は、雄山・雌山の東麓一帯に比定」することができると研究者は考えているようです。そして「菅家文草」に記された松山館は、津の最奥部付近に面した緩斜面地にあった可能性が高いとします。そして、国府とのアクセスは、津の最奥部から国府に延びる直線的な陸路があったのかもしれません。それは国宝の神谷神社の前を通ることになります。
以上からは「松山津=国府の外港」という従来の説は揺らがないようにおもえるのですが・・・
ところが、松山津の機能は「松山館」に象徴されるような公的人物往来に限定されるのではないかと考古学者たちは考えるようになっています。その根拠を見ていきましょう。

3綾川河口復元地図
  物資の移動港は綾川河口の林田津
 国府の港として、物資の移動を担った港は林田郷に所在する綾川河口にあったことが分かってきました。図4のように古代~中世前半の綾川河口はいくつもの河道がまるで龍の頭のようにうねり、その間に中洲があったことが分かります。その中でも安定した中洲には居住可能な微高地があり、ここを中継地として川運で国府と繋がっていたと研究者は考えているようです。
 以前にも紹介しましたが川筋には西梶・東梶という地名が残り、そこからは当時としては入手が困難な青磁碗などもが出土しています。「梶」地名は船の輸送に携わる梶取からきていると云われ、青磁碗出土地が旧河道に面していることもこれを裏付けます。

3綾川河口図3
 また、江戸時代の検地帳には綾川右岸の「東梶乙」には「蔵ノ元」「蔵元」、「城ノ角」には「蔵佐古」「城屋敷」・「蔵前苫屋敷」などの古地名が残っています。東梶乙の「蔵ノ元」・「蔵元」は、綾川の右岸(東岸)堤防から100mほど東の一になります。このあたりから「城ノ角」の林田小学校付近にかけては、南北に細長い微高地があります。その上に「蔵ノ元」・「蔵元」の地名があるのは、水運に便利な綾川から近い場所に物資管理用の倉庫が立ち並んでいたことをうかがわせます。
 また、総社神社・総倉神社・八坂神社といった複数の神社も旧河道に面し、物資流通への拠点的な役割を果たしていたことがうかがわれます。特に總倉神社の鎮座する所は、讃岐国の国府と綾川で結ばれ海陸の利便性が良かったために、税として徴収された雑穀等を貯蔵する官営倉庫が建てられたので總倉と号し、この神社をその鎮守神としたと伝えられます。「香川県神社誌より(要旨)」
5讃岐国府と国分寺と条里制
 このように、綾川河口の林田郷の微髙地には、蔵が建ち並び、瀬戸内海を交易する船の船頭達が住むエリアが想定できます。ここから綾川を通じて舟運で国府と繋がり、大量の人や物資の流通を担う国府の港としての機能が、この周辺にはあったと研究者は考えているようです。そして、この一帯にあった港湾機能を郷名にちなんで、林田津と呼んでいます。
古代の最新鋭工場の十瓶山窯跡群と林田港
 瀬戸内海の海底から引き揚げられた陶磁器の中に、十瓶山周辺で作られた須恵器があります。
 十瓶山は綾川の上流で、古代には須恵器窯と瓦窯跡からなる県内最大の窯跡群で、いまでいうなら最新鋭の工場群があった所です。ここで作られた製品(須恵器)はどのようにして、都に運ばれたのでしょうか? それは綾川水運によって林田津まで運ばれ、そこから瀬戸内海航路にのせて搬出されたようです。いまでは綾川を川船が行き来することなど想像も出来ませんが、上流のダムなや堰がなかった時代は川船は驚くほど奥地まで入ってきています。丸亀平野では白方から弘田川をさかのぼって善通寺までは、入ってきたことが分かっています。大束川でも川津から法勲寺辺りまでは行けたようです。
 こうして、須恵器をはじめとした調・庸などの多くは綾川の水運によって、国府からその河口部の林田津を経て、運び出されたと考えられます。
讃岐国府の外港   松山津は人 林田津は物 
 讃岐国府の港は、次のように機能分化していたというのです。
政府の要人などの人的移動は松山津・松山館
物資移動は林田津
そして、二つの港が複合した港が讃岐国府の外港ということになるようです。 
国府の港は、中世後半以降の史料ではみられなくなります。
それは、国府の機能が衰退するにつれて港湾機能が低下したということもあるでしょう。藤原純友の讃岐国府焼き討ちの際に、略奪放火にあったかもしれません。しかし、近年の環境考古学岳は、古代末の地球規模の寒冷化現象の影響が大きかったことを教えてくれます。寒冷化は、海面低下をもたらし河川の水位を低下させ、度重なる洪水を誘発し、その結果綾川河口は急速に陸地化していったようです。この二つの要因により、13世紀以降は国府の外港としての綾川河口の港湾機能は、急速に衰退していくことになります。
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