船乗りたちにとって海は隔てるものではなく、結びつけるものでした。舟さえあれば海の上をどこにでもいくことができたのです。海によって瀬戸内海の港は結びつけられ、細かなネットワークが張り巡らされ、頻繁にモノと人が動いていたのです。中国の「南船北馬」に対して、ある研修者は「西船東馬」という言葉を提唱しています。東日本は陸地が多いから馬を利用する、西日本は瀬戸内海があるため船を利用するというのです。

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     「兵庫北関入船納帳」にみる大量海上輸送時代の到来
 室町時代になると、商品経済が発達してきます。そこで一度に大量の荷物を運ばなければならないので海運需要は増え、舟は大型化することになります。「兵庫北関入船納帳」を見ると400石を越える舟が讃岐でも塩飽と潟元には3艘ずつあったことが分かります。

3兵庫北関入船納帳.j5pg
  「北関入船納帳」には、どんなことが書かれているのか

3兵庫北関入船納帳
①入船月日
②舟の所属地
③物品名 
⑤関税額(文)と納入日時 
⑥船頭名 
⑦問丸名
の7項目が記されています
    具体的に、宇多津の舟を例に見てみましょう。 
②宇多津
③千鯛 
 甘駄・小島(塩)  ④百石  
 島(小豆島)    ④百石     
⑤一貫百文  
⑥橘五郎     
⑦法徳
   六月六日
北があれば当然南もあります。これは兵庫関所のある宇多津舟の項目です。当時は奈良春日大社の別当であった興福寺が南関所を管理していたようです。明治維新の神仏分離で、文書類は春日大社の方へ移されました。
②一番上に書いている宇多津、これが船籍地です。
港の名前ではなく船が所属している地名です。現在で船には必ず名前が付いています。その船の名前の下に地名が書かれています。その地名が船籍地です。ですから、その船に宇多津の船籍地が書かれていても、すべて宇多津の港から出入りしているわけではありません。
③その次に書かれている干鯛は、船に積んでいる荷物のことです。
備讃瀬戸は鯛の好漁場だったので干した鯛が干物として出荷されていたようです。その次の小島は「児島」です。これは、これは地名商品で、塩のことです。「島」は小豆島産の塩、芸予諸島の塩は「備後」と記されています。ちなみに讃岐船の積み荷の8割は塩です。
④次の廿駄とか百石というのは塩の数量です。
⑤その下の一貫百文、これが関税です。関料といいます。
⑥橘五郎とあるのは船頭の名前です。
⑦最後に法徳とありますが、これが問丸という荷物・物資を取り扱う業者です。六月六日と書いているのは関料を納入した月日です。
  実物の文書には、宇多津の地名の右肩に印が付けられているようです。その印が関料を収めたという印だそうです。この船は五月十九日に入港してきて、関料を納入したのは六月六日です。その時に、この印はつけれたようです。
「北関入船納帳」には、17ヶ国の船が出てきます。
そのうち船籍地(港)名は106です。入関数が多いベスト3が
①摂津②播磨③備前で、第四位が讃岐です。

国ごとの船籍地(港)の数は、播磨が21で一番多く、讃岐は第二位で、下表の17港からの船が寄港しています。
兵庫北関1

その17港の中で出入りが一番多いのが宇多津船で、一年間で47回です。一方一番少ないのが手島です。これは塩飽の手島のようです。手島にも、瀬戸内海交易を行う商船があり、問丸や船乗り達がいたということになります。

3 兵庫 
  積み荷で一番多いのは塩        全体の輸送量の八〇%は塩
塩の下に(塩)の欄があります。これは例えば「小島(児島)百石」と地名が記載されていますが、塩の産地を示したものです。地名指示商品という言い方をしますが、これが塩のことです。瀬戸内海各地で塩が早くから作られていますが、その塩が作られた地名を記載しています。讃岐は塩の産地として有名でした。讃岐で生産した塩をいろんな港の船で運んでいます。片本(潟元)・庵治・野原(高松)の船は主として塩を運んでいます。「塩輸送船団」が登場していたようです。そして、塩を運ぶ舟は大型で花形だったようです。塩を運ぶために、讃岐の海運業は発展したとも言えそうです。

中世関東の和船

 通行税を払わずに通過した塩飽船
兵庫湊は関所ですから、ここより東に行く舟はすべて兵庫湊に立ち寄り、通行料を支払わなければならないことになっていました。しかし、通行料を払いたくない船頭も世の中にはいるものです。どんな手を使ったのでしょうか見てみましょう。  
 摂津国兵庫津都両関役の事、先規のごとくその沙汰致すべく償旨 讃州塩飽嶋中へ相触らるべく候由なり、冊て執達くだんのごとし
   (文明五年)十二月八日   家兼
      安富新兵衛尉殿
 応仁の乱の最中の文明五年十二月八日付けで、家兼から安富新兵衛尉宛への書状です。家兼は室町幕府の奉行人、受取人は讃岐守護代の安富新兵衛尉です。内容は、兵庫関へちゃんと関税を払うように塩飽の島々を指導せよ内容です。この時期に税を払わず、関を通らないで直接大坂へ行った塩飽の船がいたようです。この指示を受けて、2日後の十二月十日に元家から安富左衛門尉へ出したのが次の文書です。
 〔東大寺文書〕安富元家遵行状(折紙)
 摂津国兵庫津南都両関役の事、先規のごとくその沙汰致すべく候由、今月八日御奉書かくのごとく、すみやかに塩飽嶋中へ相触れらるべしの状くだんのごとし
 文明五年十二月十日      元家(花押)
   安富左衛門尉殿
なぜ幕府から讃岐守護代に出された命令が2日後に、塩飽代官に出せるのでしょうか。京都から讃岐まで2日で、届くのでしょうか?
それは守護細川氏が京都にいるので、守護代の安富新兵衛尉も京都にいるのです。讃岐の守護代達やその他の国の守護代達も上京して京都に事務所を置いているのです。言わば「細川氏讃岐国京都事務所」で、守護代の香川氏・安富氏などが机を並べて仕事をしている姿をイメージしてください。幕府から届けられた命令書を受けて、京都事務所で作成された指示書が塩飽の代官に出されているようです。
 室町幕府役人(家兼) → 
 讃岐守護代 (京都駐在の安富新兵衛尉)→ 
 塩飽代官  (安富左衛門尉)→
 塩飽の船頭への注意指導
 という命令系統です。同時に、この史料からは塩飽が安富氏の支配下にあったことが分かります。塩飽と云えば私の感覚からすると丸亀・多度津沖にあるから香川氏の支配下にあったと思っていましたが、そうではないようです。後には安富氏に代わって香西氏が、塩飽や直島を支配下に置いていく気配があります。
 話を元に戻して・・・
「入船納帳」の中に「十川殿国料・安富殿国料」が出てきます
国料とは、関所を通過するときに税金を支払わなくてもよいという特権を持った船のことです。通行税を支払う必要ないから積載品目を書く必要がありません。ただし国料船は限られた者だけに与えられていました。室町幕府の最有力家臣は山名氏と細川氏です。讃岐は、細川氏の領国でしたから細川氏の守護代である十川氏と香川氏・安富氏には、国料船の特権が認められていたようです。それは、細川氏が都で必要なモノを輸送するために認められた免税特権だったようです。
   もう一つ過書船というのがあります。
これは積んでいる荷物が定められた制限内だったら税金を免除するというしくみです。塩飽船の何隻かは、この過書船だったようです。しかし税金を支払いたくないために、ごまかして過書船に物資を積み込んで輸送します。しかし、それがばれるようです。ごまかしが見つかったからこんな文書が出されるのでしょう。「行政側から「禁止」通達が出ている史料を見たら裏返して、そういう行為が行われていたと読め」と、歴史学演習の授業で教わった記憶があります。塩飽船がたびたび過書船だと偽って、通行税を支払わないで通行していたことがうかがえます。
 次に古文書の中に出てくる讃岐の港を見ていきましょう。
 
7仁尾
中世仁尾の復元図
 まず仁尾湊です 仁尾には賀茂神社の御厨がありました。
海産物を京都の賀茂神社に奉納するための神人がここにいました。海産物を運ぶためには輸送船が必要です。そのために神人が海運業を営んでいたようです。残されている応永二十七年(1420)の讃岐守護細川満元の文書を見てみましょう。
【賀茂神社文書】細川満元書下写
兵船及び度々忠節致すの条、尤もって神妙なり、
甲乙人当浦神人など対して狼籍致す輩は、
罪科に処すべくの状くだんのごとし
  応永廿七年十月十七日
                    御判
    仁尾浦供祭人中
 「兵船及び度々忠節致すの条」とは、細川氏が用いる輸送船や警備船を仁尾の港町が度々準備してきたとのお褒め・感謝の言葉です。続いて、賀茂神社の「神人」に狼藉を行うなと、仁尾浦の人々に通達しています。これも「逆読み」すると、住民から「神人」への暴行などがあったことがうかがえます。住民と仁尾浦の管理を任されている「神人」には緊張関係があったようです。「神人」は、神社に使える人々という意味で、交易活動や船頭なども行っているのです。
 ちなみに、この文書が出された年は、宋希璋を団長とする朝鮮使節団が瀬戸内海を往復した年です。使節団員が一番怖れていたのは海賊であったと以前お話ししましたが、その警備のための舟を出すように讃岐守護の細川光元から達しが出されています。仁尾はいろいろな物資を運ぶ輸送船以外にも、警備船なども出しています。そういう意味では、細川家にとって仁尾は、備讃瀬戸における重要な「軍港」であったようです。

6宇多津2135
中世宇多津 復元図 
讃岐にやって来た足利義満を細川頼之は宇多津で迎えた
〔鹿苑院殿厳島詣記〕康応元年(1389)
ゐの時ばかりにおきの方にあたりて あし火のかげ所々に見ゆ、これなむ讃岐国うた津なりけり、御舟程なくいたりつかせた給ぬ、七日は是にとゝまらせ給、此所のかたちは、北にむかひてなぎさにそひて海人の家々ならべり、ひむがしは野山のおのへ北ざまに長くみえたり、磯ぎはにつゝきて古たる松がえなどむろの木にならびたり、寺々の軒ばほのかにみゆ、すこしひき人て御まし所をまうけたり、
鹿苑院殿というのは室町幕府三代将軍足利義満のことです。康応元年(1389)3月7日 将軍足利義満が宇多津に引退していた元管領の細川頼之を訪ねてやってきます。訪問の目的は、積年のギクシャクした関係を改善するためで、厳島詣を口実にやってきたようです。二人の間で会談が行われ、関係改善が約されます。その時の宇多津の様子が描かれています。
「港の形は、北に向かって海岸線に沿って人家が並び、東は尾根が北に長く伸びている。港の海沿いには古い松並木が続き、多くの寺の軒がほのかに見える。」
 当時の宇多津は、元管領でいくつもの国の守護を兼ねる細川頼之のお膝元の港町でした。
「なぎさにそひて海人の家々ならべり」と街並みが形成され、
「磯ぎはにつゝきて古たる松がえなどむろの木にならびたり、寺々の軒ばほのかにみゆ」と、海岸沿いの松並木とその向こうにいくつもの寺の伽藍立ち並ぶ港町であったことが分かります。しかし、守護所がどこにあったかは分かっていません。義満と細川頼之の会談がどこで行われたかも分かりません。確かなことは、細川頼之が義満を迎えるのに選んだ港町が宇多津であったことです。宇多津は「北関入船納帳」では、讃岐の港で群を抜いて入港船が多い港でもありました。
 その宇多津の経済力がうかがえる史料を見てみましょう。
 〔金蔵寺文書〕金蔵寺修造要脚廻文案
 (端裏書)
「諸津へ寺修造の時の要脚引付」
当寺(金蔵寺)大破候間、修造をつかまつり候、先例のごとく拾貫文の御合力を預け候は、祝着たるべく候、恐々謹言
 先規(先例)の引付
  宇多津 十貫文
  多度津 五貫文
  堀 江 三貫文
資料③は、大嵐で金蔵寺が大破したときに、その修造費を周辺の3つの港町に求めた文書です。
 宇多津は十貫文(銭1万枚=80万円)、多度津が半分の五貫文、堀江が1/3の三貫文の寄付が先例であったようです。今でも寺社の寄付金は、懐に応じて出されるのが習いです。そうだとすれば、宇多津は多度津の倍の港湾力や経済力があったことになります。

 多度津は西讃岐の守護代香川氏の居館が現在の桃陵公園にありました。
山城は天霧城です。港は、桃陵公園の下の桜川河口とされています。西讃守護代の香川氏の港です。守護の細川氏から京都駐屯を命じられた場合には、この港から兵を載せた輸送船が出港していたのかもしれません。その時の舟を用意したのは、白方の山路氏だと私は考えています。山路氏については、前回見たように芸予諸島の弓削島荘への「押領」を荘園領主から訴えられていた文書が残っています。海賊と「海の武士」は、裏表の関係にあったことは前回お話ししました。
   もうひとつが堀江津です。聞き慣れない港名です。

3 堀江
堀江は、中世地形復元によると現在の道隆寺間際まで潟(ラグーン)が入り込んで、そこが港の機能を果たしていたと研究者は考えているようです。その港の管理センターが道隆寺になります。このことについては、以前紹介しましたので省略します。ちなみに古代に那珂郡の郡港であったとされる「中津」は、港町の献金リストには登場しません。この時代には土砂の堆積で港としての機能を失っていたのかもしれません。
 宇多津の経済力が多度津の2倍だったことは分かるとして、金蔵寺の復興になぜ宇多津が応じるのでしょうか?金蔵寺と宇多津を結ぶ関係が今の私には見えてきません。

3 塩飽 tizu

    キリスト宣教師がやってきたシワクイ(塩飽)
「耶蘇会士日本通信」(永禄七年)には塩飽のことが次のように書かれています
 フオレの港(伊予の堀江)よりシワクイ(塩飽)と言ふ他の港に到りしが、船頭は止むを得ず回所に我等を留めたり。同所は堺に致る行程の半途にして、此間約六日を費せり。寒気は甚しく、山は皆雪に被はれ、絶えず降雪あり、今日まで日本に於て経験せし寒気と比較して大いに異れるを感じたり。
 シワクイに上陸し、我等を堺に運ぶべき船なかりしが、十四レグワを距てたる他の港には必ず船があるべしと聞き、小舟を雇ひて同所に行くこととなせり。此沿岸には賊多きを以て同じ道を行く船一隻と同行せしが途中より我等と別れたり。我等は皆賊の艦隊に遭遇することあるべしと思ひ、大なる恐怖と懸念を以て進航せしが、之が為め途中厳寒を感ずること無かりしは一の幸福なりき。
我等の主は目的の地に到着するごとを嘉みし給ひ、我等は堺に行く船を待ち約十二日同所に留まれり。
フオレとは伊予の堀江、シワクイが塩飽のことです。伊予の堀江から塩飽まで六日間かかった。塩飽は堺へ行く途中の港だというように書いています。堺へ行く舟は、必ず塩飽へ立ち寄っています。これは風待ち・潮待ちをするために寄るのですが、目的地まで直行する船がない場合、乗り継ぐために塩飽で船を探すことが多かったようです。以前紹介した新見の荘から京都へ帰る東寺の荘官も倉敷から塩飽にやってきて、10日ほど滞在して堺への船に乗船しています。
宣教師達が最初に上陸した港には、堺への船の便がなく、「十四レグワを距てたる他の港には必ず船がある」と聞いて小舟で再移動しています。 レグワについて『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のようにあります
   レグアは、スペイン語・ポルトガル語圏で使われた距離の単位である。日本語ではレグワとも書く。古代のガリア人が用いたレウカ(レウガ)が元で、イギリスのリーグと同語源である。一般に、徒歩で1時間に進める距離とされる。現在のスペインでは5572.7メートル、ポルトガルで5000メートル。距離は国と時代によって異なるが、だいたい4キロメートルから6.6キロメートルの範囲におさまる。
 14レグワ×約4㎞=56㎞
となります。これは塩飽諸島の範囲を超えてしまいます。最初に着いた港は塩飽諸島にある港ではないようです。「寒気は甚しく、山は皆雪に被はれ、絶えず降雪あり」というのも讃岐の風景にはふさわしくない気がします。近隣で探せば、赤石や石鎚連峰が背後に控える今治や西条などがふさわしく思えます。そこから14レグワ(56㎞)離れた塩飽に小舟でやってきたと、私は考えています。

「此沿岸には賊多き」と海賊を怖れているのは、朝鮮からの使節団も同じでした。宣教師達も海賊を心配する様子が克明に記されています。また「日本の著名なる港」との記述もあり、塩飽の港が日本有数の港であったことが分かります。塩飽という港はないので、本島の泊か笠島としておきます。

 以上をまとめておくと
①北関入船納帳には、兵庫港(神戸港)へ出入りした讃岐17港の舟の船頭や積荷が記されている
②讃岐船の積荷の8割は「塩」で、大型の塩専用輸送船も登場していた。   
③兵庫湊の関税は、守護や守護代の積荷を運ぶ舟には免税されていた。
④免税特権を悪用して、兵庫港を通過し関税を納めない舟もあった。
⑤仁尾は賀茂神社の「神人」が管理する港で、細川氏の「軍港」の役割も果たしていた。
⑦讃岐にやって来た将軍義満を細川頼之が迎えたのは宇多津の港であった
⑧金蔵寺の修繕費の宇多津の寄付額は、多度津の倍である
⑨中世の中讃地区には、堀江湊があり道隆寺が交易管理センターとなっていた
⑩九州からやってきたキリスト宣教師は、塩飽で舟を乗り換えて上洛した
⑪塩飽は「海のハイウエー」のSA(サービスエリア)でありジャンクションでもあった。
おつきあいいただき、ありがとうございました。