高松城下図屏風 東部(クリックすると拡大します)
『高松城下図屏風』を眺めていると、海に向かってお城がむきだしのように見えます。海だけではありません。外堀の水は、兵庫町や片原町の方まで入り込んでいます。外堀と東浜船入の境には橋が架かっていますが、両者はつながっています。東舟入(港)には多くの船が入港して、大混雑しています。港を拡大して見てみましょう。
この部分からは東浜船入りの次のようなことが分かります。
①港の入口は、石積みで補強されている②東側岸壁に船番所が設置され、背後は町屋が続く③西側岸壁には松が植えられ緑地帯となっている。④緑地帯の背後には町屋がある。⑤港の一番奥は橋で、橋の向こうは外堀に続いている。⑥外堀には船の姿は見えない。外堀進入禁止?⑦港入口の西側(右)にも船揚場がある
拡大するとここまで細かく描き込まれていることが分かります。
それだけに実物を見ているといろいろなことが見えてきたり、想像・妄想したりして楽しくなります。この船番所では、入港してきた船の管理が行われていたようです。格子越に番人の姿も見えます。気になるのは、ぞの向こうの軒下に立っている女性です。やって来る船を待ているのか、常連さんを誘いに来たのか、それとも遊女なのか、・・・妄想が広がってきます。船番所の背後には、材木屋、東かこ(水夫)町の町屋が広がります。
それだけに実物を見ているといろいろなことが見えてきたり、想像・妄想したりして楽しくなります。この船番所では、入港してきた船の管理が行われていたようです。格子越に番人の姿も見えます。気になるのは、ぞの向こうの軒下に立っている女性です。やって来る船を待ているのか、常連さんを誘いに来たのか、それとも遊女なのか、・・・妄想が広がってきます。船番所の背後には、材木屋、東かこ(水夫)町の町屋が広がります。
この船番所の下の岸壁につながれている船①も怪しいのです。
拡大するとこんな感じです。石積みされた岸壁です。そこに浮かぶ船には、苫がけされた屋根があります。弥次喜多が金毘羅参拝道中に、大阪から乗ってきた金比羅船とよく似ています。船の後尾には「白旗」。なんの目印なんでしょうか、私には分かりません。そして、男が中央から顔出して「どうもどうも・・」という感じ。さらに舳先には横たわる女性。「私はもう寝ますよ」という風情。この船をどう理解すれば良いのでしょうか?
どう見ても漁船ではありません。金比羅船のように近隣の港を結ぶ乗合船なのでしょうか。それとも遊女船なのか。これも妄想が広がります。
次に見ておきたいのが西岸壁背後の町屋です。
この岸壁には松が植えられグリーンベルトのように描かれています。注目しておきたいのは、背後に町屋があることです。ここは外堀の内側に当たります。そこに町屋があるのです。ここ以外に外堀の内側に商人居住エリアは、高松城にはありません。この場所は、東が船入港、北が船揚場で回船業や問屋にとっては、絶好の立地条件です。このエリアの商人達が特権的な保護を受けていた気配があります。
最後に屏風に描かれた船揚場が、現在はどんな場所なのか行って見ることにしましょう
この図屏風には地名や道名は記されていません。そのため現在のどこに当たるのかは、すぐには分かりません。特定方法には、いろいろな方法がありますが、その一つは、他の絵地図と比べてみることです。
『高松城下図屏風』と明治の地図を、次のポイントに絞って比べてみます
緑のAの外堀の北側(下の方)のトライアングル区画オレンジBのトライアングル区画
緑のトライアングルAは西本願寺別院出張所が、。オレンジのトライアングルBは金刀比羅神社が
それぞれ高松城下図屏風と明治地図の両方にあるので、双方の「三区画」は、同じ場所だということになります。
そうすると矢印→①②を辿って行けば、船揚場に到着できるということになります。高松城下図屏風で、辿ってみると
①の南から通じる道は現在のフェリー通りになります。東側の町屋の店先にはいろいろな物が並べられています。コーナー①の店は魚屋さんのようです。このあたりは、明治には魚屋町と呼ばれていたようです。ちなみに道の西側は県立ミュージアムの手前になります。①で右に曲がって、次の突き当たりを左(北)に進むと②に出ます。
矢印②の木戸らしきものを抜けると、そこは海で「物揚場(ものあげば)」で船が係留され、木材のようなものが積まれています。
矢印②の木戸らしきものを抜けると、そこは海で「物揚場(ものあげば)」で船が係留され、木材のようなものが積まれています。
ところが、これを明治の地図で見てみると、景色が変わっています。海が埋立てられて、ピンクの船揚場だった所には、建物が建っています。その東側の通りは「北浜材木町」と記され、海際には、魚市場と神社が見えます。江戸時代には「物揚場(ものあげば)」だったところは「本町二番地」となっています。現在の地図で見てみましょう。
ピンク部分が江戸時代の物揚場で、それが後に埋立てられ「本町二番地」という地番がつけられたようです。そして、北側に建立されたのが「えびす神社」だったということになります。現在の「北浜町」という町名も、「本町2番地」が江戸時代まではウオーターフロントだったのが、本町の「北」の「浜」を埋め立てでできた「町」なので「北浜町」と呼ばれるようになったのでしょう。
本町の住人によると
高潮の時には、潮は北浜町を越えて上がってきていたが、「本町二番地」の手前で止まっていた
と言い伝えられているようです。「本町二番地」は、物揚場でその前は海はだったのです。そして海から運ばれてきた材木がここに下ろされていた場所だったようです。
それでは、ここが埋め立てられたのはいつ頃のことなのでしょうか
元文5(1720)の「高松城下図」の東浜舟入付近の拡大図です。ここからは
①本町の北側が埋め立てられ「北濱町」「下横町」②東浜もあらたに「地築」ができている
高松城下図屏風から80年近く経った時点では、北側の海は埋め立てられたようです。私は明治になって埋め立てられたと思っていたので、江戸時代にもウオーターフロント開発が行われていたことは驚きでした。江戸時代から高松城下町の海への膨張は続いていたようです。
参考文献 井上正夫 「古地図で歩く香川の歴史」所収
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