老松堂日本行録 【ろうしょうどうにほんこうろく】を読む
江戸時代の朝鮮通信使のことはよく知られるようになりましたが、それに先立つ室町時代に李朝から国王使節団がやってきています。そして、その団長が詳しい記録を残しています。宋希璟(老松堂はその号)の紀行詩文集「老松堂日本行録」です。ここには、瀬戸内海をとりまく当時の情勢が異国人の目を通じて描かれています。見ていくことにします
当時の日朝関係と使節団団長の宋希璟を調べておきましょう
倭寇鎮圧は理解できるがどうしてこの時期なのか。朝鮮側の真の目的は何か、何を意図しているのか。さらに「朝鮮が攻めてくる」
「対馬が取られた」
「九州で合戦が始まった」
「婦女子が拉致された」
などの謀略まがいの怪情報、不安、不信や恐怖をあおる悪質なデマ、中傷が京都の町に渦巻きます。足利幕府は朝鮮の真意を探らせるため、大蔵経を求めるという口実で使節団を派遣し、内実を探らせます。これに対して李朝は、宋希璟を日本回礼使として日本使節団の帰国に同行させます。その時の見聞を団長の宋希璟が記録したものです。
世宗
漢陽(ソウル)を出発する際に、世宗から「他国へいくに、詩は以って作らざるべからず」
と教えられ、
「出城の日より復命の時に至るまで、浅酬を揆らず、凡そ耳目に接するものあらば、皆記してこれを詩とすると云うのみ耳」
という覚悟で記録したのが、この「老松堂日本行録」です。行程は次の通りで9ヵ月余りの日本出張です。
1月15日 ソウル出発3月 4日 博多着4月21日 京都に到着6月16日 将軍足利義持に謁見6月27日 京都出発10月25日 ソウル帰着
それでは「瀬戸内海」に絞って見ていきましょう。
3月4日、博多に入った一行は大歓迎を受けています。宋希璟は、正式使節団の団長として身分を示す玉の飾りと冠をつけて、法螺貝を吹く螺匠4名をはじめ供の者を率いてパレードを行っています。日本側の警備兵が左右を守り、しずしずと進む行列は、当時の博多の人々にとっては大変めずらしいもので、老若男女から僧尼にいたるまで、路をうずめてこれを見たと記します。現在のエンターテイメント的イヴェントの側面があります
江戸時代の朝鮮通信使の先駆けにもなるようです。後の通信使がそうであったように、僧を中心に多くの文人と交わり詩文を交わしています。とくに対外貿易や外交に携わっていた宗金や陳外郎の息子である平方吉久とは、頻繁に会い、情報を交換したようです。
当時の博多は国際都市で、中国・朝鮮をはじめ異国人が数多く住んでいたようです。百年ほど後の記録には、次のように記されます。
博多の東門外に百人以上の唐人が住み着き、妻子とともに家を構えている、日本の女を妻にしている者もいる
異国人が渡来し、倭人とともに貿易に携わり、国籍や民族を超えて東アジアの海を行き来していたことがうかがえます。
国際的な経験と知識をもって、外交と貿易に活躍したのは僧侶です。
以前に禅宗僧侶の弁円(諡・聖一国師)の活動ぶりを紹介しました。彼も博多商人の保護を受けて宋に渡り禅宗を学び「聖一派」を開いていきます。留学僧として学んできた禅僧は、知識と語学力や医学・薬学の知識をもつ専門家でもありました。彼らを政治家や商人達が放っておく筈がありません。通訳から外港・貿易指南として、側近に登用するとともに宗教的な保護を与えたのです。
そんな中で当時の博多で知られていたのは宗金です。
彼は僧籍の商人で、この数年後には図書倭人の地位をえて、朝鮮貿易に力を発揮します。早田左衛門太郎等とともに、銅2800斤を輸出し、綿紬2800匹を博多に持ち帰ったといわれます。彼は、管領斯波氏の朝鮮貿易をも請け負い、1447年には総勢50人を率いて朝鮮に渡った記録も残っています。
彼は僧籍の商人で、この数年後には図書倭人の地位をえて、朝鮮貿易に力を発揮します。早田左衛門太郎等とともに、銅2800斤を輸出し、綿紬2800匹を博多に持ち帰ったといわれます。彼は、管領斯波氏の朝鮮貿易をも請け負い、1447年には総勢50人を率いて朝鮮に渡った記録も残っています。
こうした宗金の活躍は、この時の博多での宋希璟との交わりから生まれた信頼関係が背景にあるのではないかと研究者は考えているようです。宋金一族はその後も、朝鮮や明との貿易にたずさわり、息子の性春・孫の茂信も博多を代表する商人として活躍します。
ここでは博多が当時の東アジア貿易センターの日本側の窓口だったことを押さえておきます。
宋希璟が博多に滞在したのは20日あまりです。京都に使者が上り、将軍義持から折り返し上京の許しが出るのを待っていたのです。博多ー京都の往復が早船で20日ということになります。3月24日に、志賀島から出発しています。
瀬戸内海で一番怖れていたのは?
船は、赤間関を経て春の瀬戸内海に入っていきます。京都に到着したのが4月21日ですから、1ヶ月近い瀬戸内海の船旅の始まりです。穏やかな瀬戸内海は、時として悪天候や強風も襲いかかってきます。しかし、宋希璟が一番怖れているのは海賊だったようです。将軍・義持は、多くの護送船をおくって使節団一行の警護を固めていますが、不安でならなかったようです。
赤間関を発するとすぐに海賊の偵察船らしい小船がやってきます。源平の合戦で有名な壇ノ浦に停泊しますが、夜中に怪しい声がして眠れません。朝になって、その正体をしるとただの雉(きじ)の声です。知らない海ををゆく者の気持ちは、不安でいっぱいです。
室積を過ぎて、遠くに村の火をみたときも
「海辺にすむ人たちは皆海賊である。だから村の火をみても心は安らかではない」
と書いていま。
当時の「海賊」たちは、足利幕府のゆるやかな支配の網のなかで活動していますから外国使節団を襲うほどの「無法者」ではなかったと私は考えていました。
しかし、これ以前の1395年の回礼使は、安芸国高崎(広島県竹原市)あたりで海賊に襲われ、携えてきた贈り物や食糧、衣服にいたるまで一切を奪われたと云います。護衛の船がついていても、当時の航海技術では風向き次第で船団がばらばらになり、孤立することもあったようです。警護の隙があれば、襲いかかってくる海賊達はいたようです。
そんな時に、危険水域近くで、一艘の小船が矢のように近づいてきます。一行は鼓をうち、旗をふり角笛をふき、鐸をならして精一杯応戦します。甲をかぶり、弓を手にして船上に立ちます。海賊の船にも、人が麻のように立ち並んだと記します。この時は幸い亮況と宗金の船2艘が、すぐに駆けつけて事なきをえたようです。
そんな時に、危険水域近くで、一艘の小船が矢のように近づいてきます。一行は鼓をうち、旗をふり角笛をふき、鐸をならして精一杯応戦します。甲をかぶり、弓を手にして船上に立ちます。海賊の船にも、人が麻のように立ち並んだと記します。この時は幸い亮況と宗金の船2艘が、すぐに駆けつけて事なきをえたようです。
その後は、大きな騒動もなく尾道、日比、牛窓、室津をすぎ、各地の寺を訪れながら、4月16日兵庫港(神戸)に入ります。博多を出たのが3月14日でしたから、ここまでが約1ヶ月です。春が深まっていきます。
京都の室町幕府の外交・交易担当者は?
4月21日、京都に入った宋希璟は、魏通事天の家に宿泊します。
魏通事天は、実に数奇な運命をたどった人でした。
彼は、1350年頃(元末)の生まれの中国人ですが、子どもの頃、倭冦によって日本に連れさられてきたようです。しかし、なにかの事情で朝鮮にわたり高麗末の大貴族李子安の奴となります。李子安は、中国にも聞こえた優れた文人で、『陶隠集』という文集があるようです。この人に仕えて才能を見込まれたのでしょう。回礼使に従って日本にむかいます。そこで、たまたま中国からの使節に見出され、中国人であることが分かると、中国に連れて帰られます。時代は、すでに明となっていましたが洪武帝に謁見し、帝の命令によって再び日本に送還されて、室町幕府の通事として活躍することとなります。
時の将軍義満は、永楽帝に親書をおくり、対明貿易の道をひらくことに大いに心をくだいた人でしたから、魏天は働き場所を得て、水を得た魚のように大活躍します。日本人の妻をめとり、娘をふたりまでもうけます。時は移り、この当時は対明政策に消極的な義持の天下となっていました。彼にとっては困難な外交交渉が続いたに違いありません。魏天もすでに70歳をすぎていました。
彼は、宋希瑳の一行が宿舎の冬至寺についたと知ると酒を持って迎えに来て自宅に招待します。魏天は若いころ身につけた朝鮮の言葉をわすれず、宋希璟と旧い友達のようこに自由に話し、昔を懐かしがったそうです。
その日、もう一人やってきたのが陳外郎です。
彼は博多商人の平方古久の父です。彼の父陳延祐は帰化中国人でした。元朝が滅びた時、礼部員外郎であった延祐は、日本に亡命し博多に住んだようです。延祐は、多才な人で特に薬学にくわしかったので、足科義満に再三上洛をもとめられますが、応じることはなかったようです。
しかし延祐の子宗希が、父に代わって上洛し、父の中国での官職名「外郎」を名乗り、医学・薬学の専門家として、室町幕府に重く持ち抱えられました。陳外郎は、さらに遣明使に同行して、中国の薬学を学び、秘薬霊宝丹を持ち帰ったとされます。その後の外郎家は代々医を業とし、さまざまの薬を生み出し。毎年1月7日、12月27日には将軍に謁し、薬を献上することが慣わしとなっていました。
宋希璟の訪れたころの初代外郎は、すでに五十をすぎていたかもしれませんが、魏天とともに、中国通として、足利幕府の外交の上でも大きな役割を果たしていました。外郎が父延祐の医業を、平方吉久が祖父の博多商人としての貿易業を受け継ぎ、京・博多という当時の政治・ 経済の中心にあって、父子連携して、日本の外交を担っていたことが分かります。
このように、博多や京都の室町幕府周辺には中国や朝鮮のことを深く知る帰化人やハーフがいて、重用されていたことが分かります。そして、彼らが朝鮮からの国王使節団に接近して関係を持とうとしていたこともうかがえます。
さて京都での外交交渉については省略して、返りの瀬戸内海航路に目をやります。
6月27日深夜、宋希璟の一行は、将軍義持の書簡を持って淀川を下ります。瀬戸内海をゆっくりと、むかって船をすすめますが
7月8日、尾道まで進んで「風に阻まれ、賊に阻まれて」、
7月22日まで停滞です。この間、尾道の天寧寺の住職と役僧・梵道と親しく交わります。この時、希環がは次のような詩の序文を二人に送っています。意訳するとだいたい次の通りです。
7月8日、尾道まで進んで「風に阻まれ、賊に阻まれて」、
7月22日まで停滞です。この間、尾道の天寧寺の住職と役僧・梵道と親しく交わります。この時、希環がは次のような詩の序文を二人に送っています。意訳するとだいたい次の通りです。
大抵の僧侶には2つの問題がある、ひとつは行いを偽って人を惑わすことであり、もう一つはその言葉を偽って自らを利することである。このことは中華世界にも見られる。しかしたとえ中華世界ではなく、外国であっても、その言動に誤りがなく道に近ければ、ともに語り合うに足りる。日本の仏教は町でも村でも信奉されており、あちこちに寺があり僧侶の数が一般人の倍もいる。いま旅の途上で語り合うと、その優しい言葉は実に行き届いている。言葉は違うけれども、その理は私だちと共通する。まして朝鮮と日本は、古くから隣り付きあいをしてきた。今、朝鮮国王の命を受けて、平和と友好の旅をして、二師と会うと。、旧知の友と会うようだ。いま、ともに寺を訪れ、また船上に会って、行き来をして美しい松や竹、海や山を目にし、香をたいで茶をいれて、詩を交わし。秋を楽しんでいる。とても楽しい。
一方に、海賊あり、嵐がありますが長閑な交流の風景です。異国人であり、儒者でもある宋希璟が、懐の深い、広い視野をもって禅僧たちと交わっているのがわかります。
瀬戸内航行のハイライトとなるのは、翌日の蒲刈での体験です。
同行した博多商人の宋金から次のように教えられます。蒲刈島を境に海賊の縄張りは東西に分かれる。そこで、あらかじめ金を払って東の海賊を一人乗せておけば、西の海賊にも東の海賊にも襲われることはない。蒲刈のあたりが瀬戸内の東西を分かつ関所だ
あらかじめ金を払って東の海賊を一人乗せておけば、西の海賊にも東の海賊にも襲われることはないというのです。この金は、一種の通行料であり、警護料なのでしょう。そこで、宋金のはからいで銭7貫文(7000枚・現在の相場で約60万円)を払い、一人の海賊が乗りこんできます。その賊は「私がいるから安心しなさい」といって海賊の家に向かいます。そして交渉が成立すると、しばらくして海賊たちが小舟に乗ってやってきて、宋希璟の船が見たいというのです。
その時の海賊のリーダーを次のように記します
その時の海賊のリーダーを次のように記します
魁首の一僧は甚だ奇異で、起居言変りて吾人と異なるなし
つまり僧侶の姿をして、朝鮮語を流暢に操ることができ、宋希璟も彼と「欣然として酬答」したというのです。そして「家に来て一緒に茶を飲もう」と誘います。普段は海賊に対する警戒心の強い宋希璟が、これに応じようとして、周囲に制止されるほど、僧(首領)の振る舞いが洗練されていたようです。それほど朝鮮の文化・教養を身につけていたのです。
海賊の魁首は、その素養をどこで身につけたのでしょうか?
海賊の魁首は、その素養をどこで身につけたのでしょうか?
瀬戸内海の海上勢力と朝鮮半島との密接な交流があったことがうかがえます。当時、蒲刈の領主は多賀谷氏です。多賀谷氏は守護大名・大内氏に属していて、蒲刈船も大内氏の物資を積載して運行してたことが『兵庫北関入船納帳』から分かります。大内氏は赤間関などを拠点に朝鮮貿易も行っていて、海賊衆である多賀谷氏や蒲刈の「海賊」たちも朝鮮貿易に関わっていたと考えられます。その中で朝鮮語や挑戦的な文化素養を身につけたのではないでしょうか。
どちらにしても、当時の海賊(海の民)のもうひとつの顔が見えてきます。彼らは海の武士で有り貿易業者であり、「海の関所」の管理人であったようです。
どちらにしても、当時の海賊(海の民)のもうひとつの顔が見えてきます。彼らは海の武士で有り貿易業者であり、「海の関所」の管理人であったようです。
彼らには国境に囲まれた陸の国家とは別に、玄界灘や東シナ海によって結ばれた海の世界があったことがうかがえます。「倭寇」と呼ばれる人々には、陸に住む人々とは違った掟とネットワークがあったと研究者は考えているようです。
彼らは、多国籍集団で、日本語のみならず朝鮮語や中国語をあやつり、民族の梓を越えて行動していたのでしょう。その本拠となっだのが、済州島であり対馬であり、北九州であり瀬戸内海であったのでしょう。彼らにとって海に国境はなかったのです。そして、言葉や民族は関係ないのです。同じ船に乗って活動すれば「みな兄弟」だったのかもしれません。宋希璟は、まさにそんな倭冦の縄張りを旅していたのです。
宋希璟がさらに船を進めると、赤間関で三甫羅(サブロウ)という日本名をもった朝鮮人に出会います。当時の瀬戸内には朝鮮語を解する日本人や、日本の名前をもう朝鮮人が、ごく普通に暮らしていたようです。
讃岐の舟が塩や米・赤米・薪を積んで兵庫湊や神崎・堺を往復していた時代、そして、西大寺律宗や日蓮宗・弁円の臨済宗僧侶の弁円が聖一派などが瀬戸内海に交易ネットワークを形成し、拠点港に寺院を建立していた瀬戸内海世界の背後には、こんな国際的な環境があったようです。
参考文献 樋口淳 老松堂の見た日本
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