江戸時代には「移動の自由」はありませんでしたから、自由に旅することは出来ませんでした。移動は制限されていたのです。しかし、伊勢参りや金比羅参りなど、社寺参詣については「聖なる行為」として寛容だったようです。人々は、参詣にかこつけてぞくぞく国を出るようになります。それが江戸末期の「ええじゃないか」につながっていきます。金比羅詣でが大賑わいになる18世紀後半には、四国遍路にも農民・町人等などの庶民が数多くやってくるようになります。
それでも、社寺参詣への旅立ちには数々の「障害」がありました。
例えば農閑期以外の旅立ちは許されませんし、貢納未納者、負債者等には認められません。日数制限・人数数制限などの「規制」が多くの藩で採られていたようです。特に江戸後半になると各藩の財政は「火の車」状態で、四国遍路への旅立ち制限も強化され、ついには全面禁止に踏み切る藩も出てきます。しかし、抜け道はいろいろあったようです。
受けいれ側の四国各藩の「遍路対応策」を見ていくことにします。それでは最初は、阿波藩からスタートです
遍路に寛大な阿波藩
次の史料は阿波藩が出した、貞享4年(1687)7月28日付けの書付の一節です。
一 他国右参辺路人同行之内相煩候欺(中略)辺路(遍路)人之儀 寺請状井四国之内於何国同行之内病死仕候共為同行取置 其所之奉行不及申庄屋五人与村人へも六ヶ敷事懸間敷候(中略)寺持之出家外ハ俗人男女又者道心法主或ハ百人之内九拾人も貧賤之町人土民 殊更其内奥州九州辺からも罷越候 路銀丈夫二不持鉢二相見辺路之内於所々乞食仕四国廻り候様二相見へ候へは待合候得とも路銀丈夫二不持候ヘバ至其時難儀可仕候(中略)此度之趣急度改候而自古之辺路修行之障二成候ハバ環而如何に候(後略) (「阿淡御条目 百」 貞享四年)
これは、徳島藩が病気遍路などについての取り扱いを示したもので、病人の村方滞在や病死遍路の取り扱いについて、地方に迷惑が及ばない程度の処置を示しています。現実には病死した遍路を夜間ひそかに隣村内に遺棄したことが多かったようです。
また、遍路の9割は「貧窮の町人や土民であり、路銀の持参も僅かだから、そのうちには乞食となって四国廻りをするものも少なくない」と藩が見ていたことが分かります。
大坂から渡海してくる遍路については、藩から業務委託されている絨屋弥三右衛門と阿波屋勘左衛門が遍路手形を発行することになっていたようですが、中には「不法入国者」もあったようです。 正規の関所を通らずに入国してくる遍路は、「棄民」的な故郷から疎外された遍路たちでした。諸藩からすれば最も入国させたくない存在であったはずです。しかし、同時にこの種の遍路を冷遇しすぎると、藩内の良からぬ情報を他藩に広められたり、場合によっては悪評が公儀に知れわたることも怖れなければなりません。そのためには、江戸時代の前半には、ある程度の遍路に対する優遇策を採った藩もあります。
御国中へ他所右罷越候辺路病気にて郷中滞留仕罷有節向後日数十日過候者応日数壱人に壱人扶持宛可被下置候条被得其意此段兼而可被申付候(後略)(「阿淡御条目 百」元禄三年)
ここには、他国からやってきた遍路が阿波藩領で病気になったら、郷中に10日以上滞留した場合は、看病人に対し日数に応じて1人に壱人扶持を与えると記されています。そして本文では、事実海部郡奥浦での病死遍路の看病に対する扶持を与えるよう命じているようです。藩による「遍路救済事業」が行われています。
しかし、他国遍路に対して寛大な措置を指示する藩に対して、遍路に対応する現場の町役人からは困惑の様子がうかがえる史料があります。下の史料は、宝永5年(1708)6月の藩通達です。十七番井戸寺と十八番恩山寺の間で、徳島城下を通過する遍路の処置について、二軒屋の町役人が行った問い合わせに対する藩側の回答です。
諸国右参候 四国修行(遍路)人宿借り申度旨願候へとも借シ不申候ヘバ 往還之道二笈等指置何ケと横領申候 右様之義如何仕哉と弐軒屋年寄五人与笹部忠介方へ申出候 故杉浦吉右衛門粟田仁右ヱ門申談廻国之修行宿借シ不申様有之候而は修行之道断絶仕義二候 右修行人本之庄屋又ハ大坂之宿主等往来手形所持仕者之義ハ一宿之宿ヲハかし 右様之手形ヲも不持者ハ宿借シ不申様二可有御座哉と宝永五子ノ六月廿三日山田織部殿へ相伺候
この史料の舞台は、徳島城下の南端にあたる二軒屋で、南の郷村部から城下町への出入口になります。戦前までは木賃宿などが数多くあった所です。古くから遍路たちもこの付近に宿泊することが多かったようです。ここで「四国修行人(遍路)宿借り申度旨」の願いというのは、遍路宿への宿泊のことではなく、民家への「善根宿」の提供を遍路が願い出ていることを述べているようです。町民が善根宿を拒否すれば、民家の軒先などで仮宿をしたり、物品の横領など悪業を働く遍路もあって、その取締りに困っているので、処置を藩に問合せたようです。現場の町役人が期待したのは、「厳しく取り締まり立ち退きさせよ」という内容を期待したはずです。
ところが、藩の回答は意に反したものでした。
「宿借シ不申様有之候而は修行之道断絶仕義二候」として、往来手形を所持してる遍路には「一宿之宿ヲハかし」と、善根宿を提供せよとの内容です。そして、手形のない遍路には宿を貸さないようにと答えるのみです。これでは、町役人は困ったはずです。無手形の遍路に対する取締まり強化を求めたのに「無手形遍路に宿を貸してはならない」というだけでは、何の解決策にもならないからです。これでは、現場の責任者に悪質な遍路の取り締まりや排除はできません。
なぜ徳島藩は、遍路に対して強力な取締り策をとらなかったのでしょうか? となりの土佐藩は抑制策や厳しい取り締まりを行っています。阿波藩と土佐藩の遍路対策は対照的です。
阿波番所の遍路チェックは?
天保年間になると金毘羅詣客が激増します。大坂から金比羅船でやってくる参拝客は、丸亀に上陸して、金毘羅街道を歩き始めます。その中に、天保7年(1836)3月7日に、丸亀に上陸して金比羅には向かわずに遍路路を歩きはじめた男がいました。武蔵国旗羅郡中奈良村の野中彦兵衛です。彼は丸亀から東に向かって遍路を始めます。その動きを追ってみましょう。
彼は讃岐の大窪寺に参拝すると、讃岐坂本を越えて、大坂口の阿波番所で入国審査を受けます。その際のことを次のように記しています。
「阿州境 大坂、右大坂二おいて松平阿波守様御役所有之、国往来・丸亀上り切手、御引合せ御吟味之上」
と諸切手改めの上で、
「如此二御添書被下通る、阿州出ル時差上可申御事」
と出身国・氏名・日時・番所名の記された簡単な添え書きをもらったと記しています。
御印 覚武州旗羅郡中奈良村男弐人 重蔵彦兵衛申三月九日改メ大坂口 御番所(御印)
そして、3月14日に宍喰で阿波から出国する際に
「阿州御番所大坂口から頂戴仕ル御切手、申ノ三月十四日志々具ゑ(宍喰)の御関所へ上ケテ通ル」
と記し、大坂番所で渡された切手(添え書き)を、宍喰番所に提出して通過しています。今の出入国申請書にあたる書類なのかもしれません。宍喰にある土佐と阿波の境目の番所は「古目御番所」
と呼ばれていました。
大坂口の番所に関しては、江戸後期のものと思われる次のような興味深い文書があります
大坂口の番所に関しては、江戸後期のものと思われる次のような興味深い文書があります
高松藩と境を接する大坂(口)番所を控えた板野郡吹圧呵の組頭庄屋吉田次郎兵衛は、郡代奉行に宛てた遍路取り締まり強化策を、次のように願い出ています。
近年四国辺路体之者御国へ入込、専徘徊仕、随而土州表之義は路銀無之辺路は御境目紘之上、直に追返候趣に候、右に付御国へ立帰り前段之懸りに候得は、辺路体之内には盗賊も紛込候義も可有之候、依之所々御境目等におゐて路銀無之乞食之辺路、老若男女不限直に追返し候様、於然は盗賊究りにも罷成、自然と減じ可申候条、究り方之義存寄可申上旨被仰付奉畏乍恐左に奉申上候(年不詳)
意訳すると
近ごろ四国遍路の入国が激増しているが、土佐藩では国境の番所で路銀を持たない遍路を追い返し入国させないため、阿波国に滞留する始末である。その中には盗賊が紛れ込んだりしている状況も生まれている。土佐が行っているように、境目番所でも路銀を持たない乞食遍路についてはどうか。そうすれば盗賊も自然に減少するであろう。と土佐と同じような厳しい対応を求めています。具体的には以下の3点です。
一 御境目往来筋住居仕居申百姓共へ 逸々被仰渡乞食辺路体之者見及候節直に 追返候様兼而被仰付置度御事一、山手村々五人組共へ被仰忖、月々相廻り制道仕候様被仰忖度御事一、村々番乞食共往来筋並抜道等相考、乞食体之者又は胡乱成体之者行逢候節、御境目迄追戻し候様被仰忖度御事、大坂口御番所讃州より四国辺路通り筋に而御座候へは、四国辺路に相紛、乞食体之者入込申様に相聞へ申候、右御番所におゐて念を入相改候様被仰忖度御事右之通究り方山手村々へ被仰忖候はゝ自然と薄さ可申と奉存候に忖右之段奉申上候(後略)(年不詳)
要点は
①境目や往来筋の百姓たちに、乞食で遍路の体裁をした者を追い返すよう前もって命じておくこと、
②山手の村々の五人百姓へは月々見回りを強化して、道筋をよく抑えさせること、
②山手の村々の五人百姓へは月々見回りを強化して、道筋をよく抑えさせること、
③村々の番には乞食の体裁をした者や胡乱(うろん)者に行き会ったら境目まで追い戻すように命じ、大坂口番所にても念を入れて遍路改めをおこなうこと
ここからは当時の阿波では悪質なニセ遍路も横行していたようで、藩境に設置されていた番所では、村役人たちもその処置に対して「もう少し強硬な対応を」という意見を持っていたことが分かります。
このように幕末が近づくにつれて遍路の数も多くなり、さまざまな人たちが遍路として流入してくるようになったことが分かります。これに対して、阿波藩は土佐藩のようになかなか強硬策打ち出さなかったようです。そのため現場の役人からは「もっと強い措置を!」を求める声が上がっていたようです。
次回は、阿波とは対照的に対遍路強硬策をとった土佐藩を見ていくことにします。
参考文献 「四国遍路のあゆみ」
平成12年度遍路文化の学術整理報告書
次回は、阿波とは対照的に対遍路強硬策をとった土佐藩を見ていくことにします。
参考文献 「四国遍路のあゆみ」
平成12年度遍路文化の学術整理報告書
コメント