3松尾峠1から

宇和島藩と小山関所
 土佐の西端の宿毛と伊予の国境に松尾峠があり、そこには土佐藩の松尾坂番所(宿毛口・松尾番所)と宇和島藩の小山番所が設置され、入出国者に目を光らせていました。天保7年(1836)に四国遍路をした武蔵国幡羅郡中奈良村庄屋の野中彦兵衛は、小山番所の手続きについて次のように記しています。

「伊予国入口御番所、小山村二宇和島御城主御高十万石、伊達遠江守様御番所口上り切手往来御改、其上被仰渡候趣左二 辺路(遍路)道斗通べし、脇道ハ相成不申、当御領分日数七日限り、止宿ハ相対二而宿取、若し差支候節ハ村々庄屋へ相懸り、泊り可申長」

と、切手改めの上、脇道を通らずに遍路道のみを通行して7日以内に藩領内を通過するように申し渡されています。土佐藩と同じような規制があったようです。25日、彦兵衛は、この切手を東多田番所で差出しています。宇和島藩領内の通過に要したのは4日でした。

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元縁10年(1697)8月の宇和島藩が東多田番所宛てに通達した「定」の第4項には、
「辺路(遍路)之儀ハ其所から之手形証文を改、槌成事二候ハヘ通可申事」
とあって、手形証文(切手)を検査して、確かであれば通行させよ命じています。ここには遍路の通行に関しては制限していないようです。ただ、第1項には、次のようにあります。
「番所之事、御領中江出入之者可為相改事二候、天下往還之旅人相留候事ニ無之候、然れども御領ハ往来之道筋と申二者無之候、若土佐国江相通由断候ハバ、道筋を承、小山樫谷之内へ通り手形遣可相通事」

ここからは、土佐へ行く一般の旅人には、「通り手形」(通行証・切手)を番所で発行していたようです。先ほど見た天保7年(1836)の野中彦兵衛の場合には、遍路にも切手を発行し、通行日数制限を行っていますから土佐に習って、幕末が近づくに従って遍路に対するも取り締まりが厳しくしなっていったことがうかがえます。

3小山番所跡
 同じ年に四国遍路を行ったのが松浦武四郎です。彼も
「東たゞ村、村端、番所、宇和島領是限り也。此處二而出入のものを改(め)り。
(中略)此領分廿一里を七日の内に通らざるものは陸奥ケ敷(ムツカシク)云う也」
と、「領内通過7日」とされていたことが記され、先ほどの史料内容を裏付けるものになっています。
3松尾番所跡2

 大洲藩の規制は? 
大洲藩に入ると、鳥坂番所があります。この番所はもとは鳥坂峠にありましたが天保年間に久保に移ってきます。先ほど見た野中彦兵衛や松浦武四郎も、この番所を通過したはずなのですが、彼らの記録には、一言も触れていません。大洲藩領には霊場札所は一か所もないので、「通過地点」という感じだったのでしょうか。
安永5年(1776)11月に藩が村役人心得として大洲藩が通達した書付写しの一部です。
(前略)
一、虚無僧其外廻国辺路(遍路)浪人体之旅人、従公儀被仰出候趣、猶又急度可相守事  
 附、村々により辺路(遍路)宿相究候事、延享二丑ノ年停止申触候得共、今以村により有之様二相聞候、向後急度差留候、間取り小百姓共不同無之様宿可申付事、
 はり札ニ、辺路定宿之儀、先年伺之上無拠聞届ケ置候村々ハ只今迄之通たるへき事
(後略)            (「上吾川宮内家文書」)
ここには領内の村々においては遍路宿を営むことは禁止していたはずだか、近年その筋の許可もなく勝手に遍路等の旅人に宿を提供する者がでてきているとようだ。延享2年(1745)に禁止されたことであり、重ねて禁止の旨を徹底するようにと命じています。なお許可済みの遍路宿については従前通りであると、小さな紙札に書かれてこの文書に貼り付けられていると記されています。
 封建時代は移動の自由も、営業活動の自由もありませんでしたから勝手に遍路宿を営むことも許されなかったようです。

3四国遍路道
  松山藩の遍路寛大策と道後温泉
鴇田峠(ひわだ)を境に大洲藩領から松山藩領久万山に入ります。
天保14年(1843)阿波名西郡上山村の前庄屋粟飯原権左衛門一行は、次のような通行切手を与えられていました。
   覚
遍路街道之外
久万山日数五日切
阿州名西郡上山村権左衛門十二人
         松山領久万山
   辰三月六日    改所 印

この文章は「不可入遍路街道之外」で「入るべからず」が省略されています。つまり、久万山の通過には、遍路道のほか脇道に入らないことと5日の日数制限があったことが分かります。
同じようなものには「松山領野間郡県村庄屋越智家史料』にもあります。この切手を発行した改所は『海南四州紀行』の一節に、「坂ヲ越テニ名二至り出店、即チ改役所ヲ兼貿」とあり、松山藩領に入る手前の浮穴郡二名村に改役所があったと記します。 なお、久万山とは、今は久万高原一帯を指し、古くは久万郷ともいい、大半は松山藩領でしたが、一部の二名村などは大洲藩領でした。

3松尾峠から2
 三(見)坂峠を越えて松山城下に近づきます。
四国遍路の記録を残した遍路達が必ず触れているのが道後温泉のことです。この温泉には遍路優待の定めが古くからあったようです。名湯と知られた道後に入れることは、長い旅をしてきた遍路達にとっては何よりの楽しみであったようです。
道後温泉郷に止宿する遍路の数は多かったようです。

3松山
 元禄15年(1702)編集の「玉の石」(道後最古の観光案内書、著者は僧曇海)には、
「四国遍路、七ヵ所参、三十三番じゅんれい、同行幾人にても勝手次第一宿するなり」

とあります。ここからは、四国遍路や七ヵ所参り、松山西国巡礼の人々には、道後で自由に一宿できる「特別待遇」があったようです。 遍路が優遇されたことについては、『伊予道後温泉略案内』(宝暦から明和年間〈1751~72〉には、
「遍路は3日間は湯銭いらず」
とあり、元禄5年(1692)の松山城下某の『四国遍路日記』にも
「遍路ハ三日でゆせんをとらず」
とあります。
江戸時代中期までは、四国遍路は3日までは湯銭が免除されていようです。「ただ風呂」だったのです。3日を越えての湯治になると「一まわり」(6日)24文、燈明銭12文を支払わねばならない規定です。
 ところが、幕末になってくると、この遍路に対する優待制度も終わります
明王院公布の定書には、次のように変化します。
「四国遍路や通りかかりの者は3日間に限って止宿湯治を許可、また遍路ののほか身なりのよろしからざる者や病気の者は養生湯に限っての入浴を許す」
 ここには遍路でも身なりの良くない「遍路乞食」は「養生湯」のみの入浴に制限されるようになります。その背景には、四国遍路自体の「質的変化」があったようです。すなわち、職業的遍路や故郷のムラを追われる形で死出の旅路をたどる病気遍路の大量出現などです。これに対して、一般の湯治客からの苦情もあったようです。このころになると湯治宿と遍路宿の「差別化」も進み、遍路が一般旅館に泊まることは難しくなったことがうかがえます。

3道後温泉

 幕末の世情騒然の時期になると、松山藩でも遍路や旅人に対して警戒心を強めるようになります。 
 文久2年(1862)には、郡方への取り締まり心得の中で、
「遍路体穏成(たしかなる)者ハ宿致させ候共、村役人江申届取計可申」
とあり、遍路で確かな者には一宿を与えてよいが、必ず届け出するよう求めています。また、城下へのよそ者の立ち入りについても規制を強化しています。同年5月の布告では、他国からの長逗留者を取り締まることに加え、遍路については
「古来より御免之遍路道ハ遍路者止宿之儀、前々御法も有之候儀二付、猥ケ間敷(みだりがましき)儀無之様可致事」
と従来からの法を守るように求めます。 同じ年の6月には
「商人並びに遍路物真似師風之者共、猥二御城下徘徊為致間敷候」
と承認や遍路の城下での自由な活動を禁じます。そして
「無宿並に札取二無之遍路乞食之類者、直二追払可申事」
と、順拝納札をしない遍路風の乞食などは追い払うよう厳しく命じています。松山でも土佐と同じく「遍路乞食」が増えていたのを、幕末の混乱期になると危機意識から排外意識が高まり遍路排除の機運の方向へ動いたことが分かります。

4小松藩1

  小松藩の会所日記に記された四国遍路
伊予小松藩領1万石の「会所日記」は、色々な意味で貴重な資料です。小松藩は農村16か村、享保17年の人口が11,200人、推定戸数が2,570戸前後で、丸亀藩の支藩である多度津藩と同規模の藩です。

4小松藩2
小松藩の「会所日記」によっていろいろなことが分かってきました。例えば、ここには領民からの伊勢参りや四国遍路への参拝許可記録が残されています。それを見てみると
19世紀の40年間の小松藩の遠隔参詣者総数は5,593人でその内訳は、
伊勢参宮1,700
四国遍路1,925人、
厳島参詣1,835人
でこの三つで大部分をしめていること事が分かります。年平均140名程度がこれらの遠隔参拝に出ていたことになります。ところが、万延元年(1860)には、一人の参宮・遍路・厳島参りいません。これはどうしてでしょうか。たぶんうち続く不作で農村荒廃し、藩が「参詣禁止令」を出したと考えられます。
4小松藩3
四国遍路に出かける季節は?
 参詣時期については、宝暦の末(1764)までは、参宮・遍路は田植え後が多かったのですが、天保の初め(1830)になると、年初めと田植え後がほぼ並びます。それ以降幕末までは、年初に旅立つようになっています。田植え後から年初めへと旅立ちの時期が移動した理由は今のところ分かりません。
 農民は金毘羅参拝よりも四国遍路に出かける方が圧倒的に多かったようです。その時期は閑期に集中し、農繁期に激減するという季節的特徴があったようです。また、年によって増減があります。凶作等の場合は、藩の参詣統制が強化され、時には全面的禁止になる場合もあったようです。例えば享保17年(1732)、伊予は飢饉による大きな被害を受けますが、小松藩でもわずか1万石の小藩から仙人足らずの餓死者を出しています。人口の1/10にあたります。あった。飢饉のあった年の「会所日記」には、遠隔参詣者として一人の記載もありません。4年後になってやっよ一人の名前が記されるようになります。ここにも凶作・飢饉の影響がうかがえます。天保4年は(1833)は不作で米価が高騰した年ですが、翌年の参詣総数は77名と例年の半分になっています。
 これに対して、豊作後の文化9年(1812)には270余名を数える人たちが参拝願いを出しています。このように農民を中心とする近世の参詣は、作物の豊凶・農村の景況に強く左右されていたことが分かります。
4小松藩5

以上、伊予の各藩の遍路対応策を見てきましたが土佐藩に比べると寛容な感じがします。特に松山藩の道後温泉への「無料入湯」などは、他には見られない優遇策です。このため松山周辺には数多くの「遍路乞食」が「不法滞在」していたことがうかがえます。そして、幕末の対外的な緊張関係が高まると世の中は排外的な動きを強め、遍路に対しても排除・排斥の方向へ動き出していったことが分かります。

参考文献 「四国遍路のあゆみ」
       平成12年度遍路文化の学術整理報告書