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村上海賊衆の水夫達の行方については、史料がないのではっきりしたことは研究者にも分からないようです。しかし、想像を巡らせるなら「海賊の末裔」「水軍の敗残兵」としてひどい目にあわされたのではないかと思います。周辺の島々で住み着いて暮らしていくとしても、農耕する土地もなければ、船に乗る以外にこれといった技術もありません。そこで、小さな舟に乗り漁民として生計を立てる者が多かったようです。しかし、好漁場には古くから漁場権があります。新たに漁を始めた新参者が入って行くことはできません。そこで船に寝泊まりしながら漁場を求めて遠くの海まででかけます。船に乗って生活しているので、家船(えぶね)漁民とよばれるようになります。

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 広島県因島の家船(昭和25年頃)
村上水軍の水夫達の末裔とも云われる家船の漁師動きを 物語風に再現してみましょう。
 漁業権がないため目の前の海で操業できない新参漁師達は、新たな漁場を探して、一家で船に乗って出かけて行きます。漁場に出会うと水や薪を補給し、網を干したりするキャンプ地を開きます。それは、先住者との対立を招かないために、目の届きにくい岬の磯などに小屋掛けされました。時と共にそのキャンプ地を拠点に陸上がりして、仲間達を呼び寄せ、次第に小さな集落をあちこちの浦浜に作るようになります。新参者の零細漁民としてさげすみの目で見られることが多かったので、陸上がりしてもあまり「本村」の村人とは交わらずにひっそりと住んでいました。また農民は、漁民と混在することを嫌がって土地を提供しません。そのために。海沿いの条件の悪い狭い所に密集して住むことになります。当初は、このように本浦と「棲み分け」て、関係もほとんど持たなかったようです。
  浦にも幕藩体制が力が及ぶようになると・・・
鎖国体制が進むと幕府は造船・海上運送・廻船難破などについて統制を強化します。各地の浦浜には、浦方取締りを箇条書きにした「浦高札」が立てられるようになります。そして、毎年のように「船改め」を行い、漁業権についても法的規制を強めていきます。農村支配だけでなく「浦方」と呼ばれた海村にも浦庄屋が置かれるようになり、加子(水夫)役や、海高と呼ばれる漁業租税が漁民に担わせるようになります。
 課税できるのは定住し、戸籍が作られてからです。しかし、家船漁民は定住しないので、どこの海にいるか分かりません。そのため水夫役米は納めていませんでした。藩としては、いつも海上にいる彼らの所在を掴むことが出来ないし、全体から見ると少数・少額なので放置していたというのが実情かも知れません。家船漁民の姿が讃岐の史料にも出てくるようになります。
200年ほど前の『金毘羅山名所図絵』には、次のように記されています。  
塩飽の漁師、つねにこの沖中にありて、船をすみかとし、夫はすなとりをし、妻はその取所の魚ともを頭にいたゞき、丸亀の城下に出て是をひさき、其足をもて、米酒たきぎの類より絹布ようのものまで、市にもとめて船にかへる。
意訳すると
①塩飽の漁師は、丸亀沖の船を住み家としていること
②夫は漁師、妻は夫の獲った魚を頭上の籠に載せて丸亀城下を行商して売り歩くこと
③その代金で、米酒や薪などから絹まで買って船に帰る
とあります。
 補足すると、塩飽は人名の島で漁業権はありますが、漁民はいませんでした。人名達は漁民を格下として見下していたようです。この文章の中で「塩飽の漁師」と呼んでいるのは、実は塩飽諸島の漁師ではありません。これは塩飽沿岸で小網漁をしていた広島県三原市幸崎町能地を親村とする家船漁民のことをさしています。

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 「船をすみかとし」て漁を行い、妻は丸亀城下で頭上の籠に魚を入れて行商を行っていたようです。最大の現金収入は、一本釣りのタイ漁で、釣った鯛は海上で仲買船に売って大坂に運ばれました。彼らの中には塩飽周辺で操業し、次第に近くの港の民家を船宿にして風呂や水や薪の世話を頼んだりする者も現れます。更に進んで、讃岐の港町に密かに家を持つ者も出てきます。丸亀駅の北側の福島町には、家船漁民の家がたくさんあったと云われています。
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家船漁民の讃岐への定住 
家船漁民の中には、讃岐への移住を正式に願い出る者も出てきます。
宝暦九年(1759)に、宇多津村庄屋豊島孫太夫、浦年寄清太夫・佐市郎あてに出された「願い上げ奉る口上書」の内容は、次のような「移住申請」です
 宇多津ニて住宅仕り猟業仕り良く願い上げ奉り候、猟場の儀は右塩飽四ヵ所、島は申すに及ばず、御領分ノウ崎俵石より大槌鳥を見通し、西は丸亀詫間村馬の足目まで猟業仕り来たり候二付き、外漁師衆の障りは相成し申さざる様仕り来たり申し候、尤も生国へも一ヵ年の内一度づつは託り戻り申し候得共、大方年中船住居ニて暮し居り申し候ゆえ、寺用の事典御座候原は御当地南隆寺様へ御願い申し上げ来たり候、右住宅の義は御影ニて租叶ひ下され候はば、御当浦の御作法仰せ付けられ候通り少しも違背仕る間敷候、並びに御用等御座奴原は、何ニても相勤め申し度く存じ奉り候、生国の義胡乱が間敷思召し候弓ば、目.部厚―びニ付
 守旧九年卯二月計四日 芸州広島手繰り九右衛門
                    長作
                     徳兵衛
   意訳すると
①私は宇多津に住宅を持ち、漁業を行うことを許可していただけるよう願い出ました。
②猟場は塩飽諸島をはじめ、東は大槌島から西は庄内半島で、讃岐の漁師の邪魔にならないように行っています。
生国に1年に一度は戻りますが、ほとんどは船の中を住居にして暮らしていますので、葬儀などで寺に用事が出来たときには、南隆寺様でお世話になっています。
④宇多津に住宅を持つことがかないましたら、ご当地の作法を守り、破ることはしませんし、御用はきちんと勤めさせていただきます。なにゆえ許可願えますようお願い申し上げます。
    以上のように広島領の手繰り漁師九右衛門ら三名が宇多津浦への定住を願ったものです。
    この願いに対して、次のような許可認定が行われています。
   一筆申し達し御座候、其の浦辺ニて船住居致し罷り在り候芸州二窓浦の漁父九右衛門・長作・侭兵衛、右三人の者其の浦へ住居致し良く侯二付き、先達てより度々願い出候処、此の度国元の送り状持参致し、願い出侯趣余義無く相聞き申し候、願書の通り承り届け申し候二付き、其の浦蛸崎へ住宅指し免し申し候、其の段右漁夫共へ申し渡さるべく候、尚又、御帰城御参勤の御用は申すに及ばず、小間立て水夫御用等の節は差し支え無く罷り出、相勤め申すべく候、尚又、其の浦方作法の義違背無く相守らせ申すべく、此の段申し達し候、以上
日付けは  宝暦九年三月十五日、
差出し人は 御船蔵会所
宛先は   宇多津浦豊島孫太夫、浦年寄清太夫・佐市郎です。
 この文書のやりとりからは次のような事が分かります。
①家船漁民が宇多津を拠点に「手繰り」漁を行なっていた
②彼らは一年に一度は生国に帰るが、ほとんどを船で生活していた
③生国は広島領の二窓浦であること
④定住願いは前々から度々出されていてやっと認められたこと
⑤宇多津の漁民が参勤交替の御用船の水夫として、使われていたこと
こうして、正式の手続きを経て市民権を得て、殿様の参勤交替の水夫の役目も担うようになったようです。海賊禁止令で村上衆が離散してから約200年の歳月を経て、新たな新天地の正式のメンバーになる者もでてきたようです。
 しかし、このような例は少なかったようです。『検地帳』や『差出帳』には、家船漁師が定住した後でも一般漁民より格下に位置づけられいます。百姓株を持った村仲間としては扱われることはなく、村の氏神の祭礼にも参加できませんでした。
 結婚相手も家船漁民同士に限られました。
本浦の娘と家船漁民の若者のロマンスが生まれることはなかったようです。そのために金毘羅大権現の大祭の夜が、家船漁民の大婚活行事になっていました。こんぴらさんで出会った男女が、契りを交わし夫婦になるのです。これは面白い話ですが、以前にお話ししましたのでここでは省略します。
  家船漁民の浦は、「かわた」として特定の地域に囲い込まれ、それがあちこちの島々に点在している被差別部落の起源となったと考える研究者もいます。
   以上をまとめてみると、次のようになります
①村上海賊衆の水夫達は、家船漁師として海に生きようとする者もいた。
②漁業権のない彼らは、船に寝泊まりしながら遠くの新しい漁場を開拓した
③初期につっくられて遠征先の小屋掛け集落は、先住者の「本浦」とは没交渉であった。
④しかし、高い技術力を活かし出稼ぎ先にいろいろな形で定住するものが現れた。
しかし17世紀半ばまで移住は、細々としていたようです。それが大きく変化し、大勢の人間が移住をはじめるようになります。次回は、その動きを追ってみます。
以上です。おつきあいいただき、ありがとうございました。