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 前回は、安芸からやって来た家船漁民が、丸亀の福島町や宇多津などの港町に定住していくプロセスを見ました。今回は、彼らを送り出し側の広島の忠海周辺の能地・二窓を見ていきたいと思います。
  家船漁民は、家族ごとに家船で生活し、盆と正月に出身地(本村)に帰る外は、新たな漁場を求めて移動していきます。そして、漁獲物の販売・食料品の確保のための停泊地に寄港します。それが讃岐では、丸亀や宇多津であったことは前回に見た通りです。しかし、漁場と販路に恵まれ、地元の受け入れ条件が整えば、海の上で生活する必要もなくなります。陸に上がり新たな浦(漁村)を開きます。瀬戸内の沿岸や島には、近世中期以降に、家島漁民によって開かれた漁村が各地にあります。
家船漁民の親漁港(本村)は?
能地(三原市幸崎町)、
二窓(竹原市忠海町)
瀬戸田(豊田郡瀬戸田町)
豊浜(同郡豊浜村)
阿賀(呉市)
吉和(尾道市)
岩城(愛媛県)
3 家船4
などが母港(本村)になるようです。家船漁民は「海の漂泊民」と云われ記録を残していませんから謎が多く近年までよく分かっていなかったようです。それが見えてくるようになったのはお寺の過去帳からでした。そのお寺をまずは見てみましょう。 
 能地は忠海にある小さな港町です。
今では能地港には漁船の姿はほとんどありません。海には大きな造船所が張り出しています。海のすぐそばまで山裾が広がり、かつての海を埋め立てた所にJR呉線の安芸神崎駅があります。ここから北に開ける谷沿いに上がっていくと、小高い山の上に立派な臨済宗のお寺があります。
 この寺が家船漁民達の菩提寺である善行寺のようです
3 家船 見晴らし能地の善行寺
家船漁民の人別帳が残る善行寺
この寺は臨済宗で、15世紀後半に、豪族浦氏によって建立されたと伝えられています。浦氏は沼田小早川家の庶家(分家)で、小早川勢の有力な一族でした。「浦」を名乗った姓からも分かるように、小早川勢の瀬戸内海進出の先駆けとなった一族のようです。特に水軍史上で名を残したのは浦宗勝です。

3 浦氏
浦宗勝
彼は、1576(天正四)年の木津川口海戦では毛利方水軍勢の総帥をつとめて、大活躍しています。かつてベストセラーになった『村上海賊の娘』でも、木津川海戦での戦いぶりは華々しく描かれています。
 能地と二窓の海民がこの浦氏が建立した寺の檀家になったのは、
浦氏の直属水軍として働いたからだと研究者は考えているようです。安芸門徒と云われるように、広島は海のルートを伝わってきた浄土真宗の信者が多く、海に関わる人たちのほとんどが熱心な浄土真宗の門徒でした。ところが、この地では漁民も臨済宗の檀家だったようです。小早川の一族には臨済宗の熱心な信者が多く、その水軍の傘下にあった水夫たちも自然に善行寺の檀家になったようです。
小早川氏→浦氏→能地・二窓の水軍衆というながれです。
 関ヶ原の戦いで敗北し、浦氏直下の水軍も離散します。彼らの多くも家船漁民として、瀬戸内海にでていくことになります。その際にも彼らは臨済宗の善行光の門徒であり続けたようです。
 善行寺の『過去帳』には、死亡した場所が『直島行』とか地名が記録されています。
ここからその人物がどこで亡くなったが分かり、彼らの活動範囲を知ることができます。その地名を分布図に落とし、彼らの近世から明治にかけての展開の様相を明らかにした研究者がいます。それによると、 ふたつの浦の漁師の活動範囲は、東は小豆島から西は小倉の平松浦までに広がっているようです。
二窓の家船漁民の「出稼ぎ先」死亡地がわかる初見は、次の通りです
備前が1719(享保4)年に『備前行』
讃岐が1721(享保6)年 讃岐
備後が1724(享保9)年 備後『草深行』、
安芸 が1724(享保9)年 安芸『御手洗行』『大長行』
で、18世紀初頭の享保年間から、他国での死亡事例が出てきます。この時期に、家船漁民の他国での操業・定着が始まったと研究者は考えているようです。しかし、その数は多い年で8件、平均すると各年2件ほどです。この時期の「移住者」は少ないようです。
 それが百年後の19世紀代になると激増します。
1800-24年の間に222件、うち出職者85件、
1825-49年の間に423件、うち出職者266件
1850-74年の間に552件、うち出職者275件
となっており、幕末期における他国への「出稼ぎ」数が急増していることが分かります。
移住者が急増する要因や背景は何だったのでしょうか?
 よその海に出かけ操業したり、定着する場合は、先方の漁民の障害にならない配慮が必要でした。そのため初期には、芸予諸島の大三島や高縄半島の波方・菊間浜村・浅海・和気浜・高浜・興居島・中島などの地元漁民があまりいないところに「進出」したようです。「入植」を許した村々では、家船漁民を定着させることによって、目の前の地先漁場を確保しようとする思惑もありました。しかし、18世紀初頭までの陸上がりして定住した例は限られていました。それまでは、遠慮しながら陸上がりして定着していた状況が一変するのは18世紀後半になってからです。
変化をもたらしたのは海の向こうの中国清朝のグルメブームです
①中国清朝の長崎俵物の高価大量買い付け
②幕府による全国の浦々に長崎俵物(煎海鼡・干なまこ・鱶鰭)の割当、供出命令
③浦々での俵物生産体制の整備拡充
 当初幕府は、各浦々の生産可能量をまったく無現した量を割り当てました。例えば松山藩は総計4500斤のノルマを割当られますが、供出量できたのはその半分程度でした。このため責任者である幕府請負役人や長崎会所役人は、何度も松山藩にやって来て、目標量に達しない浦々に完納するように督促します。尻を叩かれた浦の責任者は「経験もない。技術者もいない、資金もない」で困ってしまいます。
 
3 iesima 5
海鼠なまこの腸を取り去り、ゆでて干した保存食「いりこ」(煎海鼠・熬海鼠)を製造しているところ。ここでは津島国の産業として紹介されている。いりこは、調理の際に再び水煮して軟らかくして食した。古来より珍重されていた食物であり、特に江戸時代中期以降は、対清(当時の中国)輸出の主要品目であった。人参のように強壮の効果があるとされていた。

一方、忠海の近くの能地・二窓は、煎海鼠(いりこ)生産の先進地域だったようです。
製造業者は堀井直二郎、生海鼠の買い集めは二窓東役所。輸出品の集荷先である長崎奉行への運搬は東役所と分業が行われ、割当量以上の量を納めています。つまりここには、技術者とノウハウがそろって高い生産体制があったのです。
この状況は家船漁民にとっては、移住の好機到来になります。
各浦は、先進地域から技術者・労働者として家船漁民をユニットで大量に喜んで迎え入れるようになります。大手を振って大勢の人間が「入植」できるようになったのです。現在のアジアからの実習生の受入制度のを見ているような気が私にはしてきます。
迎え入れる浦は定住に際しては、地元責任者(抱主)を選ばなければなりません。抱主が、住む場所を準備します。舵主は自分の宅地の一部や耕地(畑)を貸して生活させることになります。そのため、抱主には海岸に近い裕福な地元人(農民)が選ばれたようです。その代償に陸上がりした漁民達は、がぜ網(藻打瀬)で引き上げられた海藻・魚介類のくず、それに下肥などを肥料として抱主(農民)に提供します。こうして、今まで浦のなかった海岸に長崎貿易の輸出用俵物を作るための漁村が18世紀後半に突如として各地に現れるようになったのです。
 直島の庄屋と二窓庄屋のやりとり文書から見えてくることは?
 直島の庄屋三宅家に残る文書には、家島漁民の所属をめぐる対立が記されています。二窓の庄屋から
「二窓から出向いた漁師たちを、人別帳作成のために生国に帰して欲しい」
と帰国日時を指定した文書が届きます。家船漁民は移住しても年に一度は二窓に帰ってこなければならないのがきまりだったことは先ほど述べました。
 なぜ一年に一度帰らなければならなかったのでしょうか?
最大の理由は「帳はずれの無宿」と見なされないためです。1664(寛文四)年に各藩に宗門奉行の設置が命じられ、その7年後には、宗旨人別改帳制度が実施されるようになりました。人別帳に記載されていないと「隠れキリシタン」と見なされたり、本貫地不明の「野非人」に類する者として役人に捕らえられたりするようになりました。人別帳に載せてもらうには、本人確認と踏み絵の儀式が必要でした。
 もうひとつは、檀家の数を減らさないという檀那寺の方針もあったのでしょう。こうして「正月と盆に帰ってこなければならぬ」というきまりを、守るように厳命されていたようです。
 しかし、出ていた漁民からすれば、二窓に「帰省」しても家があるわけではありません。親族の家にも泊まれない漁民は、港に係留した船に寝泊まりしようです。漁民が出稼先で死亡した場合も、むくろは船に乗せて持ち帰られて、能地で埋葬されたようです。遠いところから帰ってくる場合は、防腐剤としてオシロイをぬり、その上で塩詰めにして帰ってきたといいます。そして、葬式や追善供養も檀那寺の善行寺で行われました。貧しい家船漁民の遺体は寺の墓地ではなく、浜辺に埋められたとも云われます。本村を出て何世代目にもなっている漁民もいます。人別帳作成のためだけには帰りたくないというのがホンネでしょう。
 このような家船漁民の声を代弁するように幕府の天領である直島の庄屋三宅氏は、次のような返事を二窓に送ります。
数代当地にて御公儀江御運上差し上げ、御鑑札頂戴 之者共に有り之』
御公儀半御支配之者共』
ここには「能地からの出稼ぎ者は長年にわたり、直島で長崎俵物を幕府へ納めている者たちであり、鑑札も頂いている。幕府、代官には彼らを半ば支配する道理があり、直島には彼らを差配する道理がある」というものです。
 そして二窓漁民たちは
『年々御用煎海鼠請負方申し付有之者共』
と、御用の煎海鼠の生産者であり、2月から7月までは繁忙期であり
『只今罷り下し候而、御用方差し支えに 相成る』
として人別帳作成のための生地への「帰国」を断っています。直島にとっては、二窓漁民の存在は『御用煎海鼠請負方』のためになくてはならない存在となっていたことが分かります。
 二窓からやってきている漁民にすれば、真面目に海鼠を捕っていれば収入もあり、直島の庄屋にすれば、幕府から「ノルマ達成」のためには出稼ぎ漁民の力が必要なのです。両者の利害はかみ合いました。
 そして家船漁民は生国の元村へ帰えらなくなります。
直島庄屋は次のような内容を、二窓浦役所に通告しています。
①今後は寄留漁民に直島の往来手形を発行する
②直島の寺院の檀家になることを許す
これは直島庄屋の寄留漁民を『帰らせない、定着させる』 という意志表示です。
家船漁民は、正式な定着を選んだ経済的な背景は?
①年貢を二重に納めなくても済むという経済的理由です。それまでは、漁場を利用する場合には、運上を納めた上に、本籍地の二窓にも年貢を納めていました。
②入漁地の住人として認められる事になれば、二窓とは何の関係も持つ必要がなくなります。
結局直島260人の他、小豆島、塩飽、備前、田井内の寄留漁民が二窓浦役所に納税しなくなり、人別帳からも外れていきます。それは、移住先に檀家として受けいれる寺が現れたということになるのでしょう。
このような「本村離れ」の動きが能地の善行寺の人別帳からもみることができるようです。
 1833(天保4)年の『宗旨宗法宗門改人別帳』の記述からは、地元の能地・二窓東組の浜浦役人に厳しく申し付けられていた
『年々宗門人別改并増減之改』
 『一艘も不残諸方出職之者呼戻シ、寺へ宗門届等に参詣』
という義務、つまり「年に一回は生地に帰り宗門改を受けよ」という義務が守られなくなっていることがうかがえます。そのため藩は
『諸方出職(出稼ぎ)之者共 宗旨宗法勤等乱ニ付』
と判断し、能地の割庄屋、二窓の庄屋、 組頭と善行寺住職に対して「廻船による『見届』実施」を命じています。つまり、宗門改監視船を仕立て出稼ぎ現場まで行って、確認させると云うことです。
 期日は、1833年2月-7月6日。実際に「見届」に行くのは、能地では組頭を、二窓では役代のものをそれぞれ付添として同伴させ、住職自らが「廻船=巡回」しています。そして「出稼ぎ先」を訪れた住職は、次のような『条目』を申し付けています。
①漁師に対しては、本尊を常に信心せよ。
②死亡者は、たとえその年に生まれた子であれ連れ帰れ
③正月・盆の宗門届は固く勤めよ
④先祖の法事、それが赤子であれ、決してうやむやにするな。
⑤寺の建立・修復の時ならず、心付けを行うこと。
⑥年に一度は、五人組を通じて人別帳を提出すること。
⑦往来手形を持たない者は出職先に召置くことはできない。
⑧宗旨宗法を違乱なく守れ。
その後で、全ての船からも『請印』をとり、『条目』に違反する『不埒之方角』の者からは『誤証文』を差し出させ、以後の規則遵守を確約させています。こうして実施された「迴船」の記録が、次のように3冊分にまとめられて残っています。
一巻『当村地方・浜方、二窓地方 渡瀬、忠海、小坂』
二巻『能地浜浦諸方出職之者』
三巻 『二窓浦諸方出職之者』
この巻末には、『人別帳』の由緒や作成経緯とともに、船頭数つまり筆数と、成員数の総計が記されます。それによると
『能地浜浦』  在住者142筆、646人
『二窓地方』 在住者54筆、246人
『能地浜方諸方出職者』420筆、2053人
『二窓浦諸方出職者』192筆、 1013人
となっています。ふたつの浜浦をあわせた『諸方出職(出稼ぎ)者』の人数は、在地者(地元で生活する人)の三、四倍になります。
(小川徹太郎『越境と抵抗』 P194~201)
以上を私の視点でまとめておくと
①戦国時代の忠海周辺は小早川配下の水軍大将であった浦氏の拠点であった。
②小早川ー浦志ー忠海周辺の水夫は、宗教的には臨済宗・善行寺の門徒であった
③関ヶ原の戦い後に、毛利方についた浦氏水軍も離散し、多くが海に生きる家船漁民となる
④優れた技術を活かして、新たな漁場を求めて瀬戸内海各地に出漁し新浦を形成する
⑤長崎俵物の加工技術を持っていた家船漁船は、その技術を見込まれて集団でリクルートされるようになる。
⑥次第に彼らは生国の善行寺の管理から離れ、移住地に根ざす方向を目指すようになる。
少し簡略すぎるかもしれませんがお許しください。

最後に、二窓の漁民の移住・出漁(寄留)地の一覧表が載せられています。讃岐分のみを紹介します。河岡武春著『海の民』平凡社より
二窓漁民の移住・出漁(寄留)地
 国 郡 地名   移住    出漁(寄留) 初出年代 筆数  
讃岐国小豆郡小豆島 安政6(1859)  3 享保18(1733) 32
  〃   小部            天保2(1831)  2
  〃  小入部?           天保元(1830)  1
  〃   大部            嘉永5(1852)  1
  〃   北浦  安政3(1856)  6 文政2(1819)  4
  〃   新開  嘉永4(1851)  5 天保12(1841)  7
  〃   見目            天保6(1835)  2
  〃   滝宮            文政5(1822)  1
  〃   伊喜末 嘉永2(1849)  1 天保7(1836)  3
  〃   大谷  文政2(1819)  7 延享2(1745) 15
  〃   入部  天保13(1842)  7 文政11(1828) 31
  〃   蒲生  安政6(1859)  2 安政5(1858)  1
  〃   内海            文政9(1826)  5
讃岐国香川郡直島  弘化3(1846)  3 延享2(1745) 25
讃岐国綾歌郡御供所 嘉永3(1850)  6 天保4(1833) 11
  〃   江 尻 安政5(1858)  1 文久2(1862)  3
  〃   宇田津           文化3(1806)  2
讃岐国仲多度郡塩飽           文久2(1862)  1
     塩飽広島 嘉永4(1851)  2 天保6(1835)  3
     塩飽手島 嘉永2(1849)  3 享保18(1833) 34
  塩飽手島カロト           文政11(1828)  4
  塩飽手島江ノ浦           天保5(1834)  2
      鮹 崎           文政6(1823) 11
      後々セ           文政6(1823)  1
      讃 岐 嘉永4(1851)  3 享保6(1721) 34
 讃岐国 合 計    13例  49  25例  236

これを見て分かることは
①小豆島・塩飽の島嶼部が多い。特に小豆島の「辺境」部の漁村は、ほとんどが家船漁船によって作られた
②塩飽は、豊島の多さが目につく。
この当たりはまた追々に、見ていくことにしましょう。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 愛媛県史 民俗編
シー