土佐は遍路にとっては「厳しい国」だったといわれるようです。
その理由として、挙げられるのが次の3点です。
①札所の数が少ないので道のりが長いこと、
②大河や海岸線が長く難路が多いこと、
③藩の取り締まりが他国・他藩とべて厳しかったこと
土佐藩には早くから厳しい通関規則があって、国境通過の厳しく制限されていました。しかし、四国遍路などの巡礼には特例を設けていたようです。寛文4年(1664)の布告を見ると
「辺路は其身自国の切手見届け、吟味の上にて通し申すべき事(三谷家文書)」
とあって、手続きも寛大にして通行を認めていたようです。
  元禄3年(1690)の道番所定書では、遍路が入出国できる関所を次のように限定するようになります。
 辺路(遍路)は其身之国手形見届札所順路二候条、甲ノ浦口・宿毛口から入可申事。其外之通口方ハ堅可指止。右東西弐ヶ所之番所方添へ手形を出し、出国之節番人受取置通可中事。 右元禄三午三月晦日 (「憲章簿」辺路之部―)
甲浦口から入境して西に向かうのを順行、
その反対に宿毛口から入境して東に向かうのを逆行
と呼び、このふたつの関所以外からは遍路は土佐に入ることは「堅可指止」と禁止とします。しかし、国手形さえ持っていれば入国を認め「添手形」を発行したことは変わりません。国手形というのは、生地の身分証明書のようなもので、これさえ持っていたら甲浦の番所で添手形(通行許可証)を付けてもらって、土佐国内を巡拝して、宿毛口(松尾坂)番所で添手形を返却すればよかったようです。
  寛延2年(1749)5月2日の定書には
「四国辺路日数百日迄之暇聞届申定」
とあり
「右は詮議之上今日相極、向後右日数願書にも相記載候様、先遣役へ申付置候事」
とあります。
ここからは、藩当局が藩内の人々の四国遍路日数の上限を百日以内に制限していたことが分かります。つまり、土佐の人が四国遍路をする場合は百日以内で帰ってくることを義務づけられていたのです。
享保4年(1719)12月、郷浦・町方に対し次のような改め方を指示します。
他国から入来候辺路(遍路)・六拾六部等改様之事
 右は甲浦、松尾坂両於番所往来切手・宗旨于形見届之上、疑敷者二而無之候ハ犬番人共から可申聞趣は、辺路札所国中之順路従是凡七拾八里有之間、今日から日数三拾日限可被通候。尤一宿之村々二而、庄屋・老改之日次を請可通候。素脇道通り候儀は堅法度二候。(中略)
ここからは、他国からの遍路が甲浦・松尾坂番所から入国する際に、番人から申し渡されたことは、
①土佐藩領内の通過日数を入国から30日以内とする
②遍路途上で一宿した村々では所持の切手に、庄屋から日付と著名、判形をもらう、素通り法度(厳禁)
③日数の遅延とか無益の滞留・脇道の通過などは禁止
という3点です。
土佐領内の滞在日数やルートが新たに指定されています。
こうして土佐藩の遍路取り締まりは強化されていきます    
寛文3年(1663)以降、土佐藩では遍路に対する規制として、出入国改め方、通過日数制限や日時改め方の遵守、脇道通行の禁止、無切手者の取り締まりなどを、繰り返し布令がでています。それだけ問題が多発していたことがうかがえます。そして文政年間以降になると、藩から出される通達はますます細かく、厳しい方向に向かうようになります
 文政2年(1819)には、四国遍路や七ヶ所遍路の出立・帰郷の際に趣向を催すことや、遍路に対する堂社・居宅・道筋においての接待なども、禁止されるようになります。
「時節柄を省みず不心得・不埓な行い」
と、云われるようになります。もっとも遍路順路での托鉢に対して、1銭あるいは握り米等を与えることは、昔からの「せったい」なので差し支えないとしています。
遍路の「多様化」 脇街道に出没する「遍路乞食」
 遍路の通る道は、東の甲浦口と西の宿毛口の指定された街道に限られていました。しかし、遍路の中にはこの規則を無視して他の脇道へ潜行する者も出てきます。信仰的な巡礼よりも生きていくための「物乞いや商売」に重きを置く遍路が現れていたのです。そのため土佐藩は脇道の通行を禁止する通達を、たびたび出しています。何度も出されると云うことは、禁令が守られていなかったことを示します。
天保5年(1834)3月の郡奉行布筈には
「潜行する遍路については、隣村の庄屋と詮議のうえ、問題の無い者へは入国禁止を言い含めて近くの国境より追放せよ」
などの対処法が指示されています。
その年の11月には、一般領民に次のような布令が出されています
遍路の風体をした者が各地に姿を見せ奇妙な行動をしている。医師のまねごと、占い師めいた仕業で庶民の悩みに乗じて金銭を詐取する者がある。弘法大師の灸点などと唱えて人心を惑わす者もある。これは風教の上にも甚だ好ましからとであるから、遍路道はいうに及ばず、脇道であっても取り締まりを厳重にするように」
領民に注意を促したものですが、医師・占い師・灸師の真似事を行う遍路がいたことがうかがえます。遍路姿の「多様な職業人」が村々に入り込むようになっていたのです。
天保7年5月には、
遍路を装って潜入し強盗に変じて治安を乱す者がある、疑わしき者は即刻召し捕りを命じるように
との戒告が出されています。
天保9年(1838)4月には、遍路の激しい流入による社会不安や混雑を防ぐために、取り締まりを厳重にし、他国遍路の入国については、その条件を次のように明確にします。
       覚
四国辺路之儀は元来宿願之子細に依而国々霊場令順拝事にて、往古より御作法を以て通入被仰付置候処、近年右唱計にて専ら乞食同様之族余計入込み、動は不法之儀有之不而己、老幼並病体之者共数百人行掛り令病死、実に御厄介不絶事に候間、猶又此度詮議之上別紙之通廉々相改様被仰付候条、聊か他念無之様改方之作配可有候。已上
   他国辺路之事
生国往来手形、並納経、其余四国路外之者御船揚り切手持参之事。
路銭相応持参之事。
六拾六部廻国之儀は東叡山御定目、並三ッ道具所持之者。
右夫々所持不致者は通し人不相成、右之外病症顕然にて歩行確に不相調者、並老極幼年者共壱人立罷越候者勿論通入不相成、 (後略)     (天保九年)
 ここには近年、遍路と称して乞食同様の者が多く入り込み、不法を働く者のほか老人年少者、病気の遍路が立ち寄って数百人の死者が出るなど、在所に迷惑がかかる者が増加した。そこで今後は、次のものを持っていない場合は入国させない。
①生国往来手形と納経、四国外の者については船揚り切手を所持していること、
②相応の路銀を持っていること。
③六十六部廻国者は東叡山御定目、三ッ道具を所持している者
そのほかに、病症があるものや歩行困難な者や老人や極年少者の単独遍路、身分不相応な所持品を持つ者も通さない。
以上のことをが道番所と郷民に通達されています。幕末が近づくにつれて遍路取り締まりはますます厳しくなっていきます。

四国遍路では、城下町は遍路は通過禁止でした。
例えば真念の「道指南』でも、
「かうち(高知)城下町入口に橋あり。山田橋といふ。次番所有、往来手形改。もし城下にとどまる時は、番所より庄屋へさしづにて、やどをかる。」
とあって、宿を借りる場合には、庄屋の許可がいることが記されています。一般的には、札所は城下周辺にあるので、城下そのものは迂回して通過していたようです。これは、松山以外のその他の城下町も同様です。
城下町の中にあるお寺は、札所にはなっていません。遍路道は城下町を通らないで迂回します。ここからは、城下町が成立した後に遍路ルートは整備されたことがうかがえます。
高知城下が遍路往来禁止になっていた史料です。
「御家中並に町方四箇村において、夜分辺路(遍路)体の者見逢候はば生国の往来切手、並に日次等相改め、疑敷箇条於有之は勿論、疑敷個条無之とも夜分往来又は町端等にて臥り居り候者共は、手寄りの町郷庄屋へ預置き其旨相達し申尽事。但し本文の者夜分五ッ時(午後八時)より内に見逢はぱ日次等相改め、御作法の日数も過ぎ申さず、図らず道に踏迷ひ候て夜に入り申す様の儀、疑敷事跡相見えず候はば、街道の方へ追払ひ申すべく候事」。
  ここには城下において夜に遍路を見た場合には、小国往来手形や日次(宿泊履歴帳)をチェックし、疑いの有無にかかわらず最寄りの町役人宅に連行せよとあります。夜間の高知城下町への遍路の侵入は厳しくチェックされていたようです。
土佐国境の番所手続きを遍路道中記で見てみましょう。
天保7年(1836)遍路の武蔵国中奈良村の野中彦兵衛は、土佐に入り「土佐之国御関所甲ノ浦東股御番所右三月十四日頂戴仕候」
と甲浦の番所で切手と日付帳面を貰い受け、土佐国を遍路します。
その土佐通過の切手及び日付帳面には次のように記録されています。
     切手(印)
 武州旗羅郡中奈良村
一、遍路弐人       彦兵衛
             重蔵
 但し、三月十四日甲ノ浦東股於御番所二相改今日右日数三十日限り松尾坂江参着之筈
右之通委細中含メ候条、尤村々二猶又念入相改メ可申候、尤札所順路之義者御法度之旨申聞候也
 申ノ三月十四日
        和田惣右衛門 印
  甲浦右松尾坂通迄
    順路道筋庄屋衆中(印) 
  覚
 右弐人 三月十四日
  伏越御番所口入也
        北川逸平 印
     入切手弐数也
 右弐人 三月十五日
        出申候 佐貴演
  佐貴ノ演村 同所庄屋寺田房五郎
   (以下略)
 末尾の(以下略)のあとには、前の部分と同様に「右弐人」に「出足の日付」、「庄屋姓名の自署」が順番に、土佐を出る4月22日まで並んでいます。以前見たように土佐藩領内を通過する遍路は、当日宿泊地の村役人(庄屋)の承認印をもらわなければならないという通達が守られていたことが分かります。
そして「右御日附帳面を申四月廿二日ハッ時、松尾坂御番所へ上ル」とあって、彦兵衛は切手と帳面を宿毛国境にある松尾坂番所に差し出して、土佐国を通過し、伊予国に入っていったことが分かります。
 もう一つの例を見ておきましょう。
文化元年(1804)の伊予久谷村円福寺の僧英仙による紀行記録『海南四州紀行』です
これには英仙と弟子の胎仙は土佐甲浦の番所で、役人から右の照暗状(手形・切手・証明書)というものを渡されます。後は自分で小紙6枚を、日限書に綴じ添えます。それを毎日、道筋にあたるそれぞれの村の庄屋へ行って、日付を書き込んでもらいながら遍路を続けています。
右二人出足 五月廿四日 白浜
右二人出足 同廿五日 椎名村
右二人出足 同廿六日 羽根村
(中略)
右二人出足 六月八日 姫ノ井
右二人出足 同九日  宿毛浦
といった記録が並びます。5月23日に甲浦番所から土佐に入国し、6月9日に宿毛の番所に着き、添え手形を返して出国しています。土佐通過に要した日数は17日です。土佐藩の「通過制限日数」の上限は30日でしたから、天候等にも恵まれれば20日以内では通過できたようです。日数制限は、必要日数の倍くらいに定められていたようです。
 ペリーがやって来た翌年、嘉永7年(1854)11月4日、西日本に大地震が発生し、高知には大きな被害をもたらします。
幕末の南海大地震です。このため土佐藩では、四国遍路をはじめ他国人の入国を禁じる措置をとります。その年の11月14日付けの藩通達には
此度之大変(大地震)のために往還の道路が大破し、遍路などが通行しがたいので遍路の入った所の村役人は覚書を添えて、各村々順送りで最寄りの国境から遍路を送り出すように
と命じています。
 こうした措置はしばらく続いたようです。
「藤井此蔵一生記」の文久2年(1862)の条に、藤井此蔵の娘しほが、この年3月10日に6人連れで四国遍路をして、4月9日に30日振二帰村した記事には、
「去る嘉永七寅歳十一月大地震より、土州へは辺路(遍路)一圓入れ不申、只今にては三国漫路に相成候て。歎ヶ敷事也。」
と記し、地震から8年経っても土佐への入国禁止措置がまだ続いていたことが分かります。この期間は土佐を除く「三国漫路」だったようです。

  四国遍路の対応に苦慮し「遍路排斥策」を採っていた土佐藩にとっては、大地震は「遍路入国の全面禁止」策を打ち出す契機になったのかもしれません。土佐藩は地震被害を理由に、その後もなかなか遍路の入国再開を許さないのです。このような動きは明治維新後も続きます。土佐藩内部にあった四国遍路遍路排斥論は、明治になっても役人に引き継がれていったようです。
参考文献 「四国遍路のあゆみ」
       平成12年度遍路文化の学術整理報告書