中世から近世への移行期には、瀬戸内海で活躍した海賊衆の多くは、本拠地を失い、水夫から切り離されました。近世的船手衆に変身していった者もいますが、海から離され「陸上がり」した者も多かったようです。そのような中で、本拠地を失わず、港も船も維持したまま時代の変動を乗り切ったのが塩飽衆でした。その上、「人名」という特権も手に入れます。
豊臣秀吉は、650人の軍役負担の代償として、2150石(塩飽諸島全体の石高)の領地権を保障する朱印状を出しました。この特権は人名権と呼ばれ、以後家康にも継承されます。こうして、塩飽諸島は大坂町奉行所に直轄する天領ですが、人名権をもつ島民によって自治が行われるようになります。
しかし、この特権の中に周辺の漁業権も含まれていたことはあまり知られていません。
しかし、この特権の中に周辺の漁業権も含まれていたことはあまり知られていません。
塩飽(涌)は、塩(海流)が涌き、魚が豊富な備讃瀬戸に位置します。その広い海域の漁場占有権を、塩飽は同時に手に入れていたのです。この塩飽の独占的な漁場エリアが上の地図です。「山立て」の技法で、遠くの山など目印になるものをいくつも組み合わせる形で塩飽の漁場権は設定されています。そのため非常に複雑で、私は何度見ても理解できません。まあ、それは別に置いておいて、今回は塩飽人名の独占漁場をめぐる問題を見ていくことにします。
塩飽の人名は、漁業はやらなかった。
塩飽の周りは好漁場が広がる海でしたが、人名達は当初は漁業を行っていませんでした。それは人名達が海民として、航海技術を武器に廻船業で莫大な富を手にしていた経済的優位が背景にあります。
彼らは、島中(とうちゅう)と称する自治組織を作って島の政務を行いました。「人名」たちは、株を持たない漁師らを「間人(もうと)」と呼んで差別しました。間人には御用船方となる権利がなく、それに伴う朱印高の配分や島の自治に関わる権利もありません。一方で、人名は水夫役の徴用を間人に肩代わりさせ、その費用の一部を負担させることもしています。
「人名たるものは魚を獲ったりはしない」
というヘンなプライドが漁業への進出を妨げていたようです。
元文一(1727)年、対岸の備中・下津井四か浦は、塩飽の漁場への入漁船を増やして欲しいと塩飽年寄に次のように願い出ています
塩飽島の儀、御加子浦にて人名株六百五拾人御座候右の者共へ人別に釣御印札壱枚宛遣わせらる筈に御座候由、承り申し候、六百五拾人の内猟師廿艘御座候、残りは作人・商船・大工にて御座候、左候へば御印札六百余も余慶有るべきと存じ候……。
この口上には、塩飽の人名650人の内に、漁師の船は2艘しかない。残りは、商船や大工である。されば人名の漁業権は、600以上あまっているはずだと云っています。
そして、人名の漁業権を保障する「釣御印札」を売って欲しい、あるいは賃貸して欲しいと持ちかけています。ここからは、18世紀になっても人名達の中で、漁業に従事している者は非常に少ないことが分かります。それを対岸の下津井の漁民達は羨望の眼差しでみているような感じです。「漁業権を使わないのなら売ってくれるか貸してくれ」ということのようです。
そして、人名の漁業権を保障する「釣御印札」を売って欲しい、あるいは賃貸して欲しいと持ちかけています。ここからは、18世紀になっても人名達の中で、漁業に従事している者は非常に少ないことが分かります。それを対岸の下津井の漁民達は羨望の眼差しでみているような感じです。「漁業権を使わないのなら売ってくれるか貸してくれ」ということのようです。
それでは、豊かな海はどう利用されていたのでしょうか。
廻船業の衰退と漁業運上
これは「塩飽島中請払勘定帳」で、漁業運上金(入漁料収入)の人名組合の財政収入に占める割合を示したものです。享保年間には、わずか6%だったものが19世紀の天保年間になると約50%、そして幕末の慶応年間になると70%を越える比重になっています。
漁業運上収入(入漁料収入)が、大きく増えた背景は何なのでしょうか。
そこには、塩飽を取り巻く経済状況の変化があったようです。享保期の幕府による廻米政策の転換が引き金でした。これによって、塩飽に繁栄をもたらした廻船業は、急速に衰退します。これは、人名達に大きな打撃を与えます。
明和二(1765)年の次の史料に、当時の塩飽の苦境が記されています。
島々の者 浦稼渡世の儀、先年は回船多く御座候に付、船稼第一に仕り候得共、段々回船減じ候に付、小魚猟仕り候者も御座候。元来小島の儀に御座候得者、島内に渡世仕り難く、男子は十二三歳より他国へ罷り越し、
意訳すると
①島々の人名達は、かつては廻船業で稼ぎも多かった
②最近は、廻船は少なくなり、漁業を生業とする者も出てきた
③小さな島なので仕事がなく男は12、3歳になると他国へ出て行く
このような状況が、人名たちがそれまで見向きもしなかった漁業への進出背景にあったようです。
人名達は、どのようなかたちで漁業に参入したのでしょうか
塩飽の領海では、次の四種類の漁業が行われるようになります。
① 人名による大網(鯛・鰆) 、 `② 人名を中心とした小漁業③ 小坂浦(本島)の手繰漁業④ 下津井四か浦など他領漁民の領海内操業
まず①の人名の大網経営を見ておきましょう。
①は、高級魚の鯛・鰆網漁です。これは何隻もの船や何十人もの労働力が必要な漁法でした。そのため家族経営的な家船漁民が手が出せるものではありません。そこで、人名による入札請負制が行われたようで、有力な人名が落札します。しかし、実際に操業するのは、熟練したよその業者たちが請け負ったようです。人名が落札した物件を、下請け業者にやらせるシステムです。幕末の史料からは落札人として手島の人名・藤井家の名前が見えます。
藤井家に伝えられる「大漁覚帳」からは、人名の網漁経営が分かります。
①漁の期日や番船の手配についてたびたび寄合が開かれた②漁獲物をどのように分配したか
などが詳しく記されています。漁獲物の配分は次のように行われています。
①本方(請負人)は、役魚・本方分を合計した66%②網方(直接操業者)は34%パーセント③本方の40%(全体の26、4%)が番船(監視船)費用
番船は漁場での違法操業者の摘発や、漁獲量のチェックなどを任務としています。番船の監視で漁獲高が正確に把握され、魚一匹まで正確に記録して配分されています。番船は、下請け業者を監視する役割も果たしていたようです。
こうして人名は落札すると自分の手は使わずに、下請けさせるという方法で「漁業に進出」する方法をとるようになります。人名としての特権を、充分に活用していると云えるのかもしれません。そして、入札金は人名組合に入漁料収入として納めます。許可する漁場と網を増やせば増やすほど人名組合の収入は増えます。
幕末の塩飽漁業の問題は?
当時最も高価に取引されたのは鯛・鰆でした。そのため人名達は、この鯛・鰆網の操業の邪魔にならない限りで、その他の入漁を許してきたようです。しかし、幕末になると鯛・鰆網の優先待遇を脅かす動きが出てきます。
① 塩飽人名の新規漁業の出現・発展と、漁業者の増加② 小坂浦漁業の新しい動向と人名漁業との対立③ 他領漁民との紛争、とくに下津井大畠村との相論
廻船業の衰退は、人名達の中から大工や他廻船の乗組員に転職をさせる一方、漁業をほとんど行わなかった人名の浦々にも、一部半農半漁の漁場に従事する者が増えてきたことは、お話した通りです。
嘉永二(1849)年の塩飽の浦別漁船数の総数は811艘ですが、これは百年前と比べると大幅に増加しています。新規参入の入名達が小漁業を始めたことがうかがえます。
問題は新規参入漁民の漁法でした。「打流瀬網漁」という網を使うのが当時の主流でした。
これは袋網の両方に袖網をつけ、風力や潮力を利用して引く底引網の一種のようです。安友5(1858)には塩飽島内で200以上の流し網を行う船があり、その中心は瀬居島と佐柳島でした。そして、この運上金も人名組合の大きな財源になってきます。
そうなると「流瀬網」VS「鯛・鰆網」という漁場での新たな紛争が多発するようになります。
これは「小資本の人名」 VS 「大資本の人名」という構図でもあります。人名間でも両極分解が進み、両者の対立が目に見える形で現れ始めました
寛政七(1795)年には、高見島の鯛網漁場を侵犯したということで、佐柳・高見両浦漁民の間で紛争が起きます。これに対して島中年寄り達は、流瀬網は鯛網代場に入らぬようにとの裁定を下しています。
以上をまとめておきます。
①塩飽には土地以外にも好漁場の漁業権が認められいた。
②人名達はそこで漁業をすることはなく、他地域の漁民から入漁漁をとって資金としていた。
③幕府の廻船政策の変更で、塩飽の優位が崩れる塩飽廻船業は苦境に陥った
④そこで、漁場が見直され、新規に漁業に参入する人名が現れる
⑤資本を持つ人名は、鯛・鰆網漁の操業権を落札し、業者に下請けさせた。
⑥資本を持たない人名は、新漁法である流瀬網漁を行うようになった
⑦流瀬網と鯛・鰆網は操業場所や時期が重なり人名同士の対立も招くようになった。
参考文献 浜近仁史 近世塩飽漁業の諸問題 丸亀市史
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