前回は年貢計算書でしたが、今回は手形決済です。年貢を手形決済で行ったのが大野荘です。大野荘は、財田川が山域から平野部に流れ出す三豊市山本町の扇状地に開けた地域で、洪水に苦しめられた所です。ここは京都祇園宮の社領でした。荘園ができると、本領の神々が勧進されるのが常でした。大野郷では京都祇園宮の牛頭天王(須佐之男命)を産土神と勧進します。香川郡に大野があるので、これと区別するために西大野と呼ばれたようです
貞享5(1688)年の当社記録『大埜村両社記』には
「古老相伝ヘテ曰夕、昔牛頭天皇アリ。光ヲ放チテコノ山上ノ北二飛ビ来タル。其所今現ニアリ、コレニヨリ宮殿ヲカマエ、コレヲ祀ル」
『大埜村両社記』には
「大埜地五百石ヲ以テ社領二付シ、七坊ヲ割テ神事ヲ守ル。富栄知ル可キナリ。大社タルヲ以テ毎歳洛ノ祇園ヨリ燈料胡麻三解ヲ課ス」
とあり、毎年本宮である京都祇園宮へ燈料として胡麻三石を供進していたようです。今も、この胡麻を収納したと思われる字上岡・字上川原・字南川原の三ヵ所に塚が残っています。
この程度の予備知識を持って「八坂神社記録」を見てみましょう。
『八坂神社記録』(増補続史料大成) (応安五年(1372)十月廿九日条)西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々。この内一貫在国中根物、又一貫上洛根物に取ると云々。この際符近藤代官同道し持ち上ぐ。今日近藤他行、明日問答すべきの由伊予房申す。
八坂神社は、京都の祇園神社のことです。14世紀後半の南北朝時代の記録になります。一行目に
「西大野より伊予房上洛す。今年年貢当方分二十貫と云々」
銭一貫=銭千枚ですから納めるべき年貢は銭二万枚です。当時の銭は、日本では鋳造されずに中国の宋銭や明銭を海外交易手に入れて、国内で「流用」していました。そのため何種類もの中国製銅銭が流通していましたが、どれも同価値扱いでした。重さは、十円王より少し重くて一枚五グラム程度です。そうすると、2万枚×5グラム=100㎏になります。100㎏の硬貨を讃岐から都まで運ぶのは、現在でも大変です。
そこ代銭納の登場です。これは年貢を現物で納めるのに対して、銭で納めることです。しかも、実際には実物の銭は動きません。手形決済システムなのです。
伊予房という人物が出てきます。
この人は八坂神社の社僧で、西大野まで年貢を集めに来ています。年貢がスムーズに納められれば取り立てにくることはないのですが、大野荘の現地管理者がなかなか年貢を持ってこないので、京都から取りに来たようです。その場合にかかる旅費などの経費は、自分で払うことになります。
「今年年貢当方」で、八坂神社に納められる分は二十貫。
「この内一貫在国根物」とあり、「根物」というのは必要経費です。つまり、食事をしたり、泊まったりというその必要経費に一貫を使いました。
「又一貫上洛根物に取ると云々。」
これは上洛、つまり都に運ぶ費用になります。ですから合計二貫文が引かれ、都合十八貫文になります。その後に「この際符」という聞き慣れない言葉が出てきます。後に見ることにして先に進みます。
「この際符近藤代官同道し持ち上ぐ」
近藤という人物が西大野荘の代官です。近藤氏は、麻城主(高瀬町)城主で、麻を拠点に大野方面にも勢力を伸ばしていた地元の武士です。大野荘の代官である近藤氏が「際符」で年貢を持参して一緒に、上洛することになったようです。ところが、
「今日近藤他行、明日問答すべきの由伊子房申す」
とあり、どうやら今は近藤氏がどこかへ行って不在であるので、明日協議を行うことになったといいます。
①この年は荘園領主の使が、十八貫の年貢を取り立てに大野荘にやってきた。②そこで代官近藤氏が「際符」で、京都に持参することになった。
さて「際符」とは、なんでしょうか?
「際符」は正式の名称は割符と書いて「さいふ」と読むそうです。「さきとる、さく」という意味で「さいふ」となります。符というのは札の意味で、今の為替と同じです。この時代は「加わし」と呼んでいたようで、それが「ためかえ」で、「かわせ」に変化していくようです。ここでは「際符=為替」としておきます。つまりは、「遠隔地取引に用いられる信用手形」=「手形決済」です。この時代すでに讃岐の西大野と都の間では、手形決済が行われていたことになります。
それでは、この手形は誰が発行したのでしょうか?
また、どうやって換金したのでしょうか?
「際符」は、運送業者を兼ねた商人である問丸が地方の荘園で、米・麦などの年貢を購入し、代金相当の金額と京都・山崎・堺などの替屋(割符屋)の名を記した割符を荘官に発行します。荘官は、都の荘園領主のもとへ割符を届け年貢の決済を行うというシステムのようです。荘園領主は受け取った「際符」を替屋に持って行って支払日の契約を取決め、裏書を行い(裏付け)を行い現金化したようです。
この時も讃岐財田大野で問屋が発行した「際符」を、近藤氏の家臣が伊予房と同道して京都までやってきたのです。祇園社は、六条坊内町の替屋でそれを現金に換えています。
「際符」に書かれている内容は
①金額 銭十八貫文②持参人払い 近藤氏③支払場所 京都の何町の何とか屋さんにこれを持って行け④振り出し人の名前
のみが書いてあったと研究者は考えているようです。ちなみに実物は、まだ見つかっていないそうです。このように代銭納というのは、実際に現金(大量の銅銭)を動かすのではなく手形決済という方法で行われたようです。確かに都まで、大量の銭を運ぶのは危険です。二十貫文=100㎏の銭は腹巻きにも入れられませんし、運ぶのは現実的ではありません。決済のためには責任者が都まで出向く必要はあったようです。
大野荘でも代官を務める地元の近藤氏と、荘園領主の八坂神社との関係は悪化していきます。そこには、やはり「押領」があったからです。以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
次回は近藤氏が大野荘をどのように「押領」していったのかをもていきます。
大野荘でも代官を務める地元の近藤氏と、荘園領主の八坂神社との関係は悪化していきます。そこには、やはり「押領」があったからです。以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
次回は近藤氏が大野荘をどのように「押領」していったのかをもていきます。
参考文献 田中健二 中世の讃岐 海の道・陸の道
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