前回は生駒騒動に関わる重臣達を見てきました。それでは、これらの重臣達がどのようなプロセスを経て党争の渦中に引き込まれて行くのかを見てみましょう。
生駒騒動 関係図1
11歳で即位した4代藩主の生駒高俊を取り巻く勢力関係を、確認しておきましょう。
①「後見役」の藤堂高虎・高次の生駒藩への影響・介入
②生駒一門衆(生駒左門・生駒帯刀・生駒隼人)の本家(藩主)の専制政治への牽制
③譜代家臣と地元採用の讃岐侍との土地開発をめぐる対立
④生駒一門衆と家臣重臣団との権力闘争
このような思惑が渦巻く中で、若き藩主高俊は20歳を越えると、1632年(寛永9)には家中の人事を刷新し、自らの意志で藩政を行う姿勢を見せ始めます。

生駒高俊 四代目Ikoma_Takatoshi
  4代目生駒高俊
しかし藩政の意志決定は、惣奉行と譜代の重臣である生駒一族(生駒左門・生駒将監・森出羽)からなる年寄であり、今までの経過から幕府と藤堂藩の意向が強く働く人たちでした。
 このため高俊がやったことは、彼らに変わる自前のブレーンを作って自分の意見を藩政に生かすことです。そのために江戸藩邸で前野助左衛門を重用し、国元(讃岐)の年寄・惣奉行とは別の重臣層を形成していきます。しかしこれは、一つの藩に、国元と江戸屋敷の二つの政策決定機関が生まれることになります。そして、これがお決まりのお家騒動へとつながる道とつながります。

生駒藩屋敷割り図3拡大図
生駒家の重臣達の屋敷配置
 このような四代目高俊と江戸家老・前野の動きは、「後見人」の藤堂高虎とその息子の高次にとっては想定外だったようです。
藩内の家臣団の対立を視て、後見人の藤堂高次は1634年(寛永11)に、高俊に対して家中のことは何事も年寄と相談して決めるように意見しています。また、同年に前野・石崎も年寄と相談の上でなければ高俊に会わないことを誓わされています。しかし、高俊=前野・石崎体制は次第に権勢を強め、この体制で藩政が取り仕切られていくようになります。そして、彼らは藩財政の根本的な転換に着手します。
つまり、知行問題です。
それまでの生駒藩は、家臣が藩から与えられた所領(知行地)を自ら経営して米などを徴収していました。以前にも紹介しましたが高松藩の出来事を記述した「小神野夜話」には
御家中も先代(生駒時代)は何も地方にて知行取居申候故,屋敷は少ならでは無之事故,(松平家)御入部已後大勢之御家中故,新に六番町・七番町・八番町・北壱番町・古馬場・築地・浜の丁杯,侍屋敷仰付・・」
とあり,
生駒時代は知行制が温存されため、高松城下に屋敷を持つ者が少なかったこと、
②松平家になって家中が大勢屋敷を構えるようになり、城の南に侍屋敷が広がったこと
など、太閤検地によって否定された「国人領主制」が温存され、知行制がおこなわていたようです。そのために生駒家の家臣団は、讃岐各地に自分の所領を持っていて、そこに屋敷を構えて生活している者が多かったと記されています。さらに、生駒家に新たにリクルートされた讃岐侍の中には、さかんに周辺開発を行い知行地を拡大する動きも各地で見られるようになります。
生駒氏国人領主
生駒氏は讃岐に入ってきた際に、旧守護代の香川氏や香西氏の家臣たちを数多く採用して、支配の円滑化を図りました。
 例えば三豊の三野氏は、天霧城の香川氏の下で、多数の作人を支配していた国人領主でした。しかし、秀吉時代になっての太閤検地によって、これはひっくり返されます。太閤検地、刀狩で、土地制度は、領有制から領知制に変わります。国人侍の所領と百姓は切り離され、その土地の所有権は耕作する百姓の手に移ります。
  しかし、三野孫之丞は、700石もの自分開(新田開発)を行っています。三野氏の一族の中には624石の新田を持っている侍もいます。この広大な新田を、三野氏はどのようにして開いたのでしょうか。どちらにしても、生駒藩では豊臣政権以降の太閤検地に伴う土地制度改革が徹底していなかったようです。この現実は、讃岐国人層出身の侍にとっては「新田開発の自由」です。しかし、他国より所領の百姓と切り離され移り住んだ侍たちには百姓を勝手に動員できないので、自分開などできません。
 そうした中で、先ほど述べたように寛永期に入ると若い藩主の後ろ盾に前野、石崎両家老が権力を握ります。
それまでの讃岐出身の奉行層(三野氏、尾池氏等)が更迭され、新たに他国組に政権が移ります。そして、土地制度に関する抜本的な政治改革が進められます。新政権についた彼らからすれば、地侍出身者のみが可能な新田開発、お手盛りの加増は、百姓層との関係を持たない他国出身の侍にとっては「不公平で反公益」的なもので、是正しようとするのは当然です。自分開の新田開発では収穫量が増えても、藩の収益とはなりません。藩の蔵入り増にはならず、財政収入増大にはつながりません。幕命による土木事業や江戸屋敷の経営等で苦しい生駒家の財政を救うことにはならないのです。
 新たに藩政の舵取りを担うことになった前野と石崎は、藩の事業として、百姓層を主体に新田開発(知行文書で新田悪所改分と記され、百姓層の所有に帰したもの)を行い、個人による「自分開」を制限します。これは、自由に新田開発を行い知行地を増やしてきた讃岐出身の侍(かつての国人領主)や生駒氏一門衆にとっては、自分たちの利益に反するものでした。
 彼らは、太閤検地以後も、自分の知行所の百姓を使って自分開を行てきたのです。藩の新田開発は、同じ開墾でも、主体と利益者が異なります。前野、石崎を始めとする新藩政担当者のねらいは、百姓を主体とし、その権限を強めるもので百姓を藩が直接支配するものです。そして、代官に年貢を徴収させて換金し、収入を得る方式に変えていきます。これは家臣のもっていた国人領主的な側面をなくして、サラリーマン化する方向にほかなりません。歴史教科書に出てくる「地方知行制から俸禄制へ」という道で、これが歴史の流れです。この流れの向こうに「近世の村」は出現するようです。
 これに対して、三野氏や山下氏など讃岐侍たちの描いていたプランは、自分たちがかつての国人領主のような立場になり、百姓層を中世の作人として使役するものです。つまり、時代の流れからすると「逆行」です。両者の間に決定的な利害対立が目に見える形で現れ、二者選択を迫るようになります。このような土地政策をめぐる対立が背後にあり、事件が起きます。

1637年(寛永14)に生駒藩の借財の肩代わりとして、前野派政権が石清尾山の松を江戸の材木屋が伐採したことを、生駒一門衆は取り上げて反撃を開始します。
その先兵となったのは、政権の座を奪われていた年寄・生駒将監の息子である生駒帯刀です。彼は江戸へ赴き、幕府老中土井利勝(高俊の義理の父)や藤堂高次などへ、前野らの所行を非難する訴えを提出します。
 この訴えに対する幕府の評議は長引き、翌年には、江戸家老の前野助左衛門が死去してしまします。このため幕府は、生駒帯刀に対して訴えを取り下げさせ、事態の収拾を図ろうとしました。この時点までは、幕府は生駒藩の存続を考えていたことが分かります。

一方、国元の讃岐では、助左衛門の息子の前野次太夫らと生駒帯刀らの対立は続いていました。
1640年(寛永17)には、前野次太夫・石崎若狭と生駒帯刀は「喧嘩両成敗」で藤堂藩に預けられることになりました。これに反発したのが前野派の家臣で、彼らのとった行動は過激でした。藩士と家族約4,000人が、5月に江戸と讃岐から立ち退くという形で「集団職場放棄」という抗議行動を起こします。この時に讃岐を去った家臣達を各大番組所属で分類したのが下のグラフになります。灰色が残留組、青色が讃岐退去組で、次のような事が云えます。
生駒騒動の残留藩士グラフ
生駒一門衆(生駒左門・生駒帯刀・生駒隼人)は、ほとんどが残留している。
讃岐退去者は石崎・前野・上坂組に多い。
これは、讃岐地侍衆を多く抱え、新田開発を進めていた生駒衆門派と、百姓達を使っての新田開発を行うことができない他国組(前野・石崎派)の対立の構図がうかがえます。
また、立ち退きの人数が家臣の約半数に達することは、藩主高俊=前野の政治路線に賛同していた家臣も多かったことが分かります。ここからは生駒記や講談ものに記されているような単純な「生駒帯刀忠臣説」「藩主無能説」は、成り立たないようです。
また、生駒帯刀の怖れていたことは、次の2点が考えられます。
①惣領家である藩主に権力が集中し既得権益が奪われること
②具体的には新田開発の禁止や知行制廃止
 戦国時代末期には、どんな小領主であっても所領をもつことが当たり前で、「一所懸命」こそが自らの拠りどころだった記憶が、当時の家臣達には、まだ残っていたはずです。その中で、太閤検地以後進められた武士のサラリーマン化は、堪え難いものだったのかもしれません。特に多くの知行地をもつ家臣ほど抵抗感は強かったでしょう。しかし藩主の側から見れば、これは権力専制化のため、近世の幕を開くためには避けて通れない道だったのかもしれません。
参考文献 合田學著 「生駒家家臣団覚書 大番組」