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ペリーがやってきて幕末の動乱が始まるのが嘉永六(1853)年です。この年、讃岐満濃池では底樋を初めて石材化する工事が終わります。ところが翌年、ゆる抜きも無事終え、田植えが終わった6月14日に強い地震が起こります。それから約3週間後の7月5日昼過ぎに、修築したばかりの満濃池の底樋の周辺から、濁り水が噴出し始めます。 そして7月9日、揺(ユル)が横転水没し、午後十時ごろ堰堤は決壊します。
 この時の破堤の模様について、史料は次のように記します。
「堤塘全く破壊して洪水氾濫、耕田に魚龍(魚やスッポン)住み茂林に艇舟漂ふ。人畜の死傷挙げて云ふべからず。之を安政寅の洪水と云ふ」
とあり、下流の村々は一面が泥の海となりました。特に金毘羅市街は大きな被害を受けました。
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決壊後の満濃池 池の中を金倉川が流れている 
このことについては以前に「満濃池の歴史NO6 幕末の決壊は工法ミスが原因か?」で触れましたので省略します。
 今回はその後。十数年にわたって満濃池が決壊したまま放置されたのはどうしてかを見ていこうと思います。別の言い方をすると、どうして満濃池は、再築できなかったのかということになります。
   満濃池決壊後、長谷川喜平次は普請失敗の責任を問う声にひるむことなく復旧を計画します。2年後の安政三年(1856)に竪樋と櫓の仕替普請について、倉敷代官所の許可を得ています。それを受けて10月には、竪樋十一間半(約21㍍)の入札を大阪で行い、
材料費銀十六貫七百匁、
大工手間賃銀一貫百十三匁
丸亀港から普請場までの運搬
人足賃銀四貫七十九匁四厘
合計二十一貫八百九十二匁四厘
を灘屋吉郎右衛門が落札しています。しかし、この普請計画は実行に移されることなく立ち消えとなっていきます。
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立ち消えになった背景を考えたいと思います。
まず見ておきたいのは、以前紹介した嘉永六(1853)年の工事終了後に、天領の榎井村の百姓惣代が、榎井村の興泉寺を通じて倉敷代官所へ出した文書です。ここには次のように願い出ています。
 A、石樋変更後は、水掛りの村々だけで行う自普請になる予定であった。しかし、四年前の普請で行った石樋への箇所が、折れ損じている事が判明した。そのため材木を加え補強したが、不安であるので、もし折れ損じる場所が出てきた場合は、自普請ではなく従来通り国役で普請を行ってほしい。

 B、喜平次は池に「万代不易」の銘文が入った石碑を建立しようとしているが、既に折れ損じが生じ、材木を差し加えている状態であるのに、なにが「万代不易」であるか、建立を中止してほしい。
 他にも破損した石樋の様子や、その後の対処についてより詳細に記載し、工法の問題点を指摘している次のような文書もあります。(直島の庄屋である三宅家の文書)
1 石樋の接合のために、前回の普請箇所を掘った所、土圧等により石樋の蓋の部分が十三本、敷石が三本破損していたことが判明した。これは継口の部分だけで、さらに奥の方はどのくらい破損しているか分からない。
2 さらにその後、蓋の上下に補強用の桟本を敷き、その上に数千貫の大石を置くも、桟本が腐って折れると、上に置かれた大石の重さで蓋石が折れ、石樋内に流れ込み、上が詰まってしまい崩れるであろう。
 新工法への不安と的中
 このように普請中から新工法へに対して関係者や工事に携わった百姓達からは
「破損部分が見つかっており、それに対して適切な処置ができておらず、一・二年以内に池が破損するだろう」
という風評が出ており、人々が心配していた事が分かります。つまり、木樋から石樋に変えた画期的な普請は、工事終了後には関係者の間では「不良工事」という認識があったのです。
それなのに長谷川喜平次は「万代不易」の銘文が入った石碑を建立」しようとしている。これをやめさせて欲しいと、地元の榎井村の百姓総代から嘆願書が出されています。工事に不備があることを長谷川喜平次が知っていた上で、「丈夫に皆出来」と代官所に報告していたのなら責任を追及されるのは避けられないでしょう。百歩退いても、当時の榎井村の百姓達は喜平次に対して、不信感を持ち反発していたことは、この嘆願書からうかがえます。指導者と百姓の間に、すでに亀裂ができていたのです。
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 実際に満濃池が決壊し、下流域に大きな被害をもたらします。特に琴平市街は鞘橋や多くの家屋が流されるなど大惨事となります。こんな時に「不良工事」の責任者として、喜平次は指弾されたでしょう。その喜平次が再び音頭をとって満濃池修築すると云っても、池の領や金毘羅領をはじめとする地元の目は冷たく見放すだけだったようです。地元は大きく割れました。
 現代の世論なら
「決壊原因を明らかにし、工事責任者が責任をとるのが先決。その上で新たな体制で、新たな指導者の下で工事を始めるべき」
という声が出てきそうです。つまり、長谷川喜平次に代わる指導者が現れないと、満濃池再築は進まないという状況になったようです。ある意味、「世代交代」が必要だったのです。それには時間が必要でした。

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長谷川喜平次は那珂郡榎井村に生まれ、通称倉敷屋喜平次と呼ばれました。
里正(庄屋)を務める一方、雨艇と号し、俳句にも才を発揮しています。底樋を石製にするアイデアを出し、実行に移した喜平次の夢は実現したかのように思えましたが、わずかで崩れ去り、復旧を見ずに失意のまま世を去りました。文久二年(1862)67歳の生涯でした。
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長谷川喜平次については、後世の評価は2つに分かれるようです。
ひとつは、水利組合関係や公的機関のパンフレットの立場です。ここには「新たな工法にチャレンジしたパイオニア」として、満濃池修築史の重要人物として描かれます。地元の「満濃町誌」や残された記念碑も、この立場です。
もうひとつは、批判的な立場です。
これは地元榎井や金毘羅領に残る記録に多いようです。特に、決壊の被害が大きかった金毘羅(琴平)では、その責任を問う声が強かったことが背景にあるようです。
 復興が進まなかったもうひとつは、多度津藩の動向です。
多度津藩は、この時期に陣屋・新港の建設などで経済的な活況を呈するようになり、軍備の近代化を最優先課題として、丸亀藩からの自立路線を歩むようになります。藩内での改革気運の高まりを背景に、従来の満濃池の水掛かりに慣習に対する不満が爆発します。
 丸亀平野の西北端に位置する多度津藩は、満濃池の水掛かりではありましたが、水配分では不利益を受けていました。負担は平等に求められるのに、日照りの際などには水は届きません。

  多度津藩領奥白方村の庄屋であった山地家には、満濃池決壊翌月に書かた嘆願書があります。これには、容易に満濃池普請に応じる事はできず、何年か先に延ばしにしてほしい旨が嘆願されています。前回普請からからわずかでの決壊でまた普請となれば、連年の普請となります。それは勘弁してくれ。というホンネが聞こえてくるようです。そして多度津藩は、この機会に満濃池の水掛かりから離脱する方向に動き始めます。この影響を受けて丸亀藩も、早期復興には動けなかったようです。
丸亀藩領今津村の庄屋である横井家に残された史料には、今津村の満濃池普請に対する意見が次のようにはっきり述べられています
普請からわずかで決壊したことと、普請が続き疲弊していることを述べ、はっきりと「迷惑」と書き、再普請に対して露骨な嫌悪感を表しています。さらに場合によっては、多度津藩と同様に満濃池水掛りを離れる事を藩に願い出ています。
 一方、高松藩は早期の修築を当初は考えていたようです。
ところが天領や多度津・丸亀藩の動きを見て早期復興は無理と判断します。安政五年(1858)には那珂郡内の小池を修築し、干ばつに備えることを優先させます。
 例えば、嘉永七年の大地震で堤防の一部が決壊した買田池の改修です。底掘普請に銀六十貫目を貸し付け、三十余石の田地を与えて池敷を増し、水掛かりを3000石から8500石にする大改修を、53000人の人夫を動員し、藩の郷普請として行います。また吉野村の木崎に新池を築き、深田の大池を移築し、七箇村の三田池の増築も行います。(『満濃池記』)
 このように決壊直後の史料から、満濃池復興に対しては、前回の工事を巡っての対立や、各藩領内それぞれの思惑が異なっている様子がうかがえます。このような状態では復興のめどは立たちません。
 もうひとつは、幕末の混乱期に突入したということです。
多度津藩はすで財政改革を行い富国強兵・兵器の近代化を進め、動乱に備える体制をいち早く形作っていきます。そのような中で丸亀・高松藩も満濃池再築の優先順位は低くなります。結果として幕末の混乱期に満濃池は、決壊したまま放置されることになったようです。
 満濃池が再び姿を見せるのは、明治維新で維新政府という中央政府が成立して以後のことになります。そして、それを進める新たな人物達が地元に登場してくるのを待たなければならなかったようです。それが喜平次の遺志を受け継ぐ長谷川佐太郎でした。
参考文献   満濃池史所収 江戸時代の満濃池普請