引田 新見1
 信長が桶狭間で勝利し、華々しく戦国時代の舞台に登場してから数年後の永禄九(1566)年のことです。備中新見荘から勤めを終えて、京都の東寺に返っていく二人の荘園管理官がいました。彼らは新見から高梁川を川船で下り、河口の倉敷から塩飽本島を経て、讃岐の引田への帰国ルートをとります。これは、現在の「出張」ですから旅費請求を行います。その記録が東寺に残っていました。名付けて「備中国新見庄使入足日記」です。実務的な記録で、宿泊場所や宿代・船賃など最少限度のことしか書かれていないのですが、深読みするとなかなか面白いのです。前回は引田までを見てきました。
今回は引田から淀川中流の石清水八幡までの記録を見ていくことにします。最初に引田からの全文を出しておきます
十月十九日  十文  宿賃
廿日より廿四日迄
     百六十文  兵後(兵庫=神戸)にて旅篭
   壱貫百五十文  しはく(塩飽)より堺迄の舟賃
二十五日夕  二文  さかい(堺)にて夕旅篭
二十六日   四十文 同所  旅篭
二十七日朝  
   二文  旅篭  同所
   三文  はし舟(渡船)賃 兵後(兵庫)より堺へ上り申す時
   百文  さかい(堺)よりを坂(大坂)迄 駄賃
   貳百文 を坂よりよと(淀)迄 舟賃
   十二文 森口(守口)旅篭 同日
廿七日夕、八日朝
   四十文 ひら方(枚方)朝夕旅篭
廿八日 十二文 やはた(石清水八幡)にて 旅篭 同日
新見を出発したのが9月21日でしたから1ヶ月を費やして、兵庫まで帰ってきました。
淀川3

「壱貫百五十文、しはく(塩飽)より堺迄の舟賃」
とあります。塩飽(本島)から引田・兵庫を経て堺までの船賃が一貫百五十文です。倉敷ー塩飽間が百五十文でしたから、それを加えると堺までの1貫三百文ということになります。一貫は千文ですから、倉敷ー堺は千三百文の船賃ということになります。
これは、今のお金に換算するとどのくらいになるのでしょうか?
塩飽から引田への船上で買った米一升が12文でした。当時は、米一石=玄米150㎏=銭一貫=銭千枚が米の相場のようです。そこで一斗=十五キロ=百文になります。一升=十文ですから船上で買った一升=十二文という相場は、少し高いようです。しかし、船の上という状況を考えると、売る側の立場が強くなりますから高かったのかも知れません。

淀川6
1升=10文の相場を尺度にして考えましょう。
今は、米は安くなって道の駅などで生産者から買うとコシヒカリ30㎏=8000円が私の周りの相場です。しかし、20年ほど前は倍くらいの値段でした。計算しやすく10㎏=5000円とします。すると一斗(15㎏)=七千五百円=100文となります。一文は75円になります。そうすると一泊二食の宿代が十文=750円になります。宿代の値段が今と比べると格段に安く感じます。
 別の尺度で見てみましょう。宿泊費をモノサシにして比較しす。現在の出張旅費を1泊7500円として、当時の宿泊費10文と同価値とすると、7500円=10文と置きます。そうすると一文は750円で、米基準の10倍になります。
これで倉敷ー堺間の船賃1300文を現在価格に変換すると
①1文=75円レートでは 1300文×75円= 97500円
②一文=750レートでは 1300文×75円=975000円
レート的には①が納得のいく相場のようです。
2つめの疑問は、宿代に比べると船賃が高いのはどうしてなのかという点です。
例えば、倉敷ー塩飽は二人分で150文です。宿泊費が一泊10文ですから、船代の方が宿泊費よりも数倍高いことになります。今の私たちの感覚からすると船代は高額な感じがします。瀬戸内海交易の利益率の高さはこんな所にあるのかもしれません。
ぜに 
3つめの疑問は、重い銭をどうやって持参していたのかです
船賃だけでも銭1300枚です。宿賃を合わせると3000枚近い銭が必要になります。当時の銭は、中国から入ってきた宋銭・明銭でいろいろな種類の銅銭が流通していましたが、1枚の平均の重さは5グラム程度でした。10円玉が4㌘ですから、それよりも少し重かったようです。3000枚となると、どのくらいの重さになるのでしょうか・
5グラム×3000枚=15㎏
ふたつに分けて分担して持っても、一人7,5㎏の重さになります。当時、荘園の決済には手形がありましたが、船賃支払いに手形が使えたとは思えません。また、江戸時代なら金貨がありますが、この時代は銅銭のみの流通です。素人の私の疑問です。どちらにしても、相当な量の荷物をもっての旅だったようです。そのために陸上を行くときには人夫や馬を雇っています。
 「疑問の脇道」から本道へもどります。
「廿五日夕方、さかい(堺)にて夕旅龍」
 夕旅龍というのが、分かりません。しかし、次の「廿六日、四十文、同所、旅龍」あるので、堺で1泊目、2泊目、3泊目したのでしょう。1泊目は、夕旅龍で二十文、次の日は連泊で一日中いるので四十文となるのでしょうか。夕方から泊まったら半額だったとしておきます。しかし、倉敷や塩飽などでは一泊10文だったことを思い出すと、堺は一泊二十文で、倍の値段です。この時代にも「地方格差」があったようです。
「廿七日朝、廿文、旅龍」で出発いたします。
 「二文、はし舟賃」で、また渡し船に乗っています。兵後(兵庫)より堺へ上り申す時」と但し書きがありますから、大坂湾を横切って堺に渡ったときに上陸時の渡船代でしょうか。
「百文、さかいよりを坂(大坂) 駄賃
明治時代になから、「大阪の阪の字は、土に還る」と嫌われて、「阪」が使われるようになります。もともとは土偏の坂です。「堺よりを大坂迄、駄賃」とあります。駄賃は馬借への支払いなので、馬で陸上を行ったことになります。この旅には珍しい歩きです。地図を見れば分かるように、大和川は江戸時代になって流れを大きく変えられています。それまでは上町台地に行く手を遮られて北上して、現在の大阪城の北側で淀川と合流していたようです。

淀川7
ちなみに、この当時は大阪城はまだ姿を見せず、ここには石山本願寺が巨大な要塞のような姿がまわりを睥睨するかのようにあったようです。それを仰ぎ見ながら二人は大坂の船乗場へと急いだのかもしれません。
 次に「貳百文、を坂(大坂)よりよと(淀)迄」とあります。
大阪から淀まで船で、淀川を上ったようです。この時代から20年もすると秀吉が、伏見城を建て京と大坂を結ぶ淀川水運が整備されます。そして江戸時代になると旅客専用の「三十石船」が登場します。米を三十石積めることから三十石船と呼ばれ、別名を過書船とも云われていました。
淀川5
全長五十六尺(約17㍍)幅八尺三寸(約2.5㍍)乗客定員28人~30人、船頭は当初4人と決められていたようです。 大阪には4つの船着き場(八軒家・淀屋橋・東横堀・道頓堀)があり、上り船は、十一里余(約45㌔)の行程のほとんどは綱を引いて上ったようです。綱を引く場所は9カ所あって、どこからどこまでと区間が決められていたようです。そのため進むスピードは、のんびりしたものだったようです。
   船賃は江戸の享保の頃では、上り172文、下り72文との記録が残っています。労力がかかる分だけ上りの方が高いようです。この旅行者も淀までの船賃に一人百文を支払っています。百年以上を経ているのに、物価が上がってないのでしょうか。戦国時代の船賃とあまり変わっていません。
 江戸時代には朝早く出て夕方には伏見に着く便が多かったようですが、この時代はそんなにスムーズには進みません。
         十二文 森口(守口)旅篭 同日
廿七日夕、八日朝 四十文 ひら方(枚方)朝夕旅篭
 廿八日     十二文 やはた(石清水八幡)にて 
             旅篭 同日
と淀川を上る途中で泊まったところが記されています。森口(守口市)、ひら方(枚方)に泊まっています。一日で淀川を上るのではなくあちこちで泊まり、泊まり、上っていくようです。

なぜこんなに遅いのでしょうか?

川の上流に向かっての舟が曳かれているからのようです。
近代になって鉄道網が整備されるまでは、川が大きな輸送路でした。今では想像もつかないような所に川港があって、周辺の物品を河口の湊まで運んでいたのです。カヌーで中四国の大きな川を下っているとそんなことが見えてきました。例えば、吉野川中流の阿波池田町までは川船が上がってきていました。諏訪神社のすぐ下が川港で、そこを起点に池田町のかつての街並みは形成されています。そして流域からは藍が川船に乗せられて出荷されていったのです。このルートをカヌーで下るのは瀬がなく、流れが緩やかなためにあまり楽しい川下りにはならなりません。しかし、川船の船頭達は下っただけでなく、返荷を積んで上ってこなければならなかったのです。
高梁川3

 帆を上げてすーっと上っていくのは写真の中だけです。引っ張らなければなりません。人とが牛が船に付けた綱を引っ張って行きます。
淀川 『ヴォルガの船引き』(1870年~1873年)、イリヤ・レーピン画
           ロシア ボルガの船曳

流れの速い瀬の横には、舟を引っ張るための道がありました。一番有名なのが、この淀川の曳舟です。船が汽船になるまでは人間が引っ張っていたのです。
淀川曳き舟3

 廿八日 十二文    やはたにて 旅篭 同日
二泊して、やはた(八幡)に着きます。石清水八幡のある所です。ここに泊まっています。一応、ここをゴールにしたいと思います。
旅程図を見ながら振り返ってみましょう。
引田 新見1
備中の新見庄を出発した二人は、高梁川を舟で下って松山を経て高山に至ります。高山から倉敷までは陸上を、荷物を人夫に運んでもらっています。倉敷からは舟で、塩飽(本島)、讃岐の引田を経て兵庫・堺に至り、堺から大坂までは駄賃をはらって荷物は馬に乗せて歩いています。そして大坂からは淀川の川船に乗ります。これを見ると、ほとんど舟利用で、陸上交通を使っていないのです。
①高梁川の河川交通、これを用いて下る。
②次に瀬戸内海の海上交通を用いて堺まで行く。
③それから淀川の河川交通を用いまして、淀まで上る。
陸上交通と水上交通を組み合わせて移動しています。
巨椋池


 もうひとつ淀の重要性が見えてきます。

畿内の水運拠点には、瀬戸内海側に次の4つの湊がありました。
大阪湾に兵庫の津
神埼の津
渡辺の津
ここに入ってきた船の人とモノは、淀川を使って淀まで上ります。淀には、巨椋池がありました。今ここは、京都府の浄水場になっているようです。山崎のサントリーの工場の反対側に石清水八幡宮がみえます。その間には大きな池がありました。これが巨椋池です。この池に、瀬田川、宇治川、鴨川、旅川、本津川が流れ込んでいました。奈良盆地の川で、この巨椋他にそそぎ込まない川は、大和川しかありません。ということは、この淀川を遡って巨椋池まで行き木津川を遡れば、奈良盆地へ行けることになります。逆に京都へ行こうとすれば鴨川を遡ればいいわけです。それから琵琶湖方面へは宇治川、瀬田川を上れば行けます。逆に山陰側は、桂川を遡り、大井川へ入って行きます。そして丹波へ抜けることができます。つまり巨椋池は、河川交通のロータリー的な地理的役割を持っていたようです。
淀川曳舟
 こうしてみると、奈良や京都は淀川を通じて、瀬戸内海と結びついていたことになります。
だから引田周辺で取れた薪が、瀬戸内海を舟で運ばれ、京まで送られるということも可能だったのでしょう。穀倉類だけでなく薪などの生活物資に至るまで、瀬戸内海沿岸から運び込まれていたようです。その意味では、奈良の都も平安京も「消費都市」という性格は同じです。淀川水系を使って瀬戸内海と結びついていました。瀬戸内からの「供給」なしでは成り立たない都だったのです。奈良も京都も、瀬戸内海の方を向いた都と云えるようです。
参考文献    田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
                                 香川県立文書館紀要3号(1999年)