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明治初期の四国遍路の停滞要因は次の2点だと云われています。
①神仏分離令と廃仏毀釈運動による札所の衰退
②地方行政の担当者による遍路の排斥政策
前回は①について見てみましたので、今回は②について見ていこうと思います。3土佐史料
明治維新後、地方行政は四国遍路をどのようにあつかったのでしょうか。
それを見ていくの参考になるのが『近世土佐遍路史料」です。これは個人が集めた資料を謄写版刷りしたもので、まさに「明治前期の遍路事件簿」とも言えるものです。この資料集を見ていくことにしましょう。
 明治初めの高知藩では、遍路に対するそれまでの政策を踏襲しています。例えば、遍路の出入りは東の甲浦口と西の松尾坂口に制限し、その他の国境を通るのは許していません。
  (明治元年)十一月廿三日
 四十杖之上 向後御国禁足 立川口御堺目方追払
       紀州有田郡黒井村 忠口
       信州水内郡柳本村 口蔵
       予州仁井郡大吹村百姓 政口娘つる
右は四国霊場為順拝今十月阿州路方地名不存御堺目を潜り入来 追々欠連二相成袖乞等を以罷越中岸本浦二おゐて被差押段重御国法相背不埓之至二付如此①           (当罰者縮帳)
この史料は明治元年(1868)の秋に、伊予土佐街道の笹ヶ峰越を超えて、土佐の立川に入って袖乞い(物乞い)しながら遍路を続けていた3人の遍路についての処置報告です。捕まって杖打ち40回の体罰を受けたうえで、立川口から伊予へ国外追放となっています。

 続いて明治2年と明治5年の事件を見てみましょう。
  (明治二年)十二月七日
  一 死鉢無別儀
       播州揖東郡太田村 善口郎
右者今十二月四日病気之鉢二而長浜村往還端二罷在 同村五人頭作次行掛り同礼蔵後家ふぢ方へ連行医療を受遣ス中 
翌朝相果候旨届出於地下掛合之者共為遂吟味処右善口郎義 四国霊場順拝御境目を忍入来 順路中病気相発趣右病中及発言旨申出於存命は遂吟味当罰被仰付筈之処令死失二付如此  (当罰者縮帳)
  (明治五年)二月十三日
 四十笞罰申付筈ノ所 廃失者二付被差免本県へ被差返
遍路が長浜村(現高知市)の道ばたで行き倒れになったというものですが、調べてみると「四国霊場順拝御境目を忍入」と、「不法入国者」であったことが分かったようです。本来は四十笞罰」ですが病人のために免じて国外追放にしたようです。決められた関所以外から入った者は、笞罰の上に国外追放になっていたようです。
   阿州妙道郡榎本東口郎伜
            道学寺弟子 口坊
   紀州有田郡土居村 芳江衛門娘 口江
       勢州桑名 立花屋勘口娘 し口
病気二有之右四国霊場為順拝罷越於諸々袖乞致し貰受品長浜村神社におゐて炊仕成致す処火不始末を以 右社為及焼亡段不念之至二付如是           (罰帳)
 これは、阿波と紀伊の3人の遍路が長浜村の神社において袖乞いでもらったものを炊事したところ、火の不始末によって神社を焼失させたという内容です。遍路が神社などに、たむろすることは問題になっていたようで、一宮神社(現在の土佐神社)から土佐藩に、遍路が社内に勝手に泊まったり火を焚いたりすることに対して、「立入禁止」にしてよいかと聞き合わせる伺書も残っているようです。一宮の場合は、江戸時代末までは三十番札所でしたし、城下町近郊という立地条件からも、物乞いをする遍路が集まりやすかったようです。
次は明治元年と明治7年の「犯罪」事件です。
  (明治元年)七月四日
 百杖両腕焼印之上 重テ御国禁足
 松尾坂御境目方追払
      御国禁足者 予州宇和島郡平磯村 久蔵
右は去ル丑年以来霊場順拝として都合三度御国内江忍入時二禁足を以御境目占追払被仰付といへとも又候入来り 於山田村二被差押処右順拝中今六月佐喜浜井佐古郷二おゐて麦三升余盗取代束而拾六匁余二売捌其他手結浦人家二忍入金壱両三歩壱朱盗取右金銭令所持罷在段禁足之身柄をも不顧
度々御境目を犯し剰令盗業事共重々不届之至二付如此
                   (当罰者縮帳)
これは霊場巡拝を理由に、三度密入国を繰り返しては、その都度追い払われてきた伊予宇和島の久蔵という男が、懲りずに高知県に入り込んで麦3升余りを盗んで売りさばいたり、金1両3歩1朱を盗み取ったりしたため、杖打ち百回のうえ両腕に焼き印を入れて以後入国を禁じたと報告されています。
 「自分儀七歳ノ節父母二連ラレ四国地順拝致シ居り八才ノ節途中二於テ両親共病死致シ 夫ヨリ辺路鉢二相成住所不定諸所浪々中 本年六月中御当国へ立込ミ山分筋二於テ功能無之丸薬ヲ取拵へ愚民ヲ惑カシ 諸所二於テ價三円計りノ丸薬売渡シ候事右之通相違不申上候   以上
   明治七年十一月  喜口元口吉」
 「伊予国松山産 無籍人 喜口元口吉
功能ナキ丸薬ヲ売利徳ヲ得ル者雑犯律違令重キニ擬シ
懲役四十日」⑥                (罪按)
この明治7年の史料は、両親が病死し身寄りのなくなった伊予松山生まれの喜口元口吉という男が遍路姿て効能のない丸薬を売ったため、懲役に科したというものです。この場合は、自らの犯罪のために遍路という習俗・信仰を利用していたともいえます。結果として、他国からの遍路に対する地域の人々の不信感をかきたてることになったかもしれません。
行政による遍路抑制策
 明治3年(1870)10月14日に、六十六部を禁止する太政官布告が出されます。中世以来の回国巡礼である十六部の禁止は、米銭などの施し物を乞う行為が乞食と同様に考えられた結果だと云われます。この禁止令は、各地方の巡礼対策に大きな影響を及ぼします。続いて同月28日には虚無僧が禁止され、翌年11月9日には僧侶の托鉢が禁止されます。托鉢については、明治14年になって、解除されますが、近代国家をめざす日本の指導者層からすれば、袖乞いはもちろん托鉢も物乞いをして歩く行為に変わりはなく、
「文明国家にふさわしくない禁止すべき野蛮な行為」
と思われていたようです。
こうした中で四国各県の行政当局は、遍路に対しどういう対策をとったのでしょうか
高知県では、明治5年2月に、次のような禁止令を出しています
遍路乞食体ノ者ハ所在村役人二於テ之ヲ国境ヨリ追放チ且ツ人民タルモノ総ヘテ右体ノ者へ施物等ヲナスモノアルヲ禁ズ
此節他県管轄遍路乞食体ノ者入来徘徊致シ候趣ニ付 戸長以下什長二至迄精々遂不審印鑑所持不致者ハ戸長作配ヲ以最寄御境目ヨリ追払之首尾有之筈
但捕卒巡卒共見逢次第取計候時ハ戸長へ引渡 右同断作配ノ筈窮民礼不願受者袖乞不相成候二付 当県他県ノ無差別縦令遍路体ノ者タリトモ右札所持不致者へ食物米銭等総テ手ノ内ノ施致シ候議 決而不相成旨諸所へ掲示可致事⑧
                  (高知県史料三)
内容を確認しておくと
①県内を徘徊する遍路・乞食体の者のうち印鑑を持だない者は、戸長以下が最も近い県境から県外に追放せよ
②袖乞いをする者のために「窮民礼」を発行し、これを持たない者の物乞い行為を禁止する
しかし「窮民礼」が、どこがどのようにして発行していたのかは記されていません。
同じ年の秋、香川県からも同じような内容のものが出されています
  仏法に沈溺するの情より、遷路乞食等ヘー銭半椀の小恵を施し乞食等も亦甘んじて小恵に安んじ、更に改心の期なし。却て害を招く基と相成、甚以宜しからざる儀に付、今後右等小恵を施し候儀堅く不相成万一右の令にそむく者これあるにおいては、爾後其者厄介に申付儀もこれ有るべく候条、何も心得違いこれなき様致すべき事。

家に袖乞いにやってきた遍路に施物を与えた場合は、その者の厄介に申し付けるというのです。、これが当時各地でとられた方策のようです。京都府や埼玉県でも同様の事例があります。明治5年6月の『広島新聞』6号には、埼玉県の農業某が食を乞うて来た者に施しをなし、かつ軒下に止宿せしめた廉によりその者を厄介として申し付けられたという事例が挙げられています。
3土佐史料2
 明治6年4月と11月には、愛媛県からは次のような布告が出されています。
  明治六年四月
  愛媛県布達番外 正副深戸長エ
遍路物貰等之儀ハ夫テ不相成段兼テ御布達ニモ相成居候處 此節二至テモ猶旧習ヲ存シ四国順拝杯卜唱へ人之門二立テ食ヲ乞ノ類全ク野慢ノ弊風ニテ其醜態不可云モノ也、又食ヲ与ルモノハ佛説之所謂後生之為坏卜心得候ハ必竟姑息ノ私情ニシテ 却テ人民保護ノ障碍タル事無論二候 條深々ノ長タル者此理ヲ篤卜了解シ、遍夕管内ノ人民二説諭シ、向後屹度心得違無之様厚ク注意致シ、
右義ノ者ハ見富り次第速カニ呵責放逐シテ片時モ管内二置ヘカラス、モシ食ヲ興ル者ハ送り付ノ入用等出費中付且品ニョリ屹度可及沙汰候條此旨蓬々無洩可鯛示候、尤右等ノ儀ハ医長戸長ノ責二候條説諭於不行届ハ其役前ノ落度タル可キ者也

①遍路物貰(ものもらい)については度々、禁止令を出してきたがいまだに後を絶たない
②家々の門に立って食を乞う行為は「野慢ノ弊風」、後生のためなどと考えて食物を与えるのは「姑息ノ私情」であり、「人民保護ノ障碍タル事」である
③区長・戸長に対しては、遍路に食を与える者があれば県外へ送り出す際の負担を申し付けよ、
④与えた品物によっては厳しく取り調べを行え
と通達を守らせようとしています。しかし、その結果はかんばしくなかったようです。わずか7ヶ月後には、次のような通達が出されています
  明治六年十一月三十日  愛媛県布達第百三拾九号
本年四月番外ヲ以遍路物貰ノ儀及告諭置候處今以徘徊致候者有之、右ハ全ク姑息ヲ以食物等與ヘ候者有之ヨリ立入候儀二付 以后一銭一飯卜雖遍路乞食二與フル者ハ厳重二捜索シ兼テ相達候通原籍へ送り立候 人足ヲ始総テノ旅費ヲ為差出可中且原籍無之向ハ其家工附籍可申付候事
ここには、一銭一飯といえども遍路物貰いに施しをする者に対しては、遍路を送り帰すための一切の費用をを負担させる。それだけではなく、遍路が原籍のない放浪者であった場合は、その家に「附籍」を申しつけるという風に変化しています。4月のものに比べると文章全体にかなり強い調子が読み取れます。その家の戸籍入れるというのは、香川県の「厄介」よりも厳しい措置のように思えます。
 同様の布達は、翌年(1874)3月にも出されます。さらに12月には
「乞食物貰ノ儀二付旧県以来毎々相達候次第有之、猶又昨六年四月布達ノ趣モ有之候處自然等閑に相成此節往々徘徊致哉二相聞以ノ外ノ事二候」
と記して、去年の4月に通達をを出しているにもかかわらず遍路を称する物貰いが徘徊しているとして、よそから来る遍路を追い払うことの必要性と、施しを行う者への処罰を重ねて強調しています。
 何度も同じ禁止令が出されるのは、それが守られていない証拠であることを歴史文書は教えてくれます。ここでも当局の禁止にもかかわらず遍路に対して施しを続ける者が極めて多かったことがうかがえます。長い歴史の中で育まれた「おせったい」の心は、通達では禁止できなかったようです。付候事
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  行政の遍路抑圧策に答える民間の動き
四国各県の行政機関は、強硬な遍路対策を取ったにもかかわらず、多くの人々によって遍路に対する施しは続けられてきたことを見てきました。しかし、『近世土佐遍路資料』あったように盗みを行う遍路、ニセの丸薬を売りつける遍路などは地元民の眉をひそめさせたであろうし、結果として、他国からの遍路に対する地域の人々の不信感をかきたてることになりました。地方行政当局が遍路に対して強硬な政策をとった背景には、知らない人物が村に入り込むことによる治安悪化を恐れる地元民衆からの、一定の支持があったも考えられます。
 明治9年(1876)、高知県日高村の植田直吉は、大小区公撰民会に次のような議案を提出します。
「辺路物乞イ風体ノ者ハ時態二不都合ノ所業」とし、さらに「遍路風体の者たちもいったんは御布告(明治5年の禁令か?)で姿を消したが、また近ごろ各地にあらわれ始めている。彼らは村はずれの川原や堂社にたむろして、昼間は家々をまわって米や金を乞うては、ついでに家の中をうかがい、病人でもあれば占いや祈祷などでとりいろうとする。また夜になると作物を盗もうとする泥棒同様の者も少なくない。今後この区内ではそのような者たちをいっさい近づけないようにすれば、やがて自然と立ち退くだろう。」
という意味のことを述べたうえで、最後にこう結びます。
「禍ヲ招カサル先キニ安寧取締ノ覚悟肝要タルヘキ衆議希望シ候也」
これはムラの治安維持を求る村民の側からの遍路排斥の動きです。
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このような動きは愛媛県でも見られます。
    定   愛媛県県村
遍路乞食其他物貰へ金穀食物等相与へざるは勿論、宿泊等決て致させ申まじく、万々一此約定を犯すものは近隣より直責し大井分署へ引出すものとす。若し物貰来た其場に居る申は共に引出可申。又強談する場合に至りては、近隣或は組合にても村内のものへ呼掛、共に尽力し、立退かざるときは速に警察へ連絡すべし。其者出頭せざれば分署へ急報し警官の指揮を受くべきものとす。⑩
    乞食施興禁過規約 愛媛県桑村郡宮之内村
                  明治十九年六月
第三條 遍路乞食二ハ金銭米麦ハ勿論何品ヲ問ハスー切施与セサルモノトス
第四條 前条ノ約二違ヒ施与セシモノアルヲ見留タルトキハ直チニ組長二申告スルモノトス
第五條 規約二違ヒ米麦物品施与セシムルモノアルトキハ違約者二於テロ施人身分二係ル諸費一切ヲ負複弁償セシムルモノトス
第七條 違約者無資カユシテ諸費弁償シ能ハサル者ハ金額ノ多寡二応シー日己上五日以内力役セシメ之ヲ償シムルモノトス
第九條 遍路乞食体ノ者村内二徘徊スルヲ目撃スルトキハ速二戸長役場又ハ分署又ハ巡回ノ巡査二申告スルモノトス
ここには、地方行政当局の意を「忖度」した村の指導者が「遍路排除」運動を指導しているのがうかがえます。これらは村民からの同意を得たのでしょう。その内容は「遍路乞食」にお金や食物を与えないように申し合わせるとともに、遍路に対する警察の介入を積極的に求めているのが注目されます。特に県村では、施しを行たり宿泊させたりした者に対して、隣近所の者がその責任を問うて警察に引き出すとしています。宮の内村では、違反者が弁償としての費用を出せない場合は力仕事を課すとあります。これらの決議や規約がどこまで厳密に守られたかについては分かりませんが、四国巡礼の遍路にとっては「世知辛い世の中になった」と感じたことでしょう。
      高知県「土陽新聞』の遍路排斥論
明治半ばを過ぎると、維新の混乱が収まるとともに猛威を振るった廃仏毀釈の嵐も過ぎ去り、四国を訪れる遍路は次第に回復してきました。しかし遍路の増加は、地域によっては大きな問題になっていきます。そのことを示しているのが、明治19年(1886)5月に3日間にわたって高知県の『上陽新聞』に連載された「遍路拒斥すべし」と題し、遍路の拒絶・排斥し物乞いを追い払うことを強く求めた次のような論説です。
 まず冒頭で「遍路乞巧拒攘論」を持出さし事態は切迫しているとして
「遍路には相応に旅金をもって身成も一通整へて来るもあれども、其れにしても真に祈願の為めに来るは少く。つまらぬ事にて来るもの多きことなり。、 其の大半は旅金も携へず穢き身成にて朝より晩まで他人の家に食を乞ふて廻り。巡拝も祈願も何んの其の主(もっぱ)らは四方八方を食ひめぐるに在り。」
と、遍路の大半が祈願のためではなく物乞いであると主張します。
そして遍路がやって来る弊害を3点挙げます。
まず、甚だ危険なるは悪病の蔓延を媒介すること是なり。特にコレラ病の如きは尤も不潔に取り付き易き先生にして遍路のごとき者が績々他県より侵入し来るときは之れを蔓延せしむること必然の勢なり。」
次に、他人の家に食を乞ひ得る所不十分にして糊口に難渋するに至っては、変じて強盗となり強盗と為り極めて凶悪の行いを為す者あり。(中略)是れ第二の大害也。」

さらに「老体の者や幼弱の者は或は食に尽きて餓死すえうものもあるべく。或は病に罹りて病死するもあるべく。寒中に於ては凍死する者も間々之れあり。概して行倒れと云ふ者が多く有ることなり。ソシテ其の行き倒れがあれば必ず戸長場の厄介と為る。戸長の厄介は即ち人民の迷惑なり損害なり。是れ第三の大害なり。」
要約すると
①伝染病の媒介
②強盗などの発生、治安の悪化
③行き倒れの処置の問題
この3点から遍路が大きな社会不安の根源になるというのです。
 では、どうしたらいいというのでしょうか?  対策として挙げるのは次の4点です
①「県下の各町村津々浦々までいづれも其の町、村、津、浦、の申合せを為し彼の遍路に対しては一切何物をも恵与せざることと致し。
②「町村津浦の國道とか蘇道とかに富たる處を除き其他へは遍路乞食は一切立入らしめざること」
 遍路がやって来ても、食を乞う所も身を置く所もないような状態して、これを2・3年続ければやがて来なくなるだろうします。
③県境付近い巡査に命じて他県から侵入しようとする遍路物乞いを捕えて先の事情を告げ、
「公然の道路を往来する人の自由なれば敢て威権を以つて汝等を遮るにはあらざれども迂闊に往くなれば却って困るやうになるだらうから成る可くならば往かないが宜しからふ」
と説得させる。・・・是れ第三の方法なり。」
④四国内にとどまらず日本の大政府に法律を作り、遍路なり何なり卒然他人の門内に侵入して食物其他の物品を乞ふことを制止させられんことを欲する也。」
以上4点を解決策として主張します。
 そして最後に、
「今の遍路乞巧の如きは宜しく拒斥すべし逐攘すべし。由し彼等に於て益々土佐の国を鬼國などと評すれば評するに任かすべし。遍路輩に物を与へざるが為めに鬼の名を受くるが如ぎこ我が土佐の國の一向頓着せざる所なり。」
と、断固たる口調で遍路の排斥を繰り返します。
これが新聞の「社説」として載せられます。

 これを載せた『上陽新聞』とは、どういう新聞なのでしょうか?
当時、自由民権運動を推進した政社として立志社は有名です。その出版部門から「海南雑誌」と『土陽雑誌」という啓蒙雑誌が出されていました。この2誌を統合して明治10年(1877)から新たに発行されたのが「土陽新聞』です。民権思想を盛り込んだ刊行物としての水準は高く、高知の人々の政治的自覚を促す上で大きな役割を果たしたとされます。
 その誌面に載せられたこの論説は、4面から構成される紙面の第1面下段にあります。紙面上からも力を入れて書いた文章であることがうかがえます。無署名ですので誰が書いたかは分かりませんがこの新聞の主筆として専ら筆を執っていたのは、『東洋大日本国国憲按』の起草で知られる民権家植木枝盛(1857~1892)です。状況的には、彼が書いた可能性が高いと思えます。少なくとも植木枝盛の同意の上に書かれたものであるとは云えます。

 自由民権運動の中核的な新聞だけに、筆者は貧民が多数発生するような当時の社会自体の問題についても言及しています。しかし、施しを乞うて生活する遍路について、
「強壮にして働きを為せば出来る者が食を乞うて来たからと云って恵与するが如きは決して宜しからざることなり。又初めより他人を的にして食を乞ふで廻るが如き者をば、之れに何も与へざれば止めるやうに為るべけれども与ふるときは、何時迄も他人を的にして乞食を止めず。」
と記し、遍路の大半は怠惰から慟かない者だという考えが見て取れます。この筆者の排斥論には「働こうとしない」人々に対する嫌悪感が根底にあるようです。
 「働かず者、食うべからず」という「論理」は、日本の近代化を指導した知識人階級に共通する意識だったようです。ここには「弱者」への視線はありません。
 食を乞いつつ旅を続けた人々について、真野俊和氏は次のように述べています。
「私たちの文化のなかで、かつて乞食とは単なる貧民のことではなかった。(中略)
定住農民の対極にあって独自の文化の創造者でもあった。その意味で彼らの存在はまさに文化英雄の名にふさわしい。(中略)
しかし、遍路であれその他の巡礼であれ、あるいは旅芸人・渡り職人であれ、旅の中で食を乞う流民たちは、近代社会の中ではもはや厄介者にすぎない存在になりつつあった。

論説掲載のちょうど1か月前、4月9日の『朝野新聞』は「浪遊者処分法」を制定して乞食を北海道に送りこんで、土地開墾を行わせる案が検討中であると報じています。これを先の論説と併せて考えると「浮遊民の有効活用で近代国家建設」というシナリオを、時の政府は考えていたことが見えてきます。

県による遍路に対する取り締まりの実行                  
 もう一度、「土陽新聞』の論説にもどりましょう。この提言に対して、どんな反応があったのか。それについては5月22日「上陽新聞」雑報の欄に、
遍路拒斥すべし乞巧逐攘すべしとは、本社の痛論する處なるが、聴くところによれば我高知警察署に於ても、今度各警察署及び交番所の巡査に命じ、物乞いの徒は見当たり次第に之を所轄警察署に連れ来り一日一銭八厘づつの食を与へ置き、五日或は十日留置き、其の集る本籍へ追ひ返すことにせられしとか、誠に斯くの如くなれは、今後懸下に此奴等の跡を絶つに至ることにて頗ぶる結構なる次第也」
と、掲載から1か月もしないうちに警察が積極的に動き出したことを伝えています。4日後の5月26日には、
「本県警察署にて遍路乞食の徒は残らす本籍に追ひ返さるることになりし由、前号の紙上に記載せし、いよいよ昨日より之を宣行あることとなりて、現に高知警察署乃一手にて同日東西へ護送せられし分二百名にも及ひしと云ふ」
と報じています。これが事実だとすれば、かなり厳しい措置がとられたことになります。おりしも京都・東京では、この時期に同時進行で虚無僧の取り締まりが行われていました。
 遍路に対する取り締まりは、その後も後も続いたらしく、明治23年5月27日の『上陽新聞』では、
「客月廿日より三十日まで県下各警察署並びに分署に於て取扱ひたる遍路乞食放還者にして県内市町村役場へ交付し若しくは国境より放還したる人員は、合計273人」
と伝えています。その10年余り後の明治34年3月21日にも「本年2月1日より十日迄各警察署に於て追ひ払ひたる遍路乞食の数381人」
という記事が見えます。
 これについてある研究者は
「明治の歴史の暗い断面を覗かせるものだ。これを仮に、高知県内の当時の乞食遍路の総数に近いものとし、また四国の平均値と仮定すれ四国全体でで1100名~1500名以上となる」
と推測しています。
 高知県から遍路物乞いを一掃するという目的の下に始まった編組排斥運動ですが、本当に効果があったのでしょうか。
 明治34年(1901)2月21日には、次のような記事が載せられています。
「是迄市外柳原のほとりに露を敷寝の草枕で敢果なき夢を結び居たる遍路乞食は其数5名程度なりしが此の程に至り滅多に頭数が殖えたるにより、昨日或物好きが数へ見たるに正しく31人ありたり、警察署にて遍路狩りを執行し日数も未だ経たざるに斯く多人数となったるは抑も何ゆゑにや」
と、警察が遍路狩りを行って、まだ間もないにもかかわらず、高知市郊外の柳原に集まる遍路の数が31名に増加したのはどうしたことかという疑問を呈する記事が載っています。
 さらに同年12月24日の記事には、
「愛知県丹羽郡岩倉町酒井鍬吉といふは、四国辺路となりて合力を乞ひながら歩き廻る中、県下長岡郡某村駐在巡査の遍路狩りの獲物となりし処、此奴遍路の僻に仲々理屈をこねる奴にて
阿方(あなた)は何故に私の旅行を妨げますか。旅行は私の自由で御坐ります
と云張り後免警察署に連れ来られし後も頑として不服を唱ふる所により種々申聞たるも聴かす出高の上検事局及び警察本部へ警官の取扱を不法なりとして訴へ出でた」
とあり、反発する遍路も現れ、警察も手を焼いている様子を伝えてます。これを見ると、遍路取り締まりの効果があがっているとはいえないようです。

その後、遍路に対する取り締まりは、どうなったのでしょうか?
以前紹介した高群逸枝は『娘巡礼記』(1918年)の中には、遍路の取り締まりについて次のような話が出てきます。彼女と同行の伊東老人が、高知県の三十九番延光寺の経営する木賃宿に、同宿6人で滞在するこになったときのことです。
「彼等の云ふ所では、遍路する者は幾らお金持ちでも日に七軒以上修業しなければ、信心家とは云へないさうな。而も其の事は法律上からは禁ぜられて有る。
四国を十何回巡ったという愛知の人は、次のように語る。
「それは、出雲へ参拝の途であった。ふと或る家で修業してゐると、巡査に見付かつて逃げるに逃げられず遂に捕まって了ひ、暫らく警察署に留置され、或る処に護送され、一週間馬鹿馬鹿しい目にあわされた事が有ったことだ。
 又宿毛でも同じ目に合ひ伊予境まで追ひやられた事もある。そこで信心と法律とは矛盾してる形だから変だ。つまり四国遍路のお修業は公然の秘密になつてゐる。」
ここでいう修業とは、托鉢のことのようです。
徳島県では、二十番鶴林寺の山を下りた二人が村の人に宿を尋ねると善根宿を行っている農家を紹介してくれたのですが、そこの親切そうなお爺さんは、
「此頃警察が八釜(やかま)しくなりまして善根にでもお泊めすると拘留だの科料だのと責められますからお気の毒だが納屋でよろしいか。」
と、声を低めて言うのである。

 遍路旅の終わり、九州に渡るために愛媛県八幡浜の木賃宿に滞在中に、二人は実際に「遍路狩り」に遭遇しています。その時の様子を、高群は次のように詳細に記録しています。
 しばらくさわいでゐるうちに階下で警官の声がする。
 老人と娘?然うか。一寸来いと云って呉れ」
 二階から下へよび出され見ると二人の巡査さんで有る。
一人は上り口に腰掛け、一人は土間に立っている。
『ナニ此の娘?此りやお前の孫か。原籍氏名を述べろ』
まるで罪人扱ひだ。
 (中略)
『娘、お前は何の為め出て来た』
大喝が私の方にまはつて来た。
「心願が御座いまして」
『名は? もう一度云って見ろ』
「逸枝と申します」
二人はジロジロ私を見てゐたが暫くすると、
コラ遍路。お前達は何か。矢つ張り遍路姿か」 
此度はお爺さんに切尖(きっさき)が向く。
「へえ、お大師さまに詣るのだから遍路姿でなくちや仕方ありません」
「馬鹿、遍路と云ったが何うした。貴様腹を立てたんか。
幾ら身分は有っても遍路ぢや」
「オイ詰まらない。行かう」
二人はサツサと出て行って了った。
私も其屋二階に引返した。
 何だか滑稽なやうな。
でも彼れが警官の職責かなぞ思って、微笑んでゐると、お爺さんはプンプン腹を立てている
 「人を罪人だと思ってやがるが何だ あの横柄な態度は」
    (中略)
「けふは遍路狩だつせ。何人も警察ひかれたや云ひまつせ」
 浮かれ節屋さんが帰って来て、一同に告げ知らせる。
其晩は、道理で盲女の遍路さん遂々捕つて回置場へひかれたと云ふ事が分った。捕ったが最後国境まで護送されて追つ払ひとなるのだと皆が話している。
逸枝と二人の警官とのやりとりは、話がかみ合っていなくて漫才のやりとりのようで面白いのですが、遍路取り締まりの生々しい様子がうかい知れます。これは10月23日のことですが、この年は7月から米騒動が起きて、寺内正毅内閣が崩壊しています。愛媛県下でも8月には郡中町(現伊予市)の騒動を最初として何件かの暴動が続いていました。八幡浜でも小さな騒擾があったようなので、警察も治安維持に神経を遣っていたことが分かります。
 
 昭和になって書かれた遍路記からは、取り締まりに遭遇したという記述は見られなくなります。
遍路の取り締まりがいつまで続いたかはよく分かりません。しかし、地方行政機関による一連の政策が明治前期の四国遍路停滞の一つの大きな原因となり、後の時代まで継続的に行なわれていたことは事実のようです。
   いまでは「お接待の心でおもてなし」と行政が音頭取りをしています。しかし、かつては行政は、四国遍路に対する圧迫・取り締まりを行っていたという事実も知っておいてよいでしょう。