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生駒親正
 秀吉が四国に進攻し、長宗我部元親を土佐に封印して後の讃岐は短期間で何人か領主が交代します。その後、天正一五年(1587)8月に秀吉から生駒親正が讃岐を拝領してやってきます。これが讃岐の戦国時代の終わりとなるようです。そういう意味では生駒親正は、讃岐に近世をもたらせた人物と言えるのかもしれません。
まず親正のことについて簡単に見ておきましょう
 親正は美濃国土田の出で、はじめ織田信長に仕えていましたが、後に秀吉の配下に入り、讃岐にやって来る3年前に播磨国に二〇〇〇石を領し、二年後には播磨の赤穂に六万石を有する近世大名へと成長します。そして翌年には、対岸の讃岐領主になるのです。この急速な出生ぶりからは秀吉の期待と信頼がうかがわれます。
 讃岐に入封した親正は領内支配体制を固めるために、讃岐国内の有力な武将を家臣に取り立て家臣団を充実させます。また寺社にも白峯寺50石、一宮(田村)神社50石、善通寺誕生院28石、松尾寺金光院(金毘羅大権現)25石などの寄進・保護を行っています。さらに、大規模な治水灌漑事業を行い水田開発を積極的に行うなど、長く続いた戦乱の世を終わらせ民心を落ち着ける善政を行ったとされています。まさに戦乱から太平への転換を進めた人物として、もう少し評価されてもいいのではないかと個人的には思っています。
 しかし、政治家ですから善政ばかりで世が治まるわけではありません。反抗するものには、徹底した取り締まりを行っています。天正十七年に秋の年貢納入時期になっても山田郡の農民が年貢を納めなかったために、その首謀者を捕えて香川郡西浜村の浜辺で首を刎ねたという記録も残っています(「生駒記」)。
 ところで生駒親正が支配した讃岐の石高は、朱印状が残っていないのではっきりしません。慶長五年に、親正の子である一正は、徳川家康より23000石を加封され173000石を安堵されたようですから、引き算すると15万石ということになります。讃岐にやって来た親正は、最初から高松を拠点にしたのではありません。
最初に引田城、次に宇多津の聖通寺山城を築いています。
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なぜ、引田城や聖通寺山城を捨てて、野原(高松)に新城を築いたのでしょうか? 
 生駒氏が最初に城を築いた引田について見ていましょう
引田は、古代から細長い砂堆の先に伸びる丘陵周辺が安定した地形を維持してきました。
HPTIMAGE.jpg引田
ここには『土佐物語』などの近世の軍記物から付近に船着場があったことが想定されているようです。その湊の港湾管理者としての役割を担っていたのが丘陵上にある誉田八幡神社のようです。砂埃の背後は塩田として開発されていたらしく、前面にははっきりした段差があり、その後は海側へと土地造成と町域の拡大が進められていきます。それは住民結合の単位としての「マチ」の領域、本町一~七丁目などとして今に痕跡を残しています。このように中世の引田の集落(マチ)の形成は、誉田八幡神社周辺を中心に、砂堆中央から根元方向に向けて進みますが大きな発展にはならなかったようです。

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 引田城は、潟湖をはさんでこの誉田八幡神社に向かい合っています。つまり、引田城の築かれた現在の城山は、沖に浮かぶ島だったことを物語ります。つまり城とマチとは隔たった位置にあったのです。このように見ると、引田は瀬戸内海を睨んだ軍事拠点としては有効な機能をもつものの、豊臣大名の城下町建設地としてはかなり狭い線状都市であり、大幅な人工造成を行わなければ近世城下町に発展することはできなかった地形のようです。それが秀吉に讃岐一国を与えられ入国した生駒氏が、ここを拠点としなかった理由のひとつだと研究者は考えているようです。
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 また讃岐東端の引田は、秀吉側が四国侵攻の足掛かりとした場所ですが位置的にも東に偏りすぎています。讃岐の中央部に拠点を置こうとするのは、政治家としては当然のことでしょう。
  ところで私は生駒氏の築城順を
①引田城 → ② 聖通寺山城 → ③ 丸亀城 → ④ 高松城 
と単純に考えていました。引田では東に偏りすぎているうえに城下町建設には狭いので、聖通寺山に移った。その際に、引田城は放棄されたと思ったのです。ところがそうではないようです。近年の引田城の発掘調査の教えるところでは、高松城と丸亀城と引田城は同時に建設が進行していたことが分かってきました。
丸亀城は1597年(慶長2)に建設に着手し、1602年(慶長7)に竣工したとされます。また引田城は、調査により高松城・丸亀城と同じく総石垣の平山城であることが分かりました。また出土した軒平瓦の特徴から、慶長期に集中的な建設が行われているのです。つまり、秀吉が亡くなり朝鮮出兵が終わると、この次期は次期政権をめぐっての駆け引きが風雲急を告げた時です。そのための臨戦態勢として、3つの城を同時に建設するということが行われていたことがうかがわれます。そういう意味では引田城は、この時点では軍事的には放棄された城ではなかったようです。ただ引田城は、城下町が作れないし、東に偏りすぎているということだったのでしょう。
  次に親正が築城を始めたのが聖通寺山です。
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ここは中世は細川氏の守護所が置かれた場所で、歴史的には、新参者である生駒氏が城を築くにはふさわしい場所と言えます。
それでは聖通寺山城と宇多津の関係はどうでしょうか?

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 宇多津の中世復元地形は、青ノ山・聖通寺山の麓まで大きく湾入する入江と、その奥部に注ぐ大束川河口部に形成された砂堆が広がります。青野山の山裾から集落が形成され始め、戦国期には砂堆上にも集落(マチ)が展開していたようです。砂堆の付け根に当たる伊勢町遺跡では、一三世紀後半~一六世紀の船着場(原初的な雁木)と思われる遺構が出ています。このような船着場がいくつか集まった集合体が「宇多津」の実態と研究者は考えているようです。その点では、一本の細い砂堆のみの引田と違っていて、どちらかというと香西や仁尾などの規模を持った港町であったようです。しかし、その領域は狭いうえに、宇多津と聖通寺山城は大束川で隔てられていて、引田と同じように城と城下町の一体性という点からは問題が残ります。
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また聖通寺山城は、現在は瀬戸大橋の橋脚の下となっていますが備讃海峡西側を押さえる要衝の地で、中世の守護所・宇多津に近い所です。前任者の仙石秀久は、年貢徴収に抵抗した領民を聖通寺城下で処刑しています。また、丸亀城下町の水主町・三浦(西平山町・北平山町・御供所町)は、聖通寺城下北側の平山や同東側の御供所の住民を移転させることによって成立したと伝えられます。もっと前まで遡れば、御供所に隣接する坂出・古浜の住民は、生駒氏とともに赤穂から移住してきた伝承をもつようです。ここからは生駒氏の城作りが瀬戸内の海上交通にアクセスする意図があったことがうかがわれます。
 しかし、聖通寺山城跡からは石垣が見つかりません。また城の縄張りから中世有数の港町・宇多津との一体性が感じられません。さらに宇多津は中世以来の寺社勢力が強い町でした。旧勢力の反発や協力が得られなかったのかもしれません。こうして聖通寺山城と周辺の近世城郭・城下町化は、不十分なままで終わったようです。
 しかも、引田から聖通寺にやって来て翌年1588年(天正16)には香東郡野原の地に高松城と城下を築いたと『南海通記』は記します。引田城の後、聖通寺山城・亀山(後の丸亀城)・由良山(現在の高松市由良町)と城の候補地を考えたが、結局高松築城に至ったとする説(『生駒記』など)もあります。
 どちらにしろ、3番目に着手した城が高松城になるようです。しかし、高松城の着工や完成時期についてはよく分からないことが多いようです。
高松城が着工された時期背景を見ておくことにしましょう 
1590年に、秀吉は関東・東北を制圧し、国内では未征服地がなくなりました。織豊政権は「領土拡大」を自転車操業で続けることによって「高度経済成長路線」を維持してきました。秀吉は、日本国内が「飽和状態」となったにも関わらず「内需拡大による低成長路線」への政策転換を行わず、朝鮮半島とその先の中国(明)に領土を求め「高度経済政策」を再現しようとします。1591年(天正19)に九州の諸大名を動員して、対馬海峡を目前にした肥前・名護屋に壮大な城(名護屋城)を築かせ、1598年(慶長3)まで、休戦をはさみつつ、朝鮮半島全域で軍事行動を展開します。生駒氏を含む四国の諸大名も「四国衆」として、この戦いに加わります。

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名護屋城の生駒親正陣屋跡
生駒氏は、文禄の役で5,500人、慶長の役で2,700人の兵を送り、親正と息子の一正も海を渡ります。
 また親正は、1594年(文禄3)から翌年にかけて、伏見城にいた秀吉に代わり大坂の留守を預かり、1595年(文禄4)7月15日に秀吉から5,000石を加増されています。この日は、秀吉が自らの後継者として関白に任じていた甥の秀次が、謀反の疑いで切腹させられた日です。文禄の役の休戦交渉から秀次事件という重要な時期に、生駒親正は秀吉と名護屋・朝鮮派遣軍との間をつなぐ場所にいたことになります。豊臣政権下で宇喜多秀家・蜂須賀家政などとともに、西国支配の要の役割を果たしてきた親正の位置付けがよく表れています。と同時に、秀吉が讃岐に生駒氏を配した背景に、西国支配の要としての思惑があったこともうかがわれます。豊臣政権下での親正の存在は決して小さくなかったことがここからは分かります。
 相次ぐ国内戦争の延長としての文禄・慶長の役は、豊臣大名たちの領国経営にとって、重い負担だったようです。それは生駒氏にとっても同様で、高松城下町の建設がなかなか進まなかった理由の一つとも考えられます。  
  しかし、秀吉亡き後の豊臣・徳川家の激突に備えて各勢力は臨戦態勢に入ります。そのために生駒氏も引田・高松・丸亀の3つの城郭の整備を同時に行うことになったことは先ほど述べたとおりです。
『南海通記』(享保三年〈1718〉成立)には引田・聖通寺山両城を含めた讃岐の城郭は、
「皆乱世ノ要害」であり、「治平ノ時ノ居城ノ地」である「平陸ノ地」を求めて野原に新城高松城と城下町を建設するに至った
と記します。ここで研究者が注目しているのは、「新たな領国経営の拠点として平城を意識し、生駒氏自身が山城(聖通寺山城)を下りている点」で、秀吉の「山城停止令」との関連がうかがわれるようです。
 『南海通記』は、一次史料ではなく後世に讃岐綾氏の後継を自認する香西成資が香西氏顕彰のためにかいた歴史書という性格があり、内容については信憑性が疑われるところが多々あります。しかし同時に、この史料しかないという事情もありますので、注意しながら頼らざるえません。

 野原(現高松)は安定した二㎞四方の海浜部地形がありました。
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 そこに野原中黒里・浜村・西浜・天満里・中ノ村などの集落が分立していました。そして、それぞれが次のような3つのエリアに機能的に分かれていました。
①国人領主・香西氏配下の小領主と地域紐帯を強める伝統的な寺社が押さえたエリア(中ノ村)、
②讃岐国外に開かれた情報センターとしての寺院と流通管掌者が押さえたエリア(中黒里)、
③紺屋・鍛冶屋などの職人や漁労集団などが集住するエリア(浜村)、
 交易の前線としての海浜部(港湾)に近接していたのは②・③であり、①は現在の栗林町あたりで少し内陸部にありました。

DSC03821十三世紀の野原復元図
 また、高松地区で行われた40地点近い発掘では、1650年より前の遺構は、整地された痕跡がなく、盛土などの人工造成を行わずに中世野原の地面に、そのまま城下町の建設を行うことが出来たようです。これも有利な条件の一つだったでしょう。
 以上から、引田・宇多津は城下町建設地としては狭く、町も中世的な住民結合が強く残っていて、新しくやって来た生駒氏にとっては「邪魔になる存在=解体すべき対象」と見えたのかもしれません。生駒氏は、野原の広大な地形と「ニュートラル」な地域構造に、城下町建設の夢を託したとしておきましょう。
DSC03843高松をめぐる交通路
 一方、慶長二年に西讃岐統治と備讃瀬戸へのにらみをきかせるために親正は那珂郡津森庄亀山に丸亀城を築きます。そして、この丸亀城には子一正が居城することになります。
1丸亀城
 秀吉の没後、徳川家康が勢力を強めます。会津の上杉景勝を討つため家康は慶長五年六月に大坂を出発しますが、これには生駒一正が従軍していました。こうして、九月の関ヶ原の合戦では父の親正は豊臣秀吉恩顧の大名として石田方につき、子の一正は家康方について戦うことになります
一正は関ヶ原の合戦で徳川方の先鋒として活躍し、家臣三野四郎左衛門が活躍します。これにより生駒藩は所領没収を免がれ、一正に讃岐171800石余が安堵されました。こうして生駒家は豊臣系の外様大名でありながら、関ヶ原の合戦を乗り切り近世大名としで存続する道が開けたのです。
 慶長十三年九月に生駒一正は妻子を江戸屋敷へ住まわせたことにより、普請役を半分免除されています。これが参勤交代制の始まりになりますが、その際に率先して行うことで一正は家康への忠誠の証を示しています。
 大坂夏の陣の後に、一正は藩主となって丸亀城から高松城に入ります。丸亀城には重職の奉行・佐藤掃部を城代としておきます。一正死後に藩主となった正俊は、丸亀城下の一部の町人を高松城下へ移住させ、その地は丸亀町と呼ばれるようになります。そして丸亀城は元和元年の一国一城令により廃城となります。

以上をまとめると
①生駒親正が讃岐にやってきて最初に築城にとりかかったのは引田城であった
②ついで宇多津の聖通寺山に移り、
③1年後の1588年には高松城の築城にとりかかった。
④最終的に高松城が選ばれたのは、香川中央部の「古・高松湾」に面し、背後の後背地もひろく、城下町形成に適した空間が確保できたことが考えられる。
⑤しかし、当時は朝鮮出兵などの大規模軍事行動が続いていいたために高松城築城はあまり進まなかった。
⑥それが急速に進むのは秀吉死後の関ヶ原の戦いに向けての政治情勢にある。
⑦この時期の生駒藩は、高松城築城と平行して引田城・丸亀城の3つの城を同時に築城していた
⑧家康についた一正は、丸亀城から高松城に移り、高松城を拠点にする。以後、城下町建設も軌道に乗り始める
        参考文献    高松城下町の成立過程と構成
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