若き日の小西行長は小豆島や塩飽の領主であったようです。領主として島に「神の王国」を作ろうとし、後には追放された高山右近をこの島に匿ったとイエズス会の宣教師は報告しています。
小西行長と小豆島・直島の関係を探ってみます。
小西行長が秀吉に仕えるまでのことは,よくわかっていません。
一説には,備前・美作(岡山県)を治めていた宇喜多直家に仕えており,直家が羽柴(豊臣)秀吉を通じて織田信長に降伏した際の連絡役を務めていたといわれています。
その後の行長の出世ぶりを年表で見ておきましょう
その後の行長の出世ぶりを年表で見ておきましょう
天正8年(1580)頃 父・隆佐とともに秀吉に重用天正 9年(1581) 播磨室津(兵庫県)で所領を得て天正10年(1582) 小豆島(香川県)の領主となり天正11年(1583) 舟奉行に任命され塩飽も領有天正12年(1584) 紀州雑賀攻めに水軍を率いて参戦,天正13年(1585) 四国制圧の後方支援天正14年(1586) 九州討伐で赤間関(山口県)までの兵糧を輸送した後,平戸(長崎県)に向かい,松浦氏の警固船出動を監督。天正十五年(1587) バテレン禁止令後に高山右近を保護。
年表から分かる通り、行長は室津を得た後に小豆島・塩飽諸島も委せれていたようです。正式文書に、小西行長の名はありません。しかし『肥後国誌』やイエズス会の文献には、小豆島・塩飽の1万石が与えられていたと記します。天正十五年(1587)、秀吉に追放された切支丹大名の高山右近が行長の手で小豆島に匿われたことがイエズス会資料にあるので、塩飽・小豆島が行長の所領であったが分かります。天正10年に、秀吉に仕えるようになってすぐに室津を得て「領主」の地位に就いたようです。そして、小豆島と塩飽と備讃瀬戸の島々を得ていきます。行長が20代前半のことです。
彼の所領を一万石ほどの「小さな島」と考えるのは大間違いです。
小豆島や塩飽は海のハイウエーである瀬戸内海のSAサービスエリアであり、ジャンクションでもあったのです。1万石の領土を任されたと云うよりも東瀬戸内海航路の管理・運営を任されたと考えた方がいいと私は思うようになっています。小西行長が秀吉に仕えるようになって4年、何か大きな戦功があったのかといえば「NO」です。本能寺の変の後、明智光秀や柴田勝家との戦いの中に彼の名前は出てきません。同世代の加藤清正や福島正則が「賤ヶ岳の七本槍」と勇名を馳せるのとは対照的です。長宗我部元親への四国遠征の際にも、後方支援で戦略物資を運んでいた輸送船団の若き司令官にしかすぎません。戦績もない青年将校が、戦略的要地の司令官に抜擢されているようです。先ほど触れた加藤清正は、当時は三千石です。戦場に出ず血を流すことのない主計将校、輜重武官として蔑んでいた行長が自分より秀吉の評価が高いことは、清正には愉快ではなかったはずです。
秀吉はなぜ若い行長を抜擢したのでしょうか
謎をとく一つの手がかりは、行長の父小西隆佐の存在だと研究者は考えているようです。
同じ時期に行われた堺のトップ人事について宣教師フロイスは、次のような書簡をインド管区長に送っています。
「堺市においては切支丹にとって大いに悦ぶべきことが起った。同市の領主(奉行)が関白殿の怒りにふれて職を奪われ、奉行が二人おかれるようになった。代った一人は異教徒で、他の一人は隆佐と称し、切支丹の名をジョウチソという人である」(イエズス会『日本年報』)
このフロイスの書簡のうち「同市の領主が関白殿の怒りにふれ」という部分が、信長以来の堺の代官が秀吉の怒りに触れて罷免され、隆佐が堺の代表者に任命されたと報告しています。この隆佐は行長の父なのです。改めて確認しておくと次のようになります。
①父・隆佐が堺の堺奉行②子・行長が、小豆島・塩飽諸島と室津の領主
これには、人使いのうまい秀吉の思惑があったはずです。朝鮮出兵に向けた野望のために、父子二人を一体として使おうとしたのだと研究者は考えているようです。そのために堺と瀬戸内海交易路の戦略拠点である島と港を父子に与えたというのです。今風に云えば、
父親は通産省の高官に、子は瀬戸内海の運輸省と海上保安庁の地元長官に
同時抜擢した人事処遇ということになるのでしょうか。秀吉はやがて行う九州制圧やその後の朝鮮出兵に向けて、軍兵、兵器、兵糧の海上輸送を行う船団の管理運営できるが人物の育成を行っていました。四国遠征では仙石秀久にその役割をやらせてみたのですが、秀吉の目にはかないませんでした。やはり武士や百姓出身の人間には、船や港や交易のことは分からないようです。そこで、抜擢されたのが堺商人の次男・小西行長だったようです。つまり商人出身の侍なのです。
この時代の行長は、宣教師たちからは「海の司令官」と呼ばれていたようです。
その颯爽とした登場ぶりを史料から見てみましょう
その颯爽とした登場ぶりを史料から見てみましょう
天正13(1585)年の『イエズス会日本年報』
パードレ・フランシスコ・パショが豊後より都に赴く途中にて認めたる書翰
パードレ・フランシスコ・パショが豊後より都に赴く途中にて認めたる書翰
七月六日「我等は佐賀関Sanganoxequiを出発し、12日に塩飽(Xluaquu)に着いた。途中海賊に會はず、風がなかったため常に櫓で進んだ。塩飽に着いて海の司令長官アゴスチニョ(小西行長)が異教徒である当地の殿に書翰を送り、予が到着した時、室までの船をあたえ、大いに飲待せんことを依頼した由を聞いた。アゴスチニョは、また我等が同地を通過する時に泊る宿の主人に、同じ趣旨の書翰を送った。同地には、またアゴスチニョ(行長)の家臣である青年キリシタンが一人居り羽柴筑前殿 (FaxibaChicugendono)(秀吉)の土佐、讃岐、阿波及び伊予の四国に派遣する軍隊を輸送するため、船の準備に塩飽に来た由を語り、アゴスチニョは同地より十レグワの所にて艦隊を待受けてゐる故、もし彼のもとに行かんと欲すれば、その船にて同行すべしと言った。予はこの招待に応じ、日比と称する地に着いたとき、未明に到着するはずである故そこにて彼を待つやう伝えられたた。アゴスチニョは果して、翌早朝多数の船を率ゐて到着し、十字架の旗を多数立てた大船に乗り、同所にゐた貴族達に面会することなく、直にわが船に来り、予をその船に移して大いに歓待した。ついで小舟に乗り、手に杖を待って、兵士を乗船せしめ、船を出航せしめたが、甚だ短き時間に沈着に一切を行った。然る後その船に還り、我等か暫く語った後、予に一艘の軽快な船をあたへ、直に堺に向ふため書翰ならびに兵士をあたえた。
ここからは次のようなことが分かります。
①小西行長が「海の司令長官」と宣教師から呼ばれ、室津を拠点としていた②塩飽は当時は「異教徒の当地の殿」が治めていたこと③行長の家臣が四国遠征準備のために塩飽にやってきていた④十字架旗を立てた船団で日比にやってきた小西行長と歓談した⑤小西行長の準備した快速船で堺に向かった
行長は室津と小豆島の領国を持つ領主であると同時に,秀吉と諸大名を取り結ぶ「取次」として動き,秀吉の命令を伝達するだけでなく,現地の情勢に応じて武将と相談し,秀吉の命令意図を実行できる立場にあった研究者は考えているようです。
四国遠征直前に、部下を塩飽に派遣し船の動員についての打合せを「塩飽代官」と行わしたり、自ら快速船団を率いてあっちこっちを巡回打合せを行う若き「海の司令官」姿がうかがえます。
小豆島でのキリスト教布教は、どのように行われていたか?
翌年の1586(天正十四年)に小豆島での布教の様子が次のように報告されています
パードレが堺より出発する前、アゴスチニョ九郎殿(小西行長)は備前国の前に在って、小豆嶋と称し、多数の住民と坊主が居る嶋に、同所の安全のため2カ所の城を築造することを命じた。彼の最も望むところは、この嶋に聖堂を建築し、大なる十字架を建て、皆キリシタンとなり、我等の主デウスの御名が顕揚されんことであると言う。この嶋は備前に近く、同所より八郎殿の国に入る便宜かある故、同地にパードレー人を派遣せんことを求めた。彼は我等のよい友である故、船二艘を準備し、水夫及び兵士を付してパードレを豊後に送ることとした。パードレは右の希望を聞いてこれに応じ、我等の主のために尽くさんとして、大坂のセミナリョよりパードレー人をさいた。八六年七月二十三日 堺を発し右のパードレを同行して、かの小豆島(堺より四十レグワ=160㎞)の前に到る。牛窓と称し同じくアゴスチニョ(行長)に属する町に彼を残した。右のパードレは同日、Giaoと稀する日本人イルマンと共に出発して小豆島に向った。嶋の司令官であるキリシタンの貴族も同行した。我等の主は、この派遣を大いに祝福し給うた。ビセプロビンシヤルのパードレが今居る長門の下関の港に着いた後一ヵ月半を越えざるうちに、大坂より来た書翰の中に、小豆嶋に留ったパードレの書翰があった。その中につぎに這べることが記してあった。予は備前国の港牛窓においてビセプロビンシヤルのパードレと別れ、その命に従って小豆嶋に赴いた。同所にはキリシタンー人もなく、わが聖教については少しも知らなかった。が、土人に勤めて同伴した日本人イルマンの説教を聴かしむることを始め、第一日には百人を超ゆる聴衆が集まり、彼等の半数以上はよく了解してキリシタンとならんことを望んだ。彼等は、またその聴いたところに驚き、この時まで神仏の事を知らず、盲目であったことを悟り、十人または十二人は諸人の代表として坊主のもとに行き、誠の故の道についことにつき彼等に教ふべきことあらは聞くべく、もしなければキリシタンとなるであらうと言った。坊主等は心中に悲しんだが、答へることができず、無智を自白し、彼等の望むとほりにすべく、自分達もまた聴聞し、もし彼の教に満足したらば彼等と同じくするであらうと言った。この坊主等は直に来ってデウスの教を聴き、満足して五十余人と共にキリシタンとなる決心をした。我等はカテキズモ(教理問答)の説教を受けてこの新しきキリストの敬介を開いた。が、我等の主デウスは、この人達の心中に徐々にに斎座の火を燃やし給ひ、1ケ月に達せざるうち、約一レグワ半(約6㎞)の間に接績してゐた村々において、千四百を超ゆる人達に洗礼を授けた。新しきキリシタン等は大いなる熱心をもって長さ七ブラサを超ゆる立派な十字架をここに建て、神仏は一つも残さず破壊した。また聖堂を建てるため四十ブラサ(約八八㍍)四方の場所を選んだが、その周囲には樹木が繁茂し、地内には梨、無花果及び蜜柑の樹が多数あった。アゴスチヌス(行長)は自費を持って、ここによい聖堂を建て瓦を持ってこれを覆ふ考である。この嶋の人々は甚だ質朴かつ真面目であり、今まで日本において見たうちでキリシタンとなるに最も適したものである。一村においては男女小児が皆改宗してキリシタンとなり、キリシタンとなることを欲しない者が僅か五、六人残っていた。が、我等の主の御許により、悪魔がその一人に憑いて非常に苦しめ、彼を通じて諸人の驚くことを語った。他の五、六人の異教徒はこれを見て、一レグワ余りの道を急いで予が滞在してゐた村に来り、彼等に説教し、悪魔が彼等を苦しむる前に洗礼を授けんことを請うた。よってこれをなしたが、新しきキリシタン等はこれを見て一層信仰を堅うした。
当時の行長の国作りのお手本は、先輩キリシタン大名である高山右近でした。
右近は秀吉からも天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに6万石の領地を与えられ「神の国の地上での実現」をめざしていました。小西行長は、それを見習って国作りを小豆島で行おうとしていたようです。その一端が、イエズス会の立場から描かれています。
右近は秀吉からも天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに6万石の領地を与えられ「神の国の地上での実現」をめざしていました。小西行長は、それを見習って国作りを小豆島で行おうとしていたようです。その一端が、イエズス会の立場から描かれています。
行長の望むところは「この嶋に聖堂を建築し、大なる十字架を建て、皆キリシタンとなり、我等の主デウスの御名が顕揚されんこと」として、どのような布教活動が行われていたかを上記の報告から確認しておきます。
宣教師が派遣されて、布教活動が行われます。
①小豆島の北側対岸の牛窓も行長の所領であったこと②宣教師に「嶋の司令官であるキリシタンの貴族(=代官)」と同行したのは三箇マソショは結城弥平治ジョルジの両説有り③場所は分からないが宣教師による布教活動が行われた③1日目から百人を超ゆる聴衆が集まり、1ケ月で1400人を超える人達が洗礼を受けた④信者は長さ七ブラサを超ゆる立派な十字架を建て、神仏は一つも残さず破壊した。⑤聖堂建設場所が選ばれ、(行長)は瓦葺きの聖堂を建設する予定であった
模範とする高山右近の領地では、2つの相反する宗教政策が行われたことが記録されています。
①右近の領内の寺社記録は「右近が領民にキリスト教への入信強制を行い、さらに 領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、高槻周辺の古い神社仏閣の建物はほとんど残らず、古い仏像の数も少ないという異常な事態に陥った。」と入信強制と神仏破壊が行われたと記録します。
②キリスト教徒側の記述では、あくまで右近は住民や家臣へのキリスト教入信の強制はしなかった。しかし、右近の影響力が大きかったために、領内の住民のほとんどがキリスト教徒となった。そのため廃寺が増え、寺を打ち壊して教会建設の材料としたとします。
どちらにせよ、急速な入信者の増大は、自然発生的なものではないようです。そして、神仏破壊も行われているようです。こうして、小西行長の領地ではキリスト教の布教が領主の支援を受けて行われ、急速な信者獲得が行われ、その成果を誇示するように大きな十字架も建てられたようです。
さて、このときに宣教師たちがやって来て布教を行い十字架が立てられて場所はどこなのでしょうか
まずセスペデスの上陸地の条件は、牛窓との航路があったことです。
福田 家百軒 湊廣シ西風ノ外懸り無之、草加部 家数八十軒 何風ニモ吉大船何程モ懸ル、池田 家百八十四軒 湊内廣シ何肢モ懸ル、土庄 家百八十一軒 舟懸り無之浅シ、渕崎 家九十五軒 入口西ヨり、湊上々何赦モ懸ル、伊木洲江 家百軒 湊悪シ、屋形崎 家三十四軒 舟懸り無之、小海 家三十六軒 是ヨリ備前ノ牛窓へ三リ、大部 家百二十八軒 西風南風懸リ
牛窓に一番近いのは小海です。ここは中世以来の廻船業者が活動する湊で、牛窓との便数も多かったようです。しかし、周辺の人家数や人口が少なすぎます。小豆島の北側にある集落では1400人の人々を集めるのは無理があるようです。
この布教から約160年後の延享三年(1746)の『小豆島九ケ村高反別明細帳」には、宗門改の結果、「転び切支丹類族」が新たに見つかった集落を挙げています
この布教から約160年後の延享三年(1746)の『小豆島九ケ村高反別明細帳」には、宗門改の結果、「転び切支丹類族」が新たに見つかった集落を挙げています
草加部村 54人肥土山村 5人上庄村に 3人渕崎村に 2人
そして、草加部の項目には次のような記事があります。
「尤も以前は池田村、小海村、福田村にも御座侯得ども、死失仕り、只今にては当村ばかりにて御座侯」。
つまり、草加部の他に、池田、小海、福田にも、かつてはキリシタン信者がいた「死失仕り」っていないだけだと記します。単純に考えると、セスペデスの布教活動地はこの四つの村の一つに絞られるのかもしれません。しかし、後にも触れますが秀吉のバテレン禁止令以後、右近の信者たちが小豆島へ「亡命」してきています。その時の神社が隠れ住んだ可能性もありますので確かなことは分かりません
セスペデスが布教を行った場所について考えてみましょう。
①旧約六キロメートル連続した村々がある。②約一か月間に1400人以上がキリシタンとなった。③十五メートル以上の十字架が建てられた。④キリシタソ達によって神仏が一つ残らず破壊された。⑤聖堂を建てるための約88㍍平方の土地がある
⑥行長の支配の中心地に当り、館が築かれていた。
人口面からすれば内海湾に面して苗羽、安田、草壁、西村というような連続した村が続く島で一番の人口密集地帯である草加部村(内海町草壁地区)が有力でしょう。先ほど見た、「転びキリシタン類族」も54人と多く、ここに小豆島で最も大きなキリシタン信徒集団があったことがうかがえます。
天正十五年(1587)の『薩藩旧記後集』にも
室津へ未刻御着船、夫より小西のあたけの大船御覧有、すくに大明神へ御参詣有といへ共、南蛮宗格護故悉廃壌也、身応て御帰宿
と書かれ、小西行長による神社仏閣破壊が室津でも行われていたことが分かります。
そして地元の「草加部ハ幡宮柱伝紀」には、
「いづれの乱世やらんに、長曽我部とやら小西とやらん云う人、小豆島へ渡り来て、いづれの郷の宮殿もみな焼亡す」
とあり、この地区で小西行長による神社仏閣の破壊が行われたことを記します。しかし、これらも「状況証拠」で決定打ではありません。あえて想像するなら内海湾を見下ろす草壁の丘の上に大きな白い十字架が建てられた時代があったかもしれないくらいに留めておきます。
以上を整理すると
①秀吉が長宗我部と戦うために四国遠征軍の準備をしている時に、東瀬戸内海の「海の司令官」は小西行長だった
②彼は室津を拠点に、小豆島、塩飽の1万石の若き領主であり、同時に秀吉と諸大名を取り結ぶ「取次」として瀬戸内海を動いていた。
③行長は高山右近をお手本に、小豆島を「地上の神の国」とすべく宣教師に布教を依頼
④領主の半ば強制で人々は大量入信し、短期間で1400人の洗礼者を獲得した
⑤そのモニュメントとして大きな十字架を建てた。その場所は内海湾周辺が有力である
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 遠藤周作 小西行長伝 鉄の首軛(くびき)関連記事
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tono202
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