ペリー来航の翌年の嘉永七年(安政元年1854年)の「安政寅の大決壊」で満濃池は姿を消します。これは天領榎井村の庄屋長谷川喜平次が永久的にと考えて底樋を石製する試みが「技術的な問題」から裏目に出て漏水、決壊になったからのようです。以来、満濃池は修築されないまま明治維新を迎えます。
前回にみたように再建できないのは3つの要因があったからです。
決壊中の満濃池 池の中を金倉川が流れている
前回にみたように再建できないのは3つの要因があったからです。
①庄屋長谷川喜平次と農民集団との対立②高松・丸亀・多度津藩の再建に向けての足並みの乱れ。③幕末期の政治動乱
このような障害を乗り越えて、満濃池が再築されるのは明治維新後になります。満濃池の再築に向けた動きを追ってみましょう。
金蔵寺の「金虎」こと、和泉虎太郎の満濃池再建の嘆願
幕末に、金蔵寺村に和泉虎太郎という砂糖の製造と販売を手掛ける豪商がいました。虎太郎の父は助左衛門で、代々の農家でした。虎太郎の代になって、讃岐三白の一つの砂糖に目を付けて砂糖製造業を起こし、傍ら砂糖商を営むようになります。これが当たり、彼は「砂糖長者」になったようです。
虎太郎は文政十四年(1831)3月3日の雛節句に那珂郡金蔵寺村に生まれます。長谷川佐太郎の四つ年下で、明治維新を36歳で迎えた世代になります。生家は普通の農家だったようですが、当時讃岐で栽培が始まったサトウキビ栽培に乗り出します。商才に長けていたようで、次第に砂糖の製造、卸売買を始めて急速に利益を拡大するようになります。
大阪の砂糖市場でも有力な実力者で砂糖価格を左右したとさえ言われます。つけられたニックネームが「金虎」で、巨万の富を持つ男と云われるようになります。ちなみに彼が寄進した石灯籠が現在のJR琴平駅前の広場に今もあります。
満濃池が決壊したまま放置されて10年近く経ち、何度かの日照りが襲いかかってきます。池がなくなったことで、水不足はさらに深刻化します。さらに大雨の毎に、金倉川水系では洪水が起きるようになります。多目的ダムのように、満濃池は治水機能も果たしていたのです。このように農民の辛酸さを目の当たりにして、虎太郎は再築に向けて動き始めます。
まず、関係各藩を訪ね奔走して修築の急務を訴えます。しかし、時代は幕末。各藩の最重要課題は富国強兵・軍事の近代化で財政逼迫で、再築に向けての支援は得られません。当時の大規模公共事業をみると、各藩の手によって行われたものは少ないのです。例えば丸亀藩や多度津藩の新港建設などは「民間資本の導入」でまかなわれています。社会資本の投資事業は民間主体になっていたのです。このあたりに、封建社会の行き詰まりが現れています。
「金虎」こと虎太郎も、自前での資金集めに動き出します。
決壊から10年を経た元治元年(1864)に、大坂に向かい、そこで豪商「住屋」の総帥白川彦三郎を説得して満濃池修築の借款を確約させます。これを各藩に伝えて、工事着工を願い出ますが高松藩は同意しません。折角、資金は準備できたのに、藩が許さないのです。
決壊から10年を経た元治元年(1864)に、大坂に向かい、そこで豪商「住屋」の総帥白川彦三郎を説得して満濃池修築の借款を確約させます。これを各藩に伝えて、工事着工を願い出ますが高松藩は同意しません。折角、資金は準備できたのに、藩が許さないのです。
彼はそれでもめげずに、翌年五月に今度は京都に行き、密かに知人を通じて宮中に嘆願して、満濃池再建の許しを得ようとします。幕府でなく朝廷に嘆願するというのが時代を表します。
この時の仕様見積書には
揺樋の儀は従来に顧み、弥勒池同様に池の生岩を彫り抜く積もり
とあります。ここからは、弥勒池で軒原庄蔵が成功させた岩盤に穴を開けて底樋とする方法を考えていたことが分かります。
第五項には、次のように記します。
「積高入用銀は、大坂銀主より借り入れ、水掛かり村々にて引請証文を差し入れ、元利を払い納める」
朝廷からの虎太郎宛返書
この嘆願書にたいして、朝廷は
「願い入れのこと不充分なので天領の人を一人加えて、図面書類を揃えてもう一度上京するように」
という但し書を付けて返還しています。
(斎部薫著『讃岐国満濃池通史』)
「天領の人を一人加えて・・」というのは当然です。彼は所謂、第三者的な存在でしかありません。満濃池の普請は、池の領天領の大庄屋が代々担ってきたのです。榎井村をはじめとする池の領が当事者として再建に向けた声を上げないと、着工への道は開かれないのです。しかし、池の領では、前回の工事を巡って、長谷川喜平次と百姓の間に大きな亀裂が入っていました。その傷が癒えるのには時間と世代交代が必要だったのです。
虎太郎は明治11年9月16日、他界します。61歳でした。
虎太郎が朝廷に嘆願してから数年後に大政奉還が行われ、新しい明治の時代が開かれます。
長谷川佐太郎、倉敷県庁に満濃池再築の嘆願書提出
恐れながら嘆願奉り候讃州那珂郡満濃池は千年以前より開墾したところで、古書にもその名が多く見受けられます。十四年前に堤防が消失し、廃池となりました。この池の掛り高はおおよそ三万五千石、内二千百八石はただいま天領となっており、榎井、五条、苗田の三村でございます。その属しているところは高松、丸亀、多度津三藩の領分でございます。右の池廃絶以来三村の百姓の用水の手当はなく、五穀の植え付けに困窮しております。旱魅の年は村は赤地となり一粒も育ちません。大雨の節には濁水膨張し、良田が流失してしまいます。それに付き、三村の民申し合せ、度々幕吏に願い出ましたところ、とにかく等閑(ものごとをいい加減にすること)に打棄てられ遂に今日に至っています。高松、丸亀等の領分には処々に清水もあり、かつ領主より小池の築造があり、その手当もあります。三村には水溜の地がありません。故に年々疲弊し、最早や必死の場合に至っております。今般大政御一新御改革と承りお願い申しあげます。何卒天威を以て、三藩に仰せつけ、満濃を旧来に改修相成りますことを、謹んで願い奉ります。慶応四年(1868年)辰之月(三月)天領讃州那珂郡榎井村 百姓総代 佐太郎弁事御伝達所
ここには、満濃池が十四年前に決壊して廃池となってからの水掛かりの事情が述べられており、池御料三か村の農民の困窮が伝えられています。そして「今般大政御一新御改革」となった機会を捉えて新政府に嘆願しています。最後は「何卒天威を以て三藩に仰せつけられ」てと、高松・丸亀・多度津の三藩に改修工事の着手を命じて欲しいと結びます。つまり、改修の主体は三藩なのです。三藩の協議で出資配分が決まらないと着工は出来ません。国は補助金も出しません。
最後に「天領讃州那珂郡榎井村百姓総代 佐太郎」と署名しています。前回の満濃池普請の責任者である長谷川喜平次が亡き後に就任した天領の榎井村の庄屋です。彼の登場で、前回の普請の確執が取れていきます。阻害要因①を越えることが出来ました。
年号が慶応から明治へと改まった明治元年(1868)9月16日付けで、倉敷の弁事御伝達所は長谷川佐太郎に
「願いの通り倉敷県へ申し聞かせ置き候間、同県へ伺出るべく候事」
と通達しています。こうして、倉敷県は中央政府の許可を受けて、高松藩、丸亀藩、多度津藩に対して、早急に満濃池の改築に着手するよう働きかけます。しかし、幕末から明治への政治的な混乱の中で、優先順位は決して高くないうえに、多度津藩は水掛かりについて従来より公平でないとの不満を持っていて、三藩の意見はなかなか一致しません。佐太郎は、私財で各藩の間を斡旋し、たびたび倉敷県庁にでかけて情報交換や陳情を繰り返します。そのような活動の中で、強力な支援・協力者に出会います。それが高松藩の執政で農政長を兼ねていた松崎渋右衛門です。彼の支持を得て、着工に向けての具体的な動きが始まります。
高松藩執政松崎渋右衛門の決意が着工への道を開く
翌年の明治2年(1869)6月、長谷川佐太郎は松崎渋右衛門とともに満濃池を視察します。その際に。旧堤防の西隅が自然の大岩盤であることに気付きます。ここに隧道を掘り抜いて底樋にすれば、揺替普請の必要がなくなり、堤防の決壊も免れるとふたりは確信します。渋右衛門の指示に従い佐太郎は倉敷に行き、参事の島田泰雄に事情を説明し賛同を得ます。
それまでは、前回の底樋の石造化の失敗から木樋にするか、石樋にするかについて、意見の対立が関係者の中にありました。これに対して、高松藩の執政であった松崎渋右衛門が
「底樋を石穴にして、その成否については高松藩が責任を持つ」
と腹をくくって決断したのです。これが多度津藩との関係で逡巡していた丸亀藩をようやく池の改築に協力する方へと向かわせます。
こうして明治2年(1869)9月16日に、満濃池の底樋工事が始まります。しかし、底樋のみの単体工事で、堰堤は工事はこの時点では未着工です。
弥勒池の軒原庄蔵像
岩盤に底樋用の石穴を開ける工事は、寒川郡富田村の庄屋、軒原庄蔵が起用されました。工事主体は、高松藩が主となり、丸亀藩がこれに協力して進められる形で進められました。高松藩の執政職の松崎渋右衛門が工事を推進する立場にいるはずでしたが、着工のときには、彼の姿はありませんでした。工事着工に先立つ9月8日、彼は高松藩内の権力抗争で城内で反対派のテロにあいます。彼の決断がなければ、着工はさらに伸びていたでしょう。
満濃池底樋石穴(想像図)
佐太郎は後に、神野神社境内に渋右衛門をたたえて神祠を建立、松崎神社として彼を神として祭っています。神野神社は今日、池畔の高台に移転され、水面を見下ろしています。
待望の工事開始 長谷川佐太郎、再びの嘆願
松崎渋右衛門の志を受け継ぎ、高松藩の郡司谷本宗次郎を中心に、その年の末には底樋については成功のめどがたちました。しかし、丸亀藩にはまだまだ石樋への不安が強く、築堤工事の着手ができない状態でした。
そこで長谷川佐太郎は翌年の明治三年(1870)に、再び倉敷に赴き、両藩の堰堤着工を嘆願書にして次のように提出しています。
讃岐国那珂郡の満濃池は廃池となって以後、その堤防修築のことについて、たびたび嘆願(嘆き願う)してきた。(これまでの領主は)領内隅々まで熟知することが不充分であったため、十年以上を経ても毎年水干(洪水と日照り)により損失が少なくなく、百姓一同の疲弊は頂点に達し、必至困苦していた。
(明治維新で)政情が一新され、下層の人々の苦情を深く憐憧(憐れみ品物を恵む)して下さることとなった折から、嘆願を聞いて下さることとなった。さらに高松藩にあっては厚い思し召しにより堤防を修築し、丸亀藩も(困窮のことを)熟知して下さり、すでに昨年八月中に底樋用の石穴を掘り始めてくれたことは、非常に有り難く幸せに思っています。これは(高松・丸亀)両藩が引き請けてくれたもので、石工・人夫なども昼夜にわたり働いてくれたので、すでに相当なほどまで掘りおこされています。これまでの様子から来る三月中旬頃には、完成しそうであります。そのような状況でありますので、その他の部分についても早々に修築していただけるものと思っています。当用水はだんだんと(完成が)近付いていますが、万一今年に干魅(日照り)がおこった場合は、水の手当てがさし当たってないならば疲弊も極まって、百姓はもはや(それを)凌ぐ方策も尽きて難渋することになります。かねて(高松・丸亀)両藩においても、その点を深く慮って、前条のように昼夜にわたり人夫を出していただいている中に、些細な管見(自分の見識)を促し、お願い申し上げるます。まことにもって恐れ入ることでありますが、猶この上精々大急ぎで修築していただき、日ならずして総て完成させて、水を蓄えることが出来ますよう、恐れながら早々に(高松・丸亀)両藩に掛け合って下さったならば、広大のお恵みとして誠に有り難き幸せに存じます。依ってこのことを嘆願申し上げます。以上。総代 長谷川佐太郎 印倉敷県御中
嘆願書は採用され、佐太郎は直ちに帰村します。
倉敷県庁では、佐太郎の嘆願書を受け取って、民部省と大蔵省に次のような伺いをたてています。
伺
伺
萬濃池のことに付き、別紙の写しの通り十数年来修築をなさず因循に打ち過ぎてい費用の程度については、別紙絵図面の附紙の通り、用水の流れの末端の村々は(その費用の負担は)除外したく、このことを嘆願致します。かつ前文の如く、丸亀・多度津二藩は藩論も一定せず因循に打ち過ぎ(経過し)ています。何分にも実地(現地)の水掛かりのない村々は、除外してよろしいのでありましょうか。今般右の積書の巻末に、旧例のお手当人足の割合を計算した費用の程度並びに減額した費用の程度の両方を記載して差し出しましたので、(その)手当てを渡して下さるように致したくお伺いします。なおまた丸亀・多度津二藩の説諭談判折り合い(解き諭すための話し合い)のつかない場合には、手当てを渡して下さる以外に、米金の拝借をお願い致したく、何分にも(何卒)、四月中に是非とも(堤防の)成功を遂げなかった(完成させなかった)ならば、(程なく)梅雨の季節に立ち至る(重大・深刻な状況になる)ので、土木工事が出来なくなるために、至急その段取りを運びたく(工事を開始したく)、このことをお伺い致します。三月倉敷県庁民 部 省大 蔵 省
内容は「用水の流れの末端の村々は(その費用の負担は)除外」あつかいしたいという伺いです。具合的には負担金の割り当てに応じようとしない多度津藩を除外する形で進めてよろしいかというものです。
この倉敷県庁の伺いに対して、両省から次のような指令が出ています。
指令書面満濃池の普請のことは、大阪土木司へ見聞(分)する(立ち会い見届ける)よう伝達しているので、申し合わせて取り計らうこと。牛(明治三年)三月
こうして、多度津領を水掛かりから除外する形で着工することになります。そして、多度津藩12村8715石が満濃池の水掛かりから離脱します
工事費用総額は? 工事はその後順調に進み、明治3年(1870)3月15日に底樋の石穴が貫通。6月6日には築堤が完成します。
築堤工事に従事した人夫は合計14万4916人。総工費は38000両
現在ならば国からの援助金が半額はあるように思いますが、この時代はそんなものはありません。当時の小学校建設と同じで、全額地元負担です。高松藩と丸亀藩が支出することになります。工事が進むと資金が不足してきます。長谷川佐太郎も私財1万2000両を支出したと云われます。比較のために事例をいくつか並べてみましょう。
戊辰戦争で朝敵になった高松藩の新政府への献金 12万両金毘羅大権現の明治政府への献金が 1万両金毘羅金堂(現旭社 ) 3,8万両金毘羅高灯籠 0,7万両
佐太郎の支出金がいかに大金だったか分かります。単純に比較はできませんが今日の十数億円に相当すると云う研究者もいます。二千石以上の富豪と云われた長谷川家の田地は、この池普請の出費で人手に渡り、ついに貧窮したのです。
ちなみに、この工事に若き人夫として参加していたのが大久保諶之丞です。この労働現場で彼は築堤工事や土木工事の技法を身を以て学びます。同時に、長谷川佐太郎を中心とする人々の満濃池再築に架ける使命感や情熱を体感したのではないかと、私は想像しています。それが大久保諶之丞して、後の四国新道建設へと向かわせる導火線になったのではないかと思うのです。その意味で、諶之丞は長谷川佐太郎の志を継いだ次の世代といえるのかもしれません。
嘉永7年(1854)の破堤から16年目に再び甦みがえった満濃池の規模です。
以上をまとめると、満濃池再築の3つの障害は、次のような形で乗り越えられていったことになります。貯水量 五八四万六、〇〇〇トンに増大堤長 四十五間半(八二・八一メートル)堤高 十三間 (二三・六六メートル)天幅 八間 (一四・五六メートル)敷幅 六十五間 218・3メートル)(石穴の底樋)長さ 三十間五尺三寸 (五六・ニーメートル)竪樋との接合部分(木樋)七間(一二・七四メートル)石穴の内径(高さ)三尺五寸 )幅 三尺 (〇・九一メートル)(竪樋(木造尺八樋)
長さ 十八間 (三二・七六メートル)に縮少。櫓を四個にして。上より一番、二番と数えるように改める。
①新しい指導者 長谷川佐太郎の登場
②明治維新政府という中央政権の登場
③明治政府による高松・丸亀藩への指導
④最後まで反対した多度津藩の排除
次回は、再築工事をなしとげた長谷川佐太郎について、もう少し詳しくみていきたいと思います。
満濃池年表 満濃池名勝調査報告書181Pより
1849年 長谷川喜平次が満濃池の木製底樋前半部を石製底樋に改修。所要人員249,890人。
「満濃池御普請所絵図」が嘉永年間(1848-1854)に成立
1853年 長谷川喜平次が満濃池の木製底樋後半部を石製底樋に改修,
1854年 6月の伊賀上野地震の影響で、7月5~8日、満濃池の樋外の石垣から漏水。8日には櫓堅樋が崩れ、9日九つ時に決壊。満濃池は以降16年間廃池。
1866年 洪水のため満濃池の堤防が決壊して金倉川沿岸の家屋が多く流失し青田赤土となる。 長谷川佐太郎、和泉虎太郎らが満濃池復旧に奔走する。
1855 安政2 長谷川喜平次、満濃池復興のために奔走
1859 安政6 満濃池の官を始め近隣各宮で念仏踊を行う
1860 安政7 倉敷代官大竹佐馬太郎が長雨洪水による被害状況を巡察
嘉永7年(1854)以降、明治2年(1869)以前、「讃岐国那珂郡満濃池近郷御料私領絵図」が作成される。
1863 文久2 11月、長谷川喜平次、満濃池復興、意志半ばで病没(67歳)
1863 12月29日、高松藩、幕領満濃池付属地及び五條・榎井・苗田と金毘羅社領を、治安上高松藩の管轄にすることを請い、許可される(歴世年譜)
1865 金倉寺村の豪商和泉虎太郎、朝廷に満濃池再築の嘆願書提出。
1866 満濃池決壊中で治水機能が果たせず、金倉川沿岸の家屋が多く流失し青田赤土となる。長谷川佐太郎、和泉虎太郎らが満濃池復旧に奔走。
1868 1月、和泉虎太郎のもとに朝廷より池御料の関係者と共に書類と図面を持参するようにとの内命書届く。3月5日、池御料、一時土佐藩預かり地となる。
3月、榎井村戸長長谷川佐太郎、新政府の弁事伝達所へ満濃池再築の嘆願書提出。(丸亀県史)
7月、和泉虎太郎、朝廷の命に従い上京。再度、満濃池再築を嘆願。
9月16日、長谷川佐太郎のもとへ満濃池再築聞届けの返書が届く。
9月、池御料倉敷県となる。倉敷県に満濃池再築の命が下る。
1869 高松藩執政松崎渋右衛門、長谷川佐太郎と満濃池視察。底樋を石穴穿整に決定。
8月、満濃池、石穴穿撃工事に寒川郡富田村庄屋軒原庄蔵を起用。
8月9日、満濃池の復旧工事着手。
9月16日、底樋となる石穴穿撃工事に着手。(丸亀県史)
1870 1月、丸亀藩の一部に満濃池底樋について石穴穿盤を危惧する声があり、築堤工事に着手できず。1月、榎井村の長谷川佐太郎が満濃池修築の促進を高松・丸亀両班に掛け合ってほしい旨、倉敷県庁に嘆願(丸亀県史)
1月、満濃池の堤防工事着手。(満濃池通史)
2月、倉敷県、長谷川佐太郎の嘆願書を民部・大蔵省に上申。倉敷県参事島田泰雄、池御料来訪。丸亀藩を説得。
「満濃池之図」「満濃池水掛村々之図」作成。
3月15日、満濃池の石穴底樋貫通。
6月3日、満濃池堤防復旧。水容量584万6,000m3。
6月、榎井村の長谷川佐太郎が満濃池修築の功により餅米10俵を賜る。(高松県史)
7月3日、満濃池修築完工。(丸亀県史)
鵜足郡八か村3,160石、多度津藩領12か村8,075石2斗の水掛かりが満濃池水掛かりから離脱。以後、満濃池水掛かりは24,579石となる。
大阪土木司が満濃池井手筋を検分する。
参考文献 満濃池史
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