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善通寺東院の巨楠
江戸時代の善通寺は、丸亀藩の祈祷所でもありました。そのため正月などには藩主の武運長久や息災延命、領内の五穀豊穣の祈祷などを行なって、祈祷札を年頭の挨拶に届けていた記録が残っています。その中に雨乞祈願の記録があります。
 善通寺の「御城内伽藍雨請御記録」と記された箱の中には丸亀藩からの依頼を受けて善通寺の僧侶たちがが行った雨乞い祈祷の記録が、約80件ほあります。それによると正徳四年(1714)~元治元年(1864)の約150年に約40回の雨請祈祷が行われており、およそ4年に一度の頻度で雨乞が行われていたようです。

5善通寺
善通寺境内の善女龍王社
 雨乞を行なった場所は、善通寺境内の善女龍王社か丸亀城内の鎮守亀山社・天神宮のどちらかです。そこで行われていた祈祷とはどんなものだったのかについては、以前お話ししましたので簡単に「復習」しておきます。

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祈りを捧げるのは、善女龍王です。
善女龍王は清滝大権現のことで、もとはインドの沙渇羅竜王という竜神の娘で仏教の守護神として長安の青竜寺の守護神として祀られていたとされます。空海は唐から帰朝後に、この神を高尾の神護寺に勧請して真言密教の発展を祈願し、この神が海を渡って日本へ来ます。そこで青竜の二字に「さんずい」をつけて清滝としたといわれます。つまり善女龍王は空海によって「清滝さん」となり、雨乞いの神として信仰をお集めるようになっていきました。

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神泉苑で請雨法
善女龍王は、どんな姿をしているのでしょうか?

善女龍王 変化
善女龍王の変化
 弘法大師が天長元年(八二四)に神泉苑で請雨法を行ったとき愛宕山山上に顕れた善女竜王の姿を弟子に写させたといわれています。その姿は、善女竜王像や善女龍王龍王社という形で高野山に残っています。
5善女竜王社への行き方
高野山の善女龍王社
そして、善通寺の東院境内には今も善女龍王を祀った祠が池の中にあります。ここで雨乞い祈祷が行われていました。

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本山寺の善女龍王像 
三豊の真言宗寺院でも善通寺に習って雨請祈祷が行われるようになったようで、本山寺(豊中町本山)にも善女龍王像が祀られています。安置されている鎮守堂の材の墨書には「天文二年」(1547)とありますから、戦国時代の16世紀中頃には行われていたことがうかがえます。
5善女龍王

 威徳院(高瀬町下勝間)や地蔵寺(高瀬町上勝間)には江戸時代の善女龍王の画幅や木像があります。ここから善女龍王への信仰が広く民衆に広がっていたことがうかがえます。
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 地蔵寺には、文化七年(1810)に財田郷上之村の善女龍王(澗道(たにみち)龍王)を勧請したことを記した「善女龍王勧請記」が伝わっているので、19世紀初頭には財田の澗道龍王の霊験が周辺地域にも知られていたことがわかります。
5善通寺22
綾子踊りの幟
今までのことをまとめて、その先の「仮説」まで記してみると次のようになります。
①空海によって善女龍王が将来され、清滝権現として雨乞祈祷信仰を集めるようになった。
②善通寺にも高野山を通じて招来し、丸亀藩の要請を受けて雨乞い祈祷が行われた。
③三豊地区の真言寺院でも善女龍王をまつる雨乞い祈祷が行われた
④祈祷で効果が無ければ、村挙げての「雨乞い踊り」も行われた
⑤讃岐の二宮である大水上神社では「エシマ踊り」が雨乞い踊りとして奉納された
⑥その流れを汲む風流踊りの一つが国無形文化財に指定されている綾子踊りである。