海賊禁止令以後に行き場をなくした海賊たちが、家船(えふね)漁民の祖先ではないかというストーリーを以前にお話ししました。それに対して、小早川氏の中世以来の海賊対策に、家船漁民たちの問題はあると考える研究者もいます。この家が12世紀の終り以来、芸予地方にいたことが、大きな爪跡を残しているというのです。今回は「家船漁民=小早川氏原因説」を追いかけて見ようと思います。
まず、小早川氏について押さえておきます。
小早川氏は毛利元親の息子隆景が養子に入って、大きな活躍をするようになりますが、元々は関東からやって来た「東遷御家人」です。その先祖を土肥実平と云い伊豆の土肥を出身地とした武士です。そのまえは平良文から出ているようです。その子孫の実平は、はじめ土肥郷にいましたが、源平戦の功によって、その北の相模の早川荘を与えられます。そして、その子の遠平(とおひら)の時に、安芸国沼田荘の地頭となって関東から下って来たようです。安芸では小早川を名乗るようになります。ここまでの「経歴」を見ても分かるように、もともとは海に縁のない家です。
この家が芸予諸島の島々に進出するようになったのは、
沼田新荘の住人が海賊をはたらいたのを討伐したのがきっかけのようです。建保年間(1221年)の頃のことなので、安芸にやってきて土地勘や武士相互の人間関係にも不慣れな時に、海に出て行き「海賊討伐」を行うのは大変です。まず、一族には船を操船する者がいなかったでしょう。漁民か商船の船人をやとわなければなりません。そこから小早川氏のとった対応は、船を提供する漁民や商人には特権を与えて保護するけれども、海賊系の漁民に対しては冷くあたったと研究者は考えているようです。さらに、広島県下の漁民で周囲からいちだん低く見られたものの多くは、小早川氏に抵抗した系統の家ではないかとも云います。このような「差別」は、伊予側の漁村には見られないようです。
沼田新荘の住人が海賊をはたらいたのを討伐したのがきっかけのようです。建保年間(1221年)の頃のことなので、安芸にやってきて土地勘や武士相互の人間関係にも不慣れな時に、海に出て行き「海賊討伐」を行うのは大変です。まず、一族には船を操船する者がいなかったでしょう。漁民か商船の船人をやとわなければなりません。そこから小早川氏のとった対応は、船を提供する漁民や商人には特権を与えて保護するけれども、海賊系の漁民に対しては冷くあたったと研究者は考えているようです。さらに、広島県下の漁民で周囲からいちだん低く見られたものの多くは、小早川氏に抵抗した系統の家ではないかとも云います。このような「差別」は、伊予側の漁村には見られないようです。
なぜそのようになったのかを史料的に「証明」することはできないようですが、状況証拠として小早川氏の漁民分断政策が大きく影響しているのではないかという「仮説」を出します。
小早川氏は、五代目の朝平も14世紀前半に海賊討伐で幕府から報償されています。芸予の「海賊」たちにとっては「嫌な家」という感じだったようです。といっても、中世の海賊と武士とは表裏一体です。小早川氏の領内にも、海賊は多かったようです。
何度も取り上げますが応永二七(1420)年に、室町幕府の将軍に会うためにやってきた李朝儒家・老松堂の『日本行録』にも、渡子島・蒲刈・高崎など、小早川の領内で海賊に逢っています。どうも鎮圧しきれい状況だったようです。しかし、権威に従わない漁村に対しては、たえず圧迫は加えていたようで、他の浦に与えたような特権は与えずに冷遇していたようです。
のちの広島藩には、玖波・江波・仁保島、向洋・長浜などに、特権を持った漁民がでてきます。特権を持ち保護された漁村は本浦として水夫浦として藩の勤めを果たし、それ以外の浦は藩との結びつきが弱かったようです。後者には、二つのグループがあって、
一つは近世に入ってから漁業をはじめたもので釣浦に多い。一つは近世以前からの家船漁民で「海上漂泊」者です
このような状況証拠から、海賊鎮圧の役をおびた小早川氏からにらまれているような浦が差別視されたのではないかという「仮説」が出てくるようです。
もう一度整理して、さらに時間を進めます
①小早川氏は武力をもっているけれども船の操作には弱い。②そこで漁民を軍船の水夫として使用し、協力的な浦には特権を与え水夫浦とする。③小早川氏の正和三(1224)年と元応元(1319)年の海賊討伐は伊予の海賊であった④この頃から伊予の海賊との間に敵対関係を生じた⑤承久の変の功績で、竹原荘の地頭として海岸に進出する⑥その結果、康永元(1342)年頃から「海への進出」が始まる
「小早川家文書」からその進出過程を見てみましょう。
①生口島への進出、おなじ年にさらに因島へ②翌年には伊予・弓削島を押領。③さらに越智大島から大崎上島・佐木島・高根島・大崎下島にまで勢力をのばす
こうして芸予諸島を支配下に置くようになると、小早川氏自体が水軍的性格(海賊的?)を持つようになってきます。そして生口島を領有した小早川惟平は朝鮮貿易に参入し、その名は高麗にまで知られるようになります。
小早川氏と漂泊漁民について
小早川氏から圧迫を受ける立場になった漁民は、はじめは芸予諸島の島々にいたようです。水軍力がなかった頃の小早川氏にとっては、攻めて行くにもいけなかったでしょう。海賊行為を働いた村上・多賀谷・桑原氏などの拠点は、どの勢力も島にありました。
![村上水軍と海賊停止令 | けいきちゃんのブログ](https://stat.ameba.jp/user_images/20171002/06/tokukeiki/0c/22/j/o0640036814039828681.jpg?caw=800)
![村上水軍と海賊停止令 | けいきちゃんのブログ](https://stat.ameba.jp/user_images/20171002/06/tokukeiki/0c/22/j/o0640036814039828681.jpg?caw=800)
ところが豊臣秀吉の海賊鎮圧政策によって、これらの海賊は芸予諸島の島々から姿を消してしまいます。
それは討伐によって、全滅したためではないようです。そこで行われたのは、島にいた漁民たちの本土への強制移住だったと研究者は考えているようです。以前紹介した家船漁民の拠点である三原市能地なども、その「強制移住先」だというのです。能地だけでなく竹原市二窓・豊田郡吉名村・同郡川尻町・呉市長浜などは、近世以前は小さな漁村でしたが、近世に入って急に大きくなったようです。それは島の「海賊」たちの「指定移住先」であったという仮説です
そうしたなかでも、三原市能地はテグリ網漁を主とした浦です。船を家にして瀬戸内海の各地を回る者が多く、よい漁場を見つけるとその付近に仮小屋をして、そこへ住み着いてしまうこともあったことは以前お話ししました。
テグリ網で操業する家船漁民の生活は?
![手繰網使用図 | 漁具画像](https://library.kwansei.ac.jp/archives/gyogu/images/m/02/H010026.jpg)
![手繰網使用図 | 漁具画像](https://library.kwansei.ac.jp/archives/gyogu/images/m/02/H010026.jpg)
小さな網で、二人乗りか三人乗りの小さな船に網を積み、魚のいそうな網代へゆくと、浮樽に錨をつけて海に入れ、樽に綱の一端をつけておいて、一定の長さの綱を海中にはえ、そのさきに網をつけてあって、その網を半円形に海へ入れる。その先はまた綱をはって樽のあるところまで戻り、船を横にしてオモテとトモにいて二人で網をひきあげるのである。
後には船を横にして帆を張り、網を海中に入れたものをそのままひいてゆき、適当なところまでゆくとひきあげる方法もとった。網にのるものは雑魚が多く、雑魚は主として釣漁の餌として売り、のこりは村々を女が売ってまわったものである。ハンボウという浅いたらいを頭にのせて売り歩くのが能地の女たちの一つの姿であった。売るといっても金をもらうことは少なく、たいていはイモ・ムギなどのような食物と交換した。この漁は夜おこなうことが多かったので、夜も沖にいることが多く、しぜん、女も船に乗り、子供ができれば子供も船の中で暮して大きくなっていった。
人口圧の高まりと、その打開策は?
時が経つにつれて人口増の圧力や「強制移住」策の緩和が行われ、「指定移住先」からの「脱出」が可能になったのではないでしょうか。そして、2つの道が開けてくるようになります。
下蒲刈島の人々の選択は?①新天地の浦への移住②強制移住以前の祖先のいた漁村への回帰
今は呉市となってとびしま街道で本土とつながるようになった下蒲刈島の宝永二(1705)の村明細帳には、船が18艘しかなかったことになっています。家も34戸です。かつて、この島に三之瀬と呼ばれ朝鮮からの使節団が寄港するような港がありました。それが戸数34戸まで激減していたことが分かります。
それが、宝永から100年ほどたった1805年ごろには310艘に増えています。かつての賑わいを取り戻しているのです。ここからも、島々にいた海賊は禁圧令によって島を追いはらわれ、一時、本土の指定された浦に強制移住された。それが18世紀になって追々と島へ帰ってくる者もいたかえっていったというストーリーが描けるのではないかと研究者は考えているようです。
18世紀の瀬戸内海をかえたのはサツマイモです。
![甘藷 – 有限会社 新居バイオ花き研究所](https://nii-bio.jp/wp-content/uploads/2019/01/kotei-imo-top.jpg)
このイモが栽培されるようになって、急速に人口が増えます。増える人口を養うために山がひらかれてイモ畑になります。増える人口に対応するために、天に向かって島の狭い土地が耕されます。そして「耕して天に至る」という光景が見られるようになります。幕末に瀬戸内海を黒船でクルージングした外国人が、瀬戸内海の美しさを賞賛しますが、そのビューポイントが山の上まで耕された段々畑でした。
![耕して天に至る棚田・段畑 ―大地への刻印](https://suido-ishizue.jp/daichi/part2/01/img/09_p04.gif)
![甘藷 – 有限会社 新居バイオ花き研究所](https://nii-bio.jp/wp-content/uploads/2019/01/kotei-imo-top.jpg)
このイモが栽培されるようになって、急速に人口が増えます。増える人口を養うために山がひらかれてイモ畑になります。増える人口に対応するために、天に向かって島の狭い土地が耕されます。そして「耕して天に至る」という光景が見られるようになります。幕末に瀬戸内海を黒船でクルージングした外国人が、瀬戸内海の美しさを賞賛しますが、そのビューポイントが山の上まで耕された段々畑でした。
![耕して天に至る棚田・段畑 ―大地への刻印](https://suido-ishizue.jp/daichi/part2/01/img/09_p04.gif)
水平方向にも耕地開発の手は進められます。
蒲刈島の周辺の島々では、山船(耕作船)が姿を現します。ずんぐりとして幅の広い船で、人々はこれに乗って小さな島の畑へ耕作にいくようになります。何よりもまず食料を確保することが島民にとっては大切でした。海賊行為は、島の食料不足が原因でもあったのです。
蒲刈島の周辺の島々では、山船(耕作船)が姿を現します。ずんぐりとして幅の広い船で、人々はこれに乗って小さな島の畑へ耕作にいくようになります。何よりもまず食料を確保することが島民にとっては大切でした。海賊行為は、島の食料不足が原因でもあったのです。
こうして強制移住地に閉じ込められていた家船漁民は、新天地を目指すか、故郷に帰って農民となるかの道を選ぶようになったのではないのでしょうか。
![農船|岩城島](https://i0.wp.com/blog.shimaproject.jp/wp/wp-content/uploads/img/blog_import_58f32e7365f2f.jpg?ssl=1)
![農船|岩城島](https://i0.wp.com/blog.shimaproject.jp/wp/wp-content/uploads/img/blog_import_58f32e7365f2f.jpg?ssl=1)
山船(耕作船)
最後に、家船漁民を先祖とする豊島の漁民を見ておきましょう。
![豊島 (広島県) - Wikipedia](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/42/%E8%B1%8A%E5%B3%B6.png/500px-%E8%B1%8A%E5%B3%B6.png)
漁船にはどの船の側面にも漁船番号が記されています。その頭に府県の記号が書かれます。広島県は「H」です。このHの頭文字が書かれた漁船が、長崎や対馬・平戸まで行って操業していました。そのほとんどがこの島からの「出稼船」(かつての家船漁民)です。そして、平戸や天草などに枝村を作ってきました。
その操業スタイルは次のようなものだったといいます
目的の漁場へ着くと近くの漁港へ行っていって、漁業組合に挨拶し、民家に宿を借りる。民家の一間を借りて持ってきた行李をあずけておき、漁からかえってきたときや雨の日はそこで休み、風呂や食事の世話も依頼する。いわゆるる船宿である。行李の中には晴着も入れてあって、その地の祭などのときには村人同様に盛装してお宮へもまいる。その村の人たちからお宮や寺への寄付をたのまれれば義理を欠かすようなことはない。山口県平郡島の寺で寄付者の名をかいたものを見ていると、豊島のものが多いのでおどろいてきいてみると、漁にきた人たちの寄付であった。また村の寺に報恩講などがあれば、漁を休んでまいる。広島に近い海田市の寺の報恩講に見知らぬ参拝者がたくさんあるので、土地の人がきいてみると豊島の者が漁に来ていてまいったのだと言った。けんか早いのも豊島の特色だ。血の気が多いのであろう。が、とにかく世間のつきあいをよく心得た人たちであり、そのことによって、広い海を自由自在に活動しているのである。
ひとつの漁村が活気を持って活動していくためには好漁場をいくつももっていることがひとつの条件のようです。
しかし、漁場を持たなかった家船漁民の子孫たちは、瀬戸内海を越えて東シナ海を舞台に活動していたようです。それれは先祖が倭寇と呼ばれた活動した舞台でもあったようです。
以上をまとめておくと
しかし、漁場を持たなかった家船漁民の子孫たちは、瀬戸内海を越えて東シナ海を舞台に活動していたようです。それれは先祖が倭寇と呼ばれた活動した舞台でもあったようです。
以上をまとめておくと
①東遷御家人として安芸にやってきた小早川氏は、当初は海は苦手であった。
②そのために地元の「海民」の協力を得て、水軍を編成し「海賊退治」を行った。
③小早川氏に協力するのが「水軍」で、敵対するのが「海賊」と識別(差別)された。
④芸予諸島に進出するようになり因島・能島の「村上水軍」を従えるようになる。
⑤海賊禁止令後に、海賊たちは強制移住され指定移住地での居住を強制されるようになる
⑥18世紀にサツマイモが人口増大をもたらし「人口圧」が急激に膨らむ。
⑦あるものは、家船漁船で新天地を求めて「開拓民」となった
⑧あるものは、故郷に帰り帰農し「耕して天に至る」道を選んだ。
⑨家船漁民の伝統を持つ浦では、豊島漁民のように東シナ海で操業するものもいた
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 宮本常一 「瀬戸内海 芸予の海」
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