小西行長は、関が原の戦いで西軍に味方し戦って破れ、打ち首となります。切腹は自らの命を自らの手で奪う行為なのでキリスト教徒として拒否したようです。
また、行長は肥後北部を領有した加藤清正とライバル関係に描かれます。忠君愛国が尊ばれた戦前には、キリシタンで忠臣清正に対する敵役と描かれたために、非常に人気のない武将だったようです。1980年、宇土城跡に建てられたこの行長の銅像に対しても、「銅像を打ち壊す」「公費の無駄遣い。許せない」といった怒りの声が寄せられたようです。そのため除幕式の翌日から2年近くトタン板で覆われていたといいます。彼がどのように、見られてきたかがうかがえます。
前回は小西行長の「海の司令官」として颯爽と備讃瀬戸をゆく姿や小豆島での「神の王国」作りの様子を見てみました。今回は行長とキリスト教をめぐる情勢を高山右近との関係で見てみようと思います。まずは行長の出自を押さえておきましょう。
堺の小西家とは、どんな家だったのでしょうか
小西家については、家の系譜も分かりませんし、いつ頃から、どのようにして堺に住みついたかも分からないようです。ただ堺の開口神社には、小西家一族が出てくる文書がいくつか残っています。ひとつは天文六年(1537)、石山本願寺が細川勢によって破壊された堺の坊を再建する計画をたてた時に、小西宗左衛門という人物が酒、竹木を整えて、力を貸したため本願寺に招かれたことを記します。
もうひとつはその翌年、この宗左衛門が堺と明との貿易再興に石山本願寺が尽力したことに木屋宗観と、一緒にお礼に訪れています。本願寺は堺から経済的資力を受けていました。小西宗左衛門は、本願寺と堺の関係に重要な役割を果たす会合衆の一人であったようです。
しかし、小西宗左衛門が小西行長と、どういう関係にあるかまでは分かりません。堺には小西と名乗る一門が沢山いたのです。その一族の一人ということにしておきます。
しかし、小西宗左衛門が小西行長と、どういう関係にあるかまでは分かりません。堺には小西と名乗る一門が沢山いたのです。その一族の一人ということにしておきます。
そのひとりが行長の父小西隆佐です。
ザビエルは鹿児島から瀬戸内海を経て都にのぼり、日本での布教許可を得ようとします。その時に、ザビエルは堺の豪商、日比屋了珪に宛てた紹介状を持っていました。そのため、日比屋の案内で京で布教活動の許可嘆願を行う一方で、日本最大の仏教大学のある比叡山に興味を持ち訪問を熱願します。その際に日比屋了珪は、京にいた小西隆佐に紹介状を書いています。その紹介状を持ってきたザビエルを、隆佐は従僕をつけて坂本に案内させています。小西一族が宣教師と接触したのは、これがはじめてになるようです。日本に最初にやって来た宣教師であるザビエルです。そういう意味では、小西家は早い時期に宣教師と接触したことになります。
ザビエルが天文20(1551)に日本を去った後の永禄2年(1559)には、ヴ″レラが豊後から堺にやって来て、京や堺で布教活動を行います。この時には、日比屋了珪の家族と40人の市民たちとが洗礼を受けています。
行長の父隆佐が洗礼を受けたのは、いつ?
シュタイシェソ神父の『キリシタン大名』によると、隆佐は
「行長と共に大坂城で高山右近の感化を受けて改宗した」
と書かれています。そして、フロイスの1569年6月1日付の書簡は、次のように記します。
「隆佐は当地方における最も善良な基督教徒だ」
フロイスは、この4年前の永禄八年(1565)に、松永久秀が将軍足利義輝を殺し、京の宣教師を追放した時に、隆佐によって保護されながら逃れた経験があります。それから3年後には、織田信長に謁見を求めてやってきたフロイスを安土まで送り、知人の家に泊らせ、自分の息子に世話をさせたのもこの隆佐です。
ここからは1565年から69年までの間に、隆佐とその家族たちが受洗したことがうかがえます。行長は1558年頃に生まれたようですから洗礼の時には7~9歳くらいであったことになります。
小西隆佐の受洗の動機は何だったのでしょうか。
遠藤周作は「小西行長伝」で、次のように記します。
我々は日比屋了珪や隆佐一家を必ずしも宗教心に溢れた堺商人だとただちに断言はできぬ。逆に当時の堺商人は現世的で快楽主義者の多かったことは石山本願寺の蓮如上人ものべている
確かにフロイスも、次のように堺商人の快楽主義と不信心ぶりを嘆いています。
「堺に建てられた教会では1ヵ月の間、日夜話をきく者が絶えなかったが、これは他国者で市民ではなかった。市民は傲岸で罪ぶかく神の貴い話を聞く資格はない」
日比屋了珪や隆佐の受洗の動機も最初は、「商人としての金儲け」だったようです。堺商人たちは、南蛮貿易の利益のための改宗を厭わなかったようです。ザビエルを世話した日比屋了珪にしてみれば、次のように考えていたのかも知れません。
「南蛮と堺との貿易をなめらかにするためには、まずおのれたちが受洗することだ」
じれは大友宗麟のように、南蛮船による利をえるため宣教師たちを保護し、自分も洗礼を受けたのと同じ手法です。そして貿易商人は、異人の扱いにも馴れています。
いずれにせよ、この時期に小西隆佐は、妻子と洗礼を受けたようです。しかし、父が功利的な改宗者ならば、子もその父や母に従って受洗したにすぎなかったと考えるのが自然です。その信仰が「本物」になるまでには、幾たびかの「試練」を通過する必要がありました。そのひとつが高山右近との出会いだったのかもしれません。
10年近く経った時の小西行長は、秀吉から備讃瀬戸航路海域の支配を任された「海の司令官」に成長していました。
行長の快速船団には十字架旗が掲げられ、領地小豆島に「神の国」の建設を進めていたのは前回見た通りです。ある意味、秀吉の野望と行長の出世と信仰が相反することなく、人生のベクトルが一つの方向を向いていた幸せな時代だったのかもしれません。九州への遠征も島津に苦しめられるキリシタン大名を救う「聖戦」と信じることができた頃です。
天正15(1587)年に、秀吉は大軍を九州に送り込みます。
行長の快速船団には十字架旗が掲げられ、領地小豆島に「神の国」の建設を進めていたのは前回見た通りです。ある意味、秀吉の野望と行長の出世と信仰が相反することなく、人生のベクトルが一つの方向を向いていた幸せな時代だったのかもしれません。九州への遠征も島津に苦しめられるキリシタン大名を救う「聖戦」と信じることができた頃です。
天正15(1587)年に、秀吉は大軍を九州に送り込みます。
島津に突きつけた九州和平案の条件に応じなかったためと云いますが、そんなことは口実です。
「太刀も刀もいらず、手つかまえたるべく候」
と秀吉は豪語しています。四国制圧の時と同じく、秀吉軍と九州の領主達の間には、大きな軍事力の格差が生まれていました。秀吉の心の中には、島津攻略は二の次だったかもしれません。この作戦の裏の狙いは、やがて行う大陸侵攻の兵糧の調達や整備演習で、朝鮮侵攻基地としての博多の再興にあると秀吉は考えていた節があります。
九州討伐作戦は小西父子にとって、その能力を秀吉から問われた戦いでした。
彼ら親子は、秀吉が自分たちを引きたててきたのは一族の持つ水上輸送力と財務能力と、そして堺という貿易都市を背景にした財力によるものであることをよく分かっていました。水上輸送力があるゆえに行長は、瀬戸内海諸島の管理権を与えられ、四国、九州作戦に兵站責任者に登用されているのです。財務能力と堺をバックに持つゆえに隆佐は大坂城のブレインに昇進し、堺奉行に抜擢されたのです。まさに九州遠征は、小西家の力を見せるチャンスです。その成功の向こうに、さらなる飛躍があると信じていたでしょう。
彼ら親子は、秀吉が自分たちを引きたててきたのは一族の持つ水上輸送力と財務能力と、そして堺という貿易都市を背景にした財力によるものであることをよく分かっていました。水上輸送力があるゆえに行長は、瀬戸内海諸島の管理権を与えられ、四国、九州作戦に兵站責任者に登用されているのです。財務能力と堺をバックに持つゆえに隆佐は大坂城のブレインに昇進し、堺奉行に抜擢されたのです。まさに九州遠征は、小西家の力を見せるチャンスです。その成功の向こうに、さらなる飛躍があると信じていたでしょう。
そして、大量の兵糧や馬糧など戦略物資の畿内からの後方輸送の任務に就きます。前年に、軍勢30万人分の兵糧米と2万頭分の兵車とが集められます。島津征伐だけには多すぎる量です。これは次の朝鮮出兵の準備であり、その調達には畿内の豪商が動員されます。
堺奉行の小西隆佐も石田三成、大谷吉継たちとともに、前代未聞の大作戦に必要な軍需品や兵糧の補給に当たります。隆佐たちが集めたこのおびただしい兵糧や軍需品は兵庫、尼崎から瀬戸内海をへて赤間関(下関)まで船で輸送されました。その指揮を行ったのが行長です。文字通り父子一体となって大輸送作戦の立役者として働きます。本能寺の変以後の秀吉陣中において、華々しい功をたてるチャンスのなかった若き輜重隊長に活躍の場が与えられたのです。 行長領となっていた小豆島や塩飽にも船や水夫の動員令が出たはずです。
塩飽諸島に宮本、吉田、妹尾、小豆島には寒川氏、直島には 高原氏
などの水軍衆がいたはずです。彼らがどのような動きをしたのか史料には伝わっていません。
秀吉は行長が使い物になると見るや、兵站輸送以外にも次々と新しい仕事を与えます。
まず朝鮮出兵のための玄海灘渡航計画の立案と、対馬の宗氏に朝鮮国王の朝貢を交渉させる任務です。行長がこうした特殊任務を秀吉から命ぜられたのは、秀吉家臣団の中で最も朝鮮通と見なされていたからだと研究者は考えているようです。
もともと小西家は堺の薬種問屋と言われています。朝鮮人参をはじめとする高価な薬草の多くは朝鮮から仕入れたものでした。そのため小西家の持船が朝鮮に渡航し、言葉にも通じていた可能性もあります。そういう意味では隆佐や行長が当時の日本人のなかでは朝鮮について一番、知識を持っていたのかもしれません。また、切支丹である彼は秀吉の命をうけ、大村、有馬の領主と接触しています。そして同じ信仰を持つ領主たちの説得に当っています。こうして九州作戦は、わずか二ヵ月で終ります。秀吉は6月7日には、博多に凱旋します。
そして6月19日、秀吉はバテレン追放令を突然に出します。
『吉利支丹伴天連追放令』原文
定
1 日本ハ神國たる處、きりしたん國より邪法を授候儀、太以不可然候事。2 其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候。國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候。天下よりの御法度を相守諸事可得其意處、下々として猥義曲事事。3 伴天連其智恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候ヘバ、如右日域之佛法を相破事前事候條、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間二用意仕可歸國候。其中に下々伴天連儀に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事。4 黑船(貿易船)之儀ハ商買之事候間、各別に候之條、年月を經諸事賣買いたすへき事。5 自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候條、可成其意事。已上天正十五年六月十九日 朱印
(意訳)
1 日本は自らの神々によって護られている国であるのに、キリスト教の国から邪法をさずけることは、まったくもってけしからんことである。2 (大名が)その土地の人間を教えに近づけて信者にし、寺社を壊させるなど聞いたことがない。(秀吉が)諸国の大名に領地を治めさせているのは一時的なことである。天下からの法律を守り、さまざまなことをその通りにすべきなのに、いいかげんな態度でそれをしないのはけしからん。3 キリスト教宣教師はその知恵によって、人々の自由意志に任せて信者にしていると思っていたのに、前に書いたとおり日本の仏法を破っている。日本にキリスト教宣教師を置いておくことはできないので、今日から20日間で支度してキリスト教の国に帰りなさい。キリスト教宣教師であるのに自分は違うと言い張る者がいれば、けしからんことだ。4 貿易船は商売をしにきているのだから、これとは別のことなので、今後も商売を続けること。5 いまから後は、仏法を妨げるのでなければ、商人でなくとも、いつでもキリスト教徒の国から往復するのは問題ないので、それは許可する。
第2条で、大名がキリスト教を強制すること、寺社を破壊することが禁止されています。「権力者が禁止令をだすのは、現実にその行為が行われていた」というセオリーが適応されます。キリシタン大名の支配地ではキリスト教強制が行われていたようです。
3条で宣教師に対しては20日以内の国外退去を求めています。しかし、次の条では宣教師は追放するが黒船(貿易船)はウエルカムよ、貿易は今まで通り続けましょうと云います。宣教師には腕を振り上げて威嚇した後、商人に対しては笑顔で迎えているような印象です。商売と宗教は別ですから、今後も宜しくという内容に読み取れます。
この文書の補足として口頭で以下のことが周知されたようです。
①この禁止令に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰する②大名によるキリスト教への強制改宗は禁止するものの、民衆が個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは自由③大名が信徒となるのも秀吉の許可があれば可能
この①②の補足を見れば、事実上の信仰の自由を保障する内容のようにも思えてきます。 この内容からキリスト教徒追放令ではなく、バテレン追放令なのです。 バテレンとは、ポルトガル語で「神父」padreです。国外追放されるのはキリスト教徒でなく、宣教師たちなのです。江戸時代のキリスト教禁止令とは大きく違う内容です。
バテレン追放令で秀吉がねらったキリシタン大名は誰?
フロイスによれば秀吉は全切支丹に棄教するよう強制し、拒否する場合は宣教師と共に国外に追放すると威嚇したといいます。しかし、実際には黒田官兵衛や小西行長には教えを棄てるようにしむけることはありませんでした。宣教師の国外追放と同時に、この追放令には秀吉のもう一つの狙いがあったと研究者は考えているようです。
フロイスによれば秀吉は全切支丹に棄教するよう強制し、拒否する場合は宣教師と共に国外に追放すると威嚇したといいます。しかし、実際には黒田官兵衛や小西行長には教えを棄てるようにしむけることはありませんでした。宣教師の国外追放と同時に、この追放令には秀吉のもう一つの狙いがあったと研究者は考えているようです。
秀吉は、利益になることと不利益になることの区別は、冷徹に計算した上で手を打っています。この中には、キリシタン大名を分断し、ある大名を孤立化させる内容が忍び込ませてありました。それは高山右近です。
右近への厳しい対応の背景は?
右近への厳しい対応の背景は?
キリスト教禁止を行えば宣教師たちが九州のキリシタン領主たちが手を組んで建ち上がり、反抗的姿勢を示すかもしれぬという恐れを秀吉は考えていたはずです。実際に、追放令後に今後の対応を考えるために平戸に集まった宣教師の一部から「日本占領計画」が提案されています。その際には、高山右近が最も頼りとなる人物であり、反乱の中心に担ぎ上げられる存在になる可能性が高い人物でした。なぜなら秀吉から見れば、右近だけが利害得失を離れて宣教師の味方となる人間であったからです。右近は「危険なる存在」だったのです。権力者にとって、危険をはらむ存在(仮想敵)は早く取り除かなければなりません。逆に云えば蒲生や黒田や行長は右近にくらべ「危険なる人物」と秀吉は考えていなかったことになります。
追放令に小西行長は、どのように対応したのでしょうか?
行長は黒田孝高や蒲生氏郷だちと同じように翌日には、秀吉に妥協しています。その理由は、布告のなかの次の2項目の解釈です
①百姓たちの切支丹信仰は自由だが、それ以上の者は許しを求めねばならぬ②領主たるものは切支丹信仰を領民に強制してはならぬ
という項目があったからです。つまり、この二項目を守る限り、自分たちの信仰は認められる解釈できるのです。その後の動きを見ると
①蒲生氏郷はその後、棄教②行長は、フスタ船で眠っている宣教師を秀吉に引き渡し
という行為が見られます。秀吉の威嚇の前には屈服しているのです。
それに対して、高山右近は、どんな対応をとったのでしょうか
関白の使者の詰問を受けた右近は、ためらうことなく
「信仰は棄てぬ。領地は秀吉に還す」
という回答をします。秀吉は、この返答を予想していなかったようで、翻心して自分に仕えるよう再度の説得の使いを送ります。妥協案として明石領は没収するが、肥後に国替えを命ぜられた佐々成政に帰属するよう提案します。しかし、右近は考えを曲げなかったようです。
彼は、9年前の荒木村重事件を経験しています。
荒木村重に従っていた右近は、村重の信長への反乱という事件にあいます。キリスト教を保護する信長と、主人の村重への義理との間に苦しんだ結果、領主としての地位を棄て、僧侶のように信仰のみに生きようとして家臣団に別れを告げた経験があります。その苦しい思いを味わった右近は、二度と権力者の道具、一つの歯車になることはならないと心に誓っていたのだと思います。彼の信仰は「本物」になっていたのです。
翌朝、右近は家臣たちに自らの決意を述べて去って行きます。
「余の一身に関しては、いささかも遺憾に思うことはない。汝等にたいする愛ゆえにのみ、悲哀と心痛をおぼえるばかりである。余は汝等が余のために戦いにおいて共々、うち勝ってきた大きな危険に生命を賭したことを忘れず、その功に報いたいと望んでいる。にもかかわらず現状では汝等は余の手から現世の報いはできぬから、限りなく慈悲ぶかいデウスが、その栄光の御国において永遠、完全なる報いを汝等に厚く与えることを信じている。(中略)家臣たちはこの言葉に号泣し髪を切って共に追放の苦しみを味わいたいと誓った。右近はただ三、四人の者だけを連れていくことを明らかにした。」(プレネステーノ「ローマーイェズス会文書」)。
右近は明石の領地を信仰のためすべて棄てたのです。
小西行長との違いは明らかです。秀吉のバテレン追放令は、キリシタン大名の信仰をためされる「踏絵」でもあったようです。そして、秀吉が差し出した踏絵を前にして敢然と首をふったのは右近だけだったのです。秀吉の読み通りでした。
小西行長との違いは明らかです。秀吉のバテレン追放令は、キリシタン大名の信仰をためされる「踏絵」でもあったようです。そして、秀吉が差し出した踏絵を前にして敢然と首をふったのは右近だけだったのです。秀吉の読み通りでした。
兄のように尊敬してきた高山右近のとった行動を見て、小西行長はどう感じたのでしょうか?
誰もが一度は自分のとった行為を正当化します。しかし、右近の烈しい信仰を見て、それができぬ自分にうしろめたさと恥ずかしさとを同時に感じたのではないでしょうか。その良心の補償のためにも右近を保護せねばならぬと思うようになったのではないかと遠藤周作は小説の中で、語ります。
右近が博多湾上の孤島に移り、それから瀬戸内海の淡路島に逃れることができたのは、おそらく小西行長のひそかな援助があったからでしょう。前回にも述べた通り、行長は「海の司令官」として、瀬戸内海航路の管理者でしたから管理下にある船に高山右近を潜ませることは簡単であったはずです。堺に帰還する行長の船に、同船させたかもしれません。
高山右近が追放された今、宣教師たちの頼みの綱は行長です。
京にいた前日本副管区長のオルガンテーノは、大坂や堺などの畿内の宣教師に行長の所領である播州の室津に集まるよう呼びかけます。行長の保護がほしかったのでしょう。しかし、行長は動きません。フロイスは
「行長は宣教師たちに冷たかった」
と書いています。
当時の行長の心境を遠藤周作は次のように描きます。
「行長は怯えていた。彼の信仰は今までたびたびくりかえしたように真実、心の底に根をおろしたものではなかった。六月十九日の夜、蒲生氏郷などと共に関白の威嚇に屈服した彼は今、自分も右近と同じ運命をたどることがこわかったのである。そのくせ彼は毅然たる右近の勇気ある信仰者に転び者が殉教者に感じたようなうしろめたさと恥ずかしさを感じていた。そのくせ自分の領地である室津に宣教師が集結することを怖れ、これ以上、宣教師たちの悲劇に巻きこまれたくなかったのだ。」
集結した近畿の宣教師たちの退去を求めて室津にやってきた行長に対して、オルガンティーノは日本に留まることを主張します。行長とオルガンティーノの間で烈しいやりとりがなされたようです。そして、
「行長は連れてきた結城弥平次ジョルジと三時間、一室にとじこもった」
と宣教師の報告書は記します。
三時間の間に、この二人が語りあったことは何だったのでしょうか
後の行長の行動を追うと分かってきます。それは秀吉の眼をかすめ、秀吉をだまし、いかにオルガンティーノを自分の領内にかくし、信徒たちをひそかに助けるか、その経済的援助はどうするかを彼等は話し合ったと遠藤周作は考えているようです。
このような時に、淡路島に隠れていた高山右近は、行長の家臣・三箇マンショと室津にやってきます。右近の登場でそれまでの雰囲気は激変します。右近は行長たちに向って、
このような時に、淡路島に隠れていた高山右近は、行長の家臣・三箇マンショと室津にやってきます。右近の登場でそれまでの雰囲気は激変します。右近は行長たちに向って、
「我々が今日まで行ってきた数々の戦争がいかに無意味なものであったか、そして今後、行う心の戦いこそ苦しいが、最も尊い戦いなのだと熱意をこめて語った。それは地上の軍人から神の軍人に変った右近の宣言であり、彼は今後、どんな権力者にも仕えない」
と誓ったといいます。
こうして行長と右近たちは協議して次のことを決めます。
①オルガンティーノと右近を小豆島にかくすこと②神父と右近とは二里はなれて別々に住むが、万一の場合はこの室津に近い結城弥平次の新知行地に逃げること
これは行長にとっては危険な行為です。国外退去命令の出た宣教師を自領の小豆島にかくまい、その援助をするのは明らかに秀吉にたいする裏切です。しかし考えて見ればこれは、堺商人が権力者にとってきた処世術かもしれません。表では従うとみせて、裏ではおのれの心はゆずらぬという商人の生き方です。関白に屈従しているとみせかけて、巧みにだますこと。これがこれからの行長の生きる姿勢になります。
室津でこような「会議」が開かれたのは天正十五年(1587)の陰暦6月下旬から7月上旬であったようです。行長の成長には、バテレン追放令と高山右近の犠牲とが必要だったようです。
室津は瀬戸内海の湊として、多くの人たちが利用してきました。法然上図には女郎とのやりとりが描かれています。しかし、行長をしのぶものは何もありません。室津は、行長にとって「魂の転機」となった場所だと遠藤周作は云います。
小豆島に潜伏した、右近やオルガンティーノの動向は?
オルガンチーノ神父が、長崎などの司祭・修道士に宛てた書簡には次のように記されます
「我ら(他にコスメ修道士、同宿のレアン)が今いる所は、誰もいない一軒家で、他の家々からは 小銃の一射程距離ほど離れており、四方山のほかは見えず、外からは誰一人来ませんでした。この島の住民はきわめて素朴で、アゴスチーノ(小西行長)が当地に置いております隊長に、万事において従っています。この隊長は、非常に善良なキリシタンで、我らが発見されないように、最大の注意を払っております。三名のキリシタンが、我らの居所を知っているだけで、彼らが必需品を届けてくれるのです。」
また、髙山右近一家(妻子)の住まいについては、
①オルガンチーノ神父たちの住まいからは「2レグア」 (8km) の距離にあって、②右近は時々単身で 訪ねて来て、2,3日泊まって、語り合いの時を持ったと
記します。続けて
「右近は剃髪して迫害と窮乏の中に妻子と共に、 つつましく暮らしており、そして 歓喜に満ちて、何事もなかった如く見える。右近は、日本では戦争で領地を失い・殺され、あるいは死に至る者が少なくないのに、彼らに比し、自分はイエズス・キリストを愛するために 領地を失ったのであって、大いに喜ぶべきことであると語り、日々信仰心を増し、一切をデウスに任せ奉り、デウスのため 生命を失う準備を進めている。こうして、関白の権威に屈せず、何ものをも怖れず、暴君 および 悪魔に対し、光栄ある勝利をおさめた。」( 1587年 ・ 年報 )
と、右近の近況と信仰心の成長を伝えています。
髙山右近が 潜伏した場所は、どこなのでしょうか?
小豆島の郷土史家は
①右近潜伏地を中山②オルガンチノ潜伏地を肥土山
前回、行長が宣教師を連れてきて半ば「強制改宗」を行い、1ヶ月で1400人の洗礼を行った場所が内海湾一帯の草壁地区と推測しました。さらに隠れ場を
「今いる所は、誰もいない一軒家で、他の家々からは 小銃の一射程距離ほど離れており、四方山のほかは見えず、外からは誰一人来ません」
とあるので、海が見えない山の中の孤立した所のようです。そうだとすれば、中山や肥土山はぴったりのロケーションです。ここには、千枚田や農村歌舞伎小屋があり今は観光客も訪れるようになりましたが、隠れ家を置くには最適です。
ところで、小豆島は彼ら以外にも多くの亡命者を受けいれた節があります
それは右近の明石領内のキリシタンたちです。彼らに、右近追放の一報が明石に届いたのは追放令から数日後の1587年の7月末だったようです。留守を預かっていた右近の父・飛騨守と弟太郎右衛門は、右近が棄教せず毅然として一浪人の道を選んだことを知って、嘆くどころか、胸を張ってほめたたえたといいます。
「師よ、喜ばれよ。天の君に対する罪で領国を失ったのならば、われらも等しく名誉を失うが、棄教しなかったためであるなら、大いに喜ぶべきこと。少なからず名誉なこと」
と、むしろ満足気にさえ見えたと伝えます。しかし、2000人近くもいた明石のキリシタン領民や家臣の家族らにとって即刻領地を退去せよとの知らせは、酷なものでした。行く当てもなく、仮に頼る先があったとしても荷物を運ぶ手押し車も小舟もなく
「真夜中まで街中を駆け回るありさま」
だったといいます。右近の一族や重臣の中には、右近と共に行長の支配する小豆島や塩飽に「亡命」した者がいたのではないかと私は考えています。つまり、当時の小豆島には
①行長による強制改宗による地元信者②明石やその他からの亡命信者③右近やオルガンティーノのような要人信者
の3種類の信者たちがいたことをここでは押さえておきます。
右近等が小豆島に潜伏したのもつかの間、翌年の天正16年(1588)、小西行長は秀吉によって小豆島から肥後南部の宇土(現在の熊本県宇土市)・24万石に転封されます。秀吉が肥後の北半国、二十六万石の領主としたのが加藤清正です。清正が陸戦将校ならば、行長はは軸重、輸送の輸送隊長で後方支援部隊の責任者です。
秀吉の頭にあったのは、朝鮮出兵でしょう。
秀吉の頭にあったのは、朝鮮出兵でしょう。
おびただしい兵力、兵糧を海をこえて朝鮮に運ぶ必要がある。そのためにも行長を肥後の南半国におくのは悪くない。しかも、天草の切支丹国衆たちを抑えるには、同じ信仰者の者がいい。そしてライバル意識を持つ清正と競い合わせる。一挙三得じゃ」
という感じでしょうか。こうして、同年輩の水と油のようにあい合わぬ二人の若者が肥後という国を背中合わせに支配することになります。
小豆島1万石から宇土24万石への破格の抜擢の意味を行長は分かっていたはずです。
喜びと云うよりも、当惑の方が大きかったのではないでしょうか。秀吉の野心の道具として、朝鮮出兵を仕切る立場に立たされたのです。かつての行長なら嬉々としてうけたでしょう。しかし、バテレン追放令の高山右近の生き様を間近に見た今は違います。そして、今は秀吉を裏切り、右近を小豆島に匿っているのですから・・・。
この頃は讃岐では、毛利・島津に備えての瀬戸内海防備ライン整備の一貫として、秀吉に命じられた生駒親正が高松城の築城に着手した頃です。行長の転封に従って、高山右近も九州・宇土に向かいます。しかし、右近は間もなく加賀金沢城主の前田利家に客将と1万5千石の扶持で迎えられます。行長の心の重荷の一つが下ろされたのかもしれません。
この後に展開される朝鮮出兵で、交渉を任された行長が秀吉に偽って明と和平講和を結ぼうとするのは、秀吉に対するある意味での裏切りです。しかし、それは心理的には右近を小豆島に隠したときから始まっていたのかもしれません。
秀吉亡き後の関ヶ原の合戦では、行長は豊臣側につき捕らえられます。
この時、行長はキリシタンであることを理由に切腹を拒否します。そして戦犯として恵瓊とともに京の六条河原で斬首されます。享年42歳とされます。この死に様に、キリスト教徒としての成長を私は感じます。
この時、行長はキリシタンであることを理由に切腹を拒否します。そして戦犯として恵瓊とともに京の六条河原で斬首されます。享年42歳とされます。この死に様に、キリスト教徒としての成長を私は感じます。
最後に小西行長の後の小豆島を見ておきましょう。
行長の宇土転封後に、代わって小豆島の支配者となったのはの、片桐且元(かたぎりかつも)です。 彼は柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで福島正則や加藤清正らと共に活躍し、一番槍の功を認められて賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられた人物です。この時、秀吉から戦功を賞されて摂津で三千石を与えられるようになります。
以後奉行として活躍し、道作奉行としての宿泊地や街道整備などの兵站に関わっています。天正15年(1587年)の九州遠征では、小西行長とともに後方支援を担当し、主に軍船調達に関わっていたようです。武闘派のように思われがちですが、実務的な仕事もできるタイプの武将だったようです。そのためこの頃から実施されるようになった検地の責任者として各地の検地帳に名前を残しているようです。彼の下では、バテレン追放令は、有名無実化していましたからキリスト教信者への組織的な弾圧があったとは思われません。
その後江戸幕府の天領となると宗門改が厳しくなります。
①元和元年(1615)長崎奉行兼堺奉行の長谷川佐兵衛藤広、②元和4年(1618)に伏見奉行の小掘政一(遠州)③正保4年(1647)から幕府の直轄地
彼らの下で、次第に宗門改が厳しく行われるようになります。
特に寛永7年(1630)の小掘遠州の時には、かなりの信者が捕らえられ、転宗させられたようです。小掘遠州は、茶人、造園家としてよく知られていますが、実務的な官僚でもあり宗門改にも真面目にとりくんだようです。そのため小西行長の時代から根を下ろしていたキリスト教信者が踏絵を踏まされ、あぶり出され改宗を迫られたようです。
特に寛永7年(1630)の小掘遠州の時には、かなりの信者が捕らえられ、転宗させられたようです。小掘遠州は、茶人、造園家としてよく知られていますが、実務的な官僚でもあり宗門改にも真面目にとりくんだようです。そのため小西行長の時代から根を下ろしていたキリスト教信者が踏絵を踏まされ、あぶり出され改宗を迫られたようです。
それでも、小豆島では以後もかなりの人数の隠れキリシタンがいたのではないかと云われます。それを裏付けるように、隠れキリシタンのものではないかと云われる墓が多く残っています。見る場所によっては十字架に見えるというのです。その多くは、旧家や旧庄屋のものです。有力者が信者であったことを示すもので、高山右近時代の「亡命信者」の子孫たちだったのかもしれません・彼らは、寺社奉行の管轄であるため治外法権となる寺の境内や、屋敷の中に囲いを作って墓を祀っていたようです。今も、屋根を横から見ると十字に見える墓や、小さく十字が刻まれた墓などが、各所にあります。
また、寛永14年(1637)、九州で島原の乱が起きます。
この乱と小豆島とはいろいろな形で結ばれていたようです。この乱は、島原藩の肥前島原半島と、唐津藩の肥後天草諸島の農民をはじめとするキリシタンたちが起こした反乱ですが、天草は小西行長が小豆島から転封された領地です。そのため、行長の家臣だった多くのキリシタン浪人が乱には参加していたとされます。乱の指導者・天草四郎時貞の父も行長の家臣の一人だったと云うのです。
この乱と小豆島とはいろいろな形で結ばれていたようです。この乱は、島原藩の肥前島原半島と、唐津藩の肥後天草諸島の農民をはじめとするキリシタンたちが起こした反乱ですが、天草は小西行長が小豆島から転封された領地です。そのため、行長の家臣だった多くのキリシタン浪人が乱には参加していたとされます。乱の指導者・天草四郎時貞の父も行長の家臣の一人だったと云うのです。
この乱は、翌年の寛永15年(1638)に、原城が陥落して鎮圧されます。その時に篭城の3万7千人が全滅しました。この中の多くは農民で、耕作者を失った島原半島南部は荒廃しす。そこで、幕府は農民移住政策をとり、全国から農民を移住させ復興を図ることにします。天領である小豆島にも移住者を出すことが求められます。そのため、小豆島から島原半島南部一帯に多くの人たちが移住しています。移住者の決定に当たっては
①坂手庄屋高橋次右衛門のようにくじ引きで移住した者②生活困窮のため自ら進んで移住した者
などがいたようですが「公儀百姓」として集団移住した家は、内海町田浦、坂手、池田町中山、土庄町笠ヶ滝など1000軒以上もあったようです。
その後も移住元と移住先という小豆島と天草地方の関係はその後も長く続きます。
例えば以前にも紹介しましたが、マルキン醤油の持ち舟の弁財船は、瀬戸内海を抜けて天草まで下り交易活動を行っています。その際に船が出て行くときには、島の塩や素麺・醤油を積んで、帰路航路には小麦や鰯かすなどの肥料が積まれています。丸金醤油は小豆島からの移住者たちを相手に、塩や素麺・醤油を売り、その帰路には原料の小麦を買って帰っていたようです。
例えば以前にも紹介しましたが、マルキン醤油の持ち舟の弁財船は、瀬戸内海を抜けて天草まで下り交易活動を行っています。その際に船が出て行くときには、島の塩や素麺・醤油を積んで、帰路航路には小麦や鰯かすなどの肥料が積まれています。丸金醤油は小豆島からの移住者たちを相手に、塩や素麺・醤油を売り、その帰路には原料の小麦を買って帰っていたようです。
長くなりましたがおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 遠藤周作 鉄の首枷 - 小西行長伝
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