現在の金刀比羅宮は、大物主命を主祭神としています。しかし、明治の神仏分離までは金毘羅大権現が祭神でした。それではこの神社に祀られていた金毘羅大権現とは、どんな姿だったのかのでしょうか。金比羅については次のように云われます。
しかし、こんぴらさんが祀っていたのは、この金比羅大将とは別物だったようです。松尾寺の本堂の観音堂の後に金比羅堂が戦国末期に、修験者達によって建立されます。
金比羅堂に祀られていた金毘羅大権現像はどんな姿だったのでしょうか?
長宗我部元親に従軍して土佐からやって来て、金光院別当として讃岐における宗教政策を押し進めたのが土佐出身の修験者宥厳です。彼は土佐郡占領下での実績を買われて、長宗我部軍が撤退した後も別当を引き続いて務めます。そして、松尾寺や三十番社との権力闘争を勝ち抜いて行きます。それを支えたの弟弟子に当たる宥盛です。彼は、生駒家と交渉を担当し寄進領を確実に増やすなどの実務能力に長けていたばかりでなく、修験者としても名声が高く、数多くの弟子達を育て各地に金毘羅大権現の種を飛ばすのです。その彼が死期を悟り、自らの姿を木像に刻んだ時に
神仏分離で金毘羅大権現や仏達は、明治以後はこの山ではいられなくなりました。多くの仏像が壊され焼かれたりもしました。
金毘羅堂にあった金毘羅大権現と不動明王・毘沙門天の三仏トリオは、どうなったのでしょうか。
金剛坊宥盛は、現在は祭神として奥社に祀られています。その自作の木像も奥社に密かに祀られているのかもしれません。
それでは脇士の不動明王・毘沙門天はどうなったのでしょうか。この仏たちは数奇な運命を経て、現在は、岡山の西大寺鎮守堂に「亡命」し安置されています。これについては別の機会で触れましたので詳しくはそちらをご覧ください。
「サンスクリット語のクンビーラの音写で、ガンジス河に棲むワニを神格化した神とされる。この神は、仏教にとり入れられて、仏教の守護神で、薬師十二神将のひとり金毘羅夜叉大将となった。また金毘羅は、インドの霊鷲山の鬼神とも、象頭山に宮殿をかまえて住む神ともいわれる」
それでは、金毘羅大将は十二神将のメンバーとしては、どこにいるのでしょうか?
最も古い薬師十二神将であると言われる薬師寺のお薬師さんを守る十二神将を見てみるとお薬師さんの左手の一番奥にいらっしゃいます。彼の本地仏は弥勒菩薩です。インドでは、彼の家は「象頭山」とされるので、讃岐の大麻山と呼ばれていた山も近世以後は象頭山と呼ばれるようになります。
確認しておくと以下のようになります。
クンピーラ = 薬師十二神将の金毘羅(こんぴら・くびら)= 象頭山にある宮殿に住む
十二神将の金比羅(クビラ)大将
しかし、こんぴらさんが祀っていたのは、この金比羅大将とは別物だったようです。松尾寺の本堂の観音堂の後に金比羅堂が戦国末期に、修験者達によって建立されます。
金比羅堂に祀られていた金毘羅大権現像はどんな姿だったのでしょうか?
江戸時代には、金毘羅を拝むことのできませんでした。しかし、特別に許された人には開帳されていたようで、その記録が残っています。
『塩尻』の著者天野信景は、次のように記します。
金毘羅は薬師十二神将のうちのか宮毘羅(くびら)大将とされるが、現実に存在する金毘羅大権現像は、
「薬師十二神将の像と甚だ異なりとかや」「座して三尺余、僧形なり。いとすさまじき面貌にて、今の修験者の所戴の頭巾を蒙り、手に羽団を取る」
「形像は巾を戴き、左に数珠、右に檜扇を持玉ふ也、巾は五智の宝冠に比し、数珠は縛の縄、扇は利剣也、本地は不動明王とぞ、二人の脇士有、これ伎楽、伎芸といふ也、これ則金伽羅と勢咤伽、権現の自作也」、
延享年間に増田休意は
「頭上戴勝、五智宝冠也、(中略)
左手持二念珠・縛索也、右手執二笏子一利剣也、本地不動明王之応化、金剛手菩薩之化現也、左右廼名ご伎楽伎芸・金伽羅制叱迦也」、
「優婆塞形也、但今時之山伏のことく持物者、左之手二念珠右之手二檜扇を持し給ふ、左手之念珠ハ索、右之手之檜扇ハ剣卜申習し候、権現御本地ハ不動明王也、権現之左右二両児有、伎楽伎芸と云也、伎楽ハ今伽羅童子伎芸ハ制叱迦童子と申伝候也、権現自木像を彫み給ふと云々、今内陣の神肺是也」
と、それぞれに金毘羅大権現像を記録しています。これらの史料から分かることはは金毘羅大権現の像は、十二神将の金比羅神とはまったくちがう姿だったことです。その具体的な姿は
①頭巾を被り②左手に念珠、③右手に扇もしくは笏を持ち、④伎楽・伎芸の両脇士を従える
松尾寺に伝わる金毘羅大権現
これを裏付けるように『不動霊応記』では「金毘羅大権現ノ尊像ハ、苦行ノ仙人ノ形ナリ、頭二冠アリ、右ノ手二笏ヲ持シ、左ノ手二数珠ヲ持ス、ロノ髪長ウシテ、尺二余レリ、両ノ足二ハワラヂヲ著ケ、頗る役行者に類セリ」
といった感想が記されています。金毘羅大権現像を見た人が「役行者像とよく似ている」と思っていたことは注目されます。
記録に残された金毘羅大権現像について、もう少し具体的に見てみましょう。
①頭巾は五智宝冠に、②左手の念珠は縛索に、③右手の扇または笏は利剣に、④伎楽・伎芸の両脇士は金伽羅・制叱迦の二童子
以上から姿をイメージすると、不動明王とも言えます。確かに金毘羅大権現の本地仏は不動明王とされますので納得がいきます。しかし、役行者像に付属する前鬼・後鬼についてもこれを衿伽羅・制叱迦の二童子とする解釈もあるようです。どちらにしても「役行者と不動明王」の姿はよく似ているのです。
江戸時代に大坂の金毘羅で最も人気を集めた法善寺でした。
その鎮守堂再建の際に、「これは金毘羅堂の新規建立ではないのか」と、讃岐の金毘羅本社よりクレームがつきます。いわゆる「偽開帳」にあたるのではないかと言うのです。その時の法善寺の返答は
「当寺鎮守ハ愛染明王二而御座候得共、役行者と不動明王を古来より金毘羅と申伝、右三尊ヲ鎮守と勧請いたし来候」
とその由緒を述べ
「金毘羅新キ建立なと申義決而鉦之御事二候」
と申し開きを行なっています。つまり、金毘羅大権現像と姿が似ている役行者像、金毘羅大権現の本地仏とされた不動明王像の二体を法善寺では金毘羅大権現と称していたのです。
これ以外にも役行者像を金毘羅大権現像と偽る贋開帳が頻繁に起きます。讃岐本社の金毘羅大権現像自体も、役行者像そのものではなかったかと思わせるぐらい似ていたことがうかがえます。ただ、琴平の金毘羅さんには金毘羅大権現以外に、役行者を祀る役行者堂が別にあったようなので、金毘羅大権現イコール役行者と考えるのは、少し気が早いようです。しかし、役行者堂についても『古老伝旧記』では
「役行者堂 昔金毘羅古堂也 元和九年宥眼法印新殿出来、古堂行者に引札い」
と記しています。かつては「役行者堂は金毘羅の古堂」だったというのです。これも注目しておきたいポイントです。
新羅明神
この他にも金毘羅大権現の正体を新羅明神に求める研究者もいます。確かにその姿はよく似ています。役行者は新羅大明神から作り出されたというのです。そうすると次のような進化プロセスが描けます。
新羅の弥勒信仰 → 新羅大明神 → 役行者 → 金毘羅大権現・蔵王権現
そして、新羅大明神には讃岐・和気氏出身の円珍の影がつきまといます。今も和気氏の氏寺であったとされる金蔵寺には新羅神社が祀られています。和気氏に伝わる新羅大明神の発展型が金毘羅大権現であるという仮説もありそうですが、今は置いておきましょう。
このように役行者像に似ている金毘羅大権現像を祀る象頭山ですが、この山は役行者開山との伝承を持ちます。弥生時代から霊山であったようで、中世には山岳信仰で栄えた修験道の行場となります。そのため戦国時代末期の初期の金光院別当は、すべて修験者出身です。
長宗我部元親に従軍して土佐からやって来て、金光院別当として讃岐における宗教政策を押し進めたのが土佐出身の修験者宥厳です。彼は土佐郡占領下での実績を買われて、長宗我部軍が撤退した後も別当を引き続いて務めます。そして、松尾寺や三十番社との権力闘争を勝ち抜いて行きます。それを支えたの弟弟子に当たる宥盛です。彼は、生駒家と交渉を担当し寄進領を確実に増やすなどの実務能力に長けていたばかりでなく、修験者としても名声が高く、数多くの弟子達を育て各地に金毘羅大権現の種を飛ばすのです。その彼が死期を悟り、自らの姿を木像に刻んだ時に
入天狗道沙門金剛坊(宥盛)形像、当山中興権大僧都法印宥盛
と彫り込んだと伝えられます。この天狗道に入った金剛坊の木像には、後にいろいろな尾ひれが付けられていきます。例えば、生きながら天狗界に入ったと伝承で有名な崇徳上皇の怨霊が、死去の翌年、永万元年(1165)に、その廟所である白峰から金毘羅に勧請されたとの伝承が作られます。そして金毘羅=崇徳院との解釈が広まっていくのです。それでなくとも修験の山は天狗信仰と結びつきやすいのに、それが一層強列なイメージとなって金毘羅には定着します。「天狗のイラスト」が入った参詣道中案内図が作成され、天狗の面を背負った金毘羅道者が全国各地から金毘羅を目指すのも、このあたりに原因が求められそうなことは以前お話ししたとおりです。
もう一度、こんぴらさんの本堂に祀られていた金毘羅大権現像について見てみましょう。
江戸の初めに四国霊場が戦乱から復興していない承応二年(1653)に91日間にわたって四国八十ハケ所を巡り歩いた京都・智積院の澄禅大徳については以前に紹介しました。彼の『四国遍路日記』には、金毘羅に立ち寄り、本尊を拝んだ記録があります。
「金毘羅二至ル。(中略)坂ヲ上テ中門在四天王ヲ安置ス、傍二鐘楼在、門ノ中二役行者ノ堂有リ、坂ノ上二正観音堂在り 是本堂也、九間四面 其奥二金毘羅大権現ノ社在リ。権現ノ在世ノ昔此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り此社壇二安置シ 其後入定シ玉フト云、廟窟ノ跡トテ小山在、人跡ヲ絶ツ。寺主ノ上人予力為二開帳セラル。扨、尊躰ハ法衣長頭襟ニテ?ヲ持シ玉リ。左右二不動 毘沙門ノ像在リ」
ここには、観音堂が本堂で、その奥に金比羅堂があったことが記されます。そして金光院住職宥典が特別に開帳してくれ、金毘羅大権現像を拝することができたと書き留めています。ここで注目したいのは2点です。ひとつは
「権現ノ在世ノ昔 此山ヲ開キ玉テ 吾寿像ヲ作り 此社壇二安置シ 其後入定シ玉フ」
とあることです。つまり安置されている金毘羅大権現像は、この山を開いた人物が自分の姿を掘ったものであると説明されているのです。
2点目は金毘羅大権現の左右には「不動・毘沙門」の二躰が祀られていたことです。
つまり、金毘羅堂には金毘羅大権現と不動明王・毘沙門天が三点セットで祀られていたのです。そして、金毘羅大権現像は金毘羅山を開いた人物が自らの姿を掘ったものであると言い伝えられていたことが分かります。ここまで来ると、それは誰かと問われると「宥盛」でしょう。
さらに『古老伝旧記』は金光院別当の宥盛(金剛坊)のことを、次のように記します。
宥盛 慶長十八葵丑年正月六日、遷化と云、井上氏と申伝る慶長十八年より正保二年迄間三十三年、真言僧両袈裟修験号金剛坊と、大峰修行も有之常に帯刀也。金剛坊御影修験之像にて、観音堂裏堂に有之也、高野同断、於当山も熊野山権現・愛岩山権現南之山へ勧請有之、則柴燈護摩執行有之也
ここには金剛坊の御影修験之像が観音堂裏堂(金毘羅堂)に安置されていると記されています。以上から金毘羅大権現として祀られていた修験者の姿をした木像は、金毘羅別当の宥盛であったと私は考えています。それをまとめると次のようになります
その後、生駒家や松平家からの保護を受けるようになり「金比羅」とは何者かと問われた際の「想定問答集」が必要となり、十二神将の金毘羅との混淆が進められたというのが現在の私の「仮説」です。①金光院の修験者達は、その始祖・宥盛の「祖霊信仰」をはじめた。②その信仰対象は宥盛が自ら彫った宥盛像であった。③この像が金毘羅大権現像として金毘羅堂に安置された。
④その脇士として不動明王と毘沙門天が置かれた
神仏分離で金毘羅大権現や仏達は、明治以後はこの山ではいられなくなりました。多くの仏像が壊され焼かれたりもしました。
金毘羅堂にあった金毘羅大権現と不動明王・毘沙門天の三仏トリオは、どうなったのでしょうか。
金剛坊宥盛は、現在は祭神として奥社に祀られています。その自作の木像も奥社に密かに祀られているのかもしれません。
それでは脇士の不動明王・毘沙門天はどうなったのでしょうか。この仏たちは数奇な運命を経て、現在は、岡山の西大寺鎮守堂に「亡命」し安置されています。これについては別の機会で触れましたので詳しくはそちらをご覧ください。
金比羅さんから亡命した西大寺の「金毘羅大権現」(不動明王)
現在の金刀比羅宮は、大物主命を主祭神としています。
大物主命は、奈良県桜井市の大神神社(通称、三輪明神)の祭神として有名で、出雲大社の祭神・大国主命の別名とされています。明治になって、大物主命にとって代わられたのは所以を、どんな風に現在の金比羅さんは、説明しているのでしょうか。
天台僧顕真が「山家要略記』に智証大師円珍の『顕密内証義』を引いて、
「伝聞、日吉山王者西天霊山地主明神即金毘羅神也、随二乗妙法之東漸 顕三国応化之霊神」
と、「比叡山・日吉山の地主神は金比羅神」であると記します、
これを受けた神学者の古田兼倶は『神道大意』に次のように記します。
「釈尊ハ天地ノ為二十二神ヲ祭、仏法ノ為二八十神ヲ祭り、伽藍ノ為二十八神ヲ祭リ、霊山ノ鎮守二金毘羅神ヲ祭ル、則十二神ノ内也、此金毘羅神ハ日本三輪大明神也卜伝教大師帰朝ノ記文二被い載タリ、他国猶如也、何況ヤ吾神国於哉」
と最澄が延暦七年(七八八)比叡山延暦寺を建立する際、その鎮守として奉斎した地主神・日吉大社西本宮の祭神大物主命が金毘羅神だと位置づけます。
そしてこうした見解は、さらに平田篤胤に受け継がれていきます。「玉欅』の中に
「彼象頭山と云ふは……元琴平と云ひて、大物主を祭れりしを仏書の金毘羅神と云ふに形勢感応似たる故に、混合して金毘羅と改めたる由……此は比叡山に大宮とて三輪の大物主神を祭りて在りけるに彼金毘羅神を混合せること山家要略記に見えたるに倣へるにや、然ればこそ金光院の伝書にも、出雲大社。大和、三輪、日吉、大宮の祭神と同じと云えり」
と記します。平田篤胤の明治以後の神道における影響力は大きく、
「象頭山は元々は「琴平」といって大物主を奉っていた。象頭山は元々は大物主命を祀っていたが、中世仏教が盛んになるにつれて、その性格が似ているため金毘羅と称するようになった」
という彼の主張は神仏分離の際には大きな影響力を発揮します。金毘羅大権現が「琴平神社」と改められるのもこの書の影響が大きいようです。 しかし、研究者は、金毘羅以前に大物主が祀られていた史料的証拠は一切ないと云います。
むしろ神道家たちが金毘羅神に大物主を重ねあわせる以前は、象頭山には大物主と関係なく金毘羅神が鎮守として祀られていたのは見てきたとおりです。それを、神道家が逆に『山家要略記』等を根拠に金毘羅神とは実は大物主であったのだと、金毘羅=大物主同体説を主張してきたと研究者は考えているようですようです。
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