藤尾城(高松市香西本町)は、国人領主・香西氏が天正年間に築いた水城です
香西氏は、古代豪族の綾氏の流れを汲み、中世は在庁官人として活躍した讃岐藤原氏の総領家で、備讃海峡の直島群島などにも勢力を伸ばした領主です。南北朝期以降は守護細川氏に仕えますが、大内氏や浮田氏、信長とも関わりがありました。
初期の香西氏は勝賀山上に勝賀城を、その山麓に平時の居城として佐料城を構えていました。
佐料は、香西よりも内陸寄りの高松市鬼無町にありますが、香西資村の出自である新居(にい)や、同じく新居からの分家という福家(ふけ)は、さらに内陸の国分寺町に地名として残っています。笠居郷の開発とともに、香西氏も瀬戸内海へと進出し、水軍を持つと同時に直島や本島をも勢力圏におくなど「海賊」的な動きも見せます。
このような中で天正年間に入り、海に近い香西浦の藤尾城に本拠地を移します。

佐料は、香西よりも内陸寄りの高松市鬼無町にありますが、香西資村の出自である新居(にい)や、同じく新居からの分家という福家(ふけ)は、さらに内陸の国分寺町に地名として残っています。笠居郷の開発とともに、香西氏も瀬戸内海へと進出し、水軍を持つと同時に直島や本島をも勢力圏におくなど「海賊」的な動きも見せます。
このような中で天正年間に入り、海に近い香西浦の藤尾城に本拠地を移します。

藤尾城は、中世港町・香西に隣接した藤尾山(標高二〇m)にあり、現在は宇佐神社が鎮座します。
比較的規模の大きな二つの郭を中心に構成され、北・東・南の三面は香西の集落が立地する砂埃背後の湿地(ラグーン)に囲まれていました。『香西記』(享保三年〈1718〉成立)には「東南及北入海」と記される。また『南海通記』によると、内陸部に面した大手(南側)に「西光寺縄手」と呼ばれる「土居一筋ノ道」があり、その東側は潮水が入る大溝、西側は深田となっていたといい、砂堆側(北側)に搦手・平賀口があったと伝えられます。
藤尾城の周辺では、
①大手側で内陸部の旧本拠・佐料城へと繋がるルートを遮断する作山城、②香西浦北側で船の出入りを監視できる芝山城、③香西浦東側で野原方面へのルート上に位置する本津城が配され、外郭の防御線を形成していました。天正七年(1579)には、佐料城下に屋敷をもっていた配下の小領主たちが藤尾城下に移されたとされ、香西浦の砂堆周辺の「中須賀・平賀・釣ノ浜」への屋敷割が行われたようです。
築城の動機は、土佐・長宗我部氏による讃岐侵攻の危機が迫ってきたことで、その緊張状態を背景に領主への権力集中を図り、港町の構成に手を加えて城下として取り込んでいこうとしたと考えられます。
讃岐には次のような港町に近接した城郭があります。
仁保城(三豊市仁尾町)九十九山城(観音寺市室本町)志度城(さぬき市志度)
どれも中世港町に張り付くような後背地的な位置にあり、領主の本拠として「城下」への組み替えが行われた形跡はありません。これらの城主は香西氏のように郡規模の領域支配を行える権力はなく、単一の港町のみを基盤とした小領主でした。そのため港町への「寄生」という性格にとどまっていたと見られます。
その中で、藤目城の沖の備讃瀬戸エリアに築かれた直島の高原城(高原氏、天正期前半)、塩飽本島の笠島城(高階氏、年代不明)は、麓の港町や港湾への直接的な管理権を行使できるような城郭構成になっています。これらの島嶼部は後背地がなく、海上交通に頼る水軍の本拠地だったと考えられます。そして、このふたつの城は、香西氏の水軍として機能していたようです。
「香西・藤尾城の建設は、中世末期の領主が水辺に「本拠の転出」を行った事例
と研究者は考えているようです。同じような例は
岡山城(浮田直家、天正元年〈1573〉頃)、三原城(小早川隆景、永禄年間〈1558)、板島丸串城(西園寺宣久、天正三年)
などの国や郡規模の領主の城郭でも見ることが出来ます。どれも城下集落があり、三原城のように家臣への屋敷割がされた場合もあります。後に岡山城・三原城は城主が豊臣系大名となり、板島丸串城は藤堂高虎により宇和島城として改修・拡張されていくことになります。
以上のように、高松城下町に先行する形で、水城(海城)を核としたマチの建設が、香西浦の藤尾城で行われていたことを、ここでは確認しておきましょう。
姫路城の外港からは巨大な水軍基地があったことが報告されています。
池田氏が家康から求められて、瀬戸内海の制海権をにぎるための水軍整備に余念がなかったことが分かります。瀬戸内海を挟んで讃岐側の生駒氏にも秀吉・家康を通じて要求されたのは、水軍力の整備ではなかったのでしょうか。
池田氏が家康から求められて、瀬戸内海の制海権をにぎるための水軍整備に余念がなかったことが分かります。瀬戸内海を挟んで讃岐側の生駒氏にも秀吉・家康を通じて要求されたのは、水軍力の整備ではなかったのでしょうか。
高松城
信長以来、瀬戸内海の制海権を握るために村上水軍を解体し、代わって塩飽衆に特権を与え保護します。しかし、塩飽衆に期待したのは「水夫」であって「水軍」ではありません。水軍増強を求められたのは瀬戸内海沿岸の信頼の置ける大名達だったようです。そのために大名達は、海に面した所に城(水城)を築き、そこから艦隊を出動させるという戦略を現実化したのではないのかと私は考えています。そして、そのお手本は香西氏のような中世領主の水城の中にあったのです。そが高松城の縄張りの中にも生かされているように思います。
『高松城下図屏風』に描かれた城内・城下には5ケ所の港湾施設が描かれています。
①三ノ丸海手門(裏門)に面した藩主専用の船着場、②西外堀に米蔵(藩蔵)や船溜まり・船蔵を備える藩御用施設としての西浜舟入、③東外堀に船溜まりと広範囲な雁木、東水主町を備える商業的施設としての東浜舟入、④魚棚町に面した浜に石波止を構築する船着場(北浜)、⑤漁村的な景観の西浜の船着場(糸撚浜)
これが瀬戸内海に隣接した大名に課せられた軍事的課題のひとつではなかったのか私は思っています。
参考文献 初期高松城下町に見る在地的要素
コメント
コメント一覧 (1)
藤尾城の下りについてです。
「築城の動機は、土佐・長宗我部氏による讃岐侵攻の危機が迫ってきたことで、その緊張状態を背景に領主への権力集中を図り、港町の構成に手を加えて城下として取り込んでいこうとしたと考えられます。」
とのことですが恐れながらこれには大いに異を唱えます。
藤尾城の築城年とされる天正3年は長曾我部はまだ土佐も統一していません。
その前年の天正2年に三好に攻められており、翌年の天正4年には三好方の金倉氏を攻め、天正5年には三好による香川氏攻めが見られています。
つまりは藤尾上築城の天正3年は三好との戦いの渦中にある頃で、この年に土佐さえ出ていない長曾我部を警戒していたことはあり得ないのです。
また、藤尾城の完成も長曾我部の手によるものであることも追記すべきでしょう。
tono202
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しました