高松城122スキャナー版sim
『高松城下図屏風』
『高松城下図屏風』は高松藩初代藩主が作らせたと云われる屏風図です。江戸屋敷に置かれて、高松に馴染みのない江戸詰の藩士たちと政策協議する際の史料としても使われたと私は妄想しています。この屏風の精巧なコピーは県立ミュージアムにもありますが、まずその大きさに驚かされます。
高松屏風図2
次に、その精巧さです。道並み、街並みがしっかりと描きこまれ、屋敷の主である藩士名まで分かります。寺院の本堂の位置や塀の形まで描かれています。さらに目をこらすと道行く人たちや外堀で洗濯(?)している女(?)まで見えてきます。

この屏風図に描かれた高松の町が今はどうなっているのかを何回かに分けて探ってみたいと思います。その手始めに高松城下町の「座標軸」をつかんでおくためのトレーニング・クイズです。
設問1 屏風図上に、次のストリートを書き入れなさい。
①丸亀通り
②中央通り
③兵庫町通り
④瀬戸大橋通り
⑤フェリー通り
ちなみに、①以外の通りは江戸時代にはなく、後世に姿を見せた物ですから屏風図には書き込まれていません。そういう意味では難易度はかなり高いクイズです。
高松屏風図4

答えは屏風図を参考に、見ていきましょう。(クリックすると拡大します)
①の丸亀町通りは、外堀の架かっている常磐橋が起点になります。
1高松城 外堀と常盤橋

その橋を渡って真っ直ぐに南の方(屏風では上の方)に伸びているの赤く囲んだのが丸亀町です。この町は、その名の通り生駒氏が丸亀城を廃城にした際に、保護を与えて丸亀から連れてきて住まわせた商人が住んだ町と云われます。位置的には4百年前と変わっていないようです。
高松屏風図3
中央通りは、この位置になるようです。
  丸亀町通りから数えて南に延びる道の1本目と2本目の間を抜けていきます。兵庫町通りを真っ二つに分断して作られたことがよく分かります。中央通りは高松大空襲で焼け野原になった後、戦後の整備計画で、都市の基軸線として姿を現しました。
なぜ丸亀通りを中央通りにしなかったのでしょうか?
  それは高松城との関係があったからでしょう。もし丸亀通りを「中央通り」とすると、上の地図でも分かるとおり高松城の核心部を突き抜けていくルートになります。そうなれば高松城は大きなダメージを受けたでしょう。もう一つは、高松駅と港を起点した都市整備が考えられたためだと思います。中央通りは、内堀の西側を通って駅や港に通じるように設計されました。高松城にとって影響が一番少ない形でした。
1 高松城4pg
③の兵庫町通りには、以前お話ししたように外堀を埋めた後に作られたました。
外堀は現在の姿は次のようになっています。
南側は片原町商店街
北側が兵庫町商店街
1 高松城54pg
この地図の⑤の中央通り沿いの発掘調査で、堀跡が確認されています。片原町商店街の東端と東浜港を結ぶラインと、③兵庫町商店街の西端からJR高松駅方面に伸びる斜めの地割が、それぞれ東西の外堀にあたると考えられます。

DSC03617
③の斜めに伸びる西側の外堀が気になります。
以前私は、外堀は「東西の船入(浜港)とつながっていた」と書きました。確かに、東側は直角に曲がって東浜船入を通じて海につながっています。西側は西北に向かって斜めに伸びています。しかし、よく見ると西側の外堀と西浜船入(港)とはつながっていないのが分かります。どうしてなのでしょうか。つながらせると潮の満ち引きの影響を受けて外堀に流れが生じ「運河」として、使いにくくなるからだと今は勝手に解釈しています。

高松城外堀西側
さて、外堀部分(斜め道)の「今」は、どうなっているのでしょうか
香川県警北署の西約百メートルにゼネラルのガソリンスタンドがあります。高松駅から県庁方面に向かう人たちは、この前の「県庁前通り」を南進していきます。グーグル地図で見ると、このガソリンスタンドを起点に、スタンドを挟むように両脇から「斜めの道」が2本南南東に伸びています。なんでこんなに隣接したところに2本の道が必要なの?と疑問に思う道です。
1 高松城 外堀と西浜

手前が西浜船入で向側は外堀跡の斜め道
 これが外堀跡の現在の姿なのです。
堀だった両側の一部が細い道となり、その中には住宅やビルが建ってしまったようです。ここが外堀の西の終点だったとすれば、ここから高松駅にかけては西浜船入りの港があり、多くの船が出入りしていた場所なのです。
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そしてお城の西口でもあったのです。そこを今は瀬戸大橋通りが東西に走り抜けています。

1 高松城 外堀と西浜
西浜船入と外堀の最終地点

参考文献 井上正夫 高松の「ヘンな道」 
      「古地図で歩く香川の歴史」所収