大崎下島は、 大長みかんの島として知られています
今はとびしま街道のいくつかの橋で結ばれ呉市の一部となっています。芸予諸島のこの島も半農半漁の村で、明治の初め頃までは桃の木が山に多かったそうです。明治の終り頃に、温州ミカンの栽培が始まってから大きく変貌していきます。
大崎下島 - Wikipedia

 みかんのブランド化に成功するきっかけが選果機の導入だったといいます。
みかんは箱につめて出荷しますが、昭和の初め頃は、下の方には小さいのをつめ、上の方に大きなのを並べるのがあたりまえで、これをアンコとよんでいたそうです。買う方も不平を言いながらも、それを商習慣の一つとして受け取っていた時代です。このような「小さな不正」は、みな当前えに思っていたのです。
 そんな中で大正の終り頃、アメリカ農務省の嘱託として渡米した田中長三郎博士は、アメリカで機械選果機を見て感心します。これを輸人して選果して品質をそろえたら、きっと市場の信用を得て商品の価値を高めるだろうと考えました。そこで、3台の選果機を買って日本に送ります。その機械を導入して機械選果をはじめたのが、静岡・和歌山と大長だったようです。中には
「高い機械を買って選果して粒をそろえて売るのは、粒の小さいものが売れなくなり割に合わないし、もうからない」
という声も強かったようです。しかし、実際に選果機でより分けて大きさをきめ、それにあわせた定価をつけてみると、買う方は安心して買えるのでかえって信用が高まり「大長ミカン」のブランド力がいちじるしく上がったのです。
大長みかん Instagram posts (photos and videos) - Picuki.com
 プライドを持った農民たちは美味しいミカン作りに熱中するようになります。
売り上げも上がるので生産意欲もあがり、それまでサツマイモが植えられていた畑に次々とみかんの苗木を植えられるようになります。畑が足らなくなると、今度は誰も住まない沖の島々も買いとって、そこをミカン畑にしていったのです。そして
「大長のミカン畠は三〇〇ヘクタールであるが、島外にはそれ以上のミカン畑がある」
とまで言われるようになります。
島の末子相続がもたらしたものは?
 この島の人たちが、島外にミカン園をひろげるようになったのは、もう一つ原因があるといわれます。それはこの島の末子相続の風習です。長男が嫁をもらうと、少々の土地をもらって分家します。長男たちは、みかんを植えれば収益はあがるので、無人島に土地を買い足たし開墾して、みかん畑にしていきました。
 末子相続の風習は、芸予の漁民の間に昔からあったようで、そうした漁民たちが陸上りすると、その風習が農村社会にも引き継がれたようです。そのため、島では兄弟の関係がフラットで家長制度が緩かったと民俗学者は云います。
 大長のみかん農家は船を利用して、他の島々へ耕作に出かけていきました。
大崎下島・大長』を写真と紀行文で紹介 | 島プロジェクト

そのため大長の港は、かつては農耕船がいっぱい舫われていました。


寅さんも「難波の恋の物語」のロケシーンでムームーを行商したことがあります。この時はバックに多くの農耕船が映り込んでいました。しかし、今はその港に耕作船の姿はほとんど見られなくなりました。港の近くの公園に、一艘の耕作船が引き上げて展示されていました。
 ちなみに分家したみかん農家の長男たちが屋敷を求めたのが御手洗です。
ここにはかつての港町として栄え、大旦那の屋敷や店が軒を並べていました。しかし、昭和になるとその繁栄にも陰りが見え始め、歯が抜けるように商人たちは屋敷を残し御手洗から出て行きました。その後に移り住んだのが大長のみかん農家の長男たちだったようです。御手洗の街歩きをしていると、大きな商家風の建物に出会います。しかし、今そこに住んでいるのは商家の子孫たちばかりではないようです。

7 御手洗 北川家2
その中の一軒「北川家」をのぞいてみましょう。
瀬戸内海航路で「沖乗り」が行われるようになり、御手洗が潮待ち港として発展し始めるのは、江戸時代の後半になってからです。それまでここは、何もない海岸だったようです。港町の繁栄に引かれて周辺の大長から移り住む有力者が出てきます。北川家もそんな一軒だったようです。

 北川家の祖は吉郎右衛門で、もともとは大長の農家です。
末子相続によって、大長の家をついだのは次男兵次で、長男恵三郎が御手洗に出て商いを営むようになります。その後を継いだ喜兵衛は問屋商人として財をなし屋号を「北喜」とします。過去帳から喜兵衛は文化期に生またことが分かりますから、その活躍は天保期からあとの19世紀前半から半ばになるようです。喜兵衛の
①三男 定助が「北喜」をつぎ、
②五男 豊助が分家して「北豊」を興します。
「北豊」は廻漕店を営み、豊助の子利吉の代には、大正丸、北川丸をもち、御手洗と尾道のあいだを往き来して、廻船問屋として活躍します。
 その後、分家の成功を見て大長の本家をつぎ農業にいそしんだ兵次の孫仁太郎も御手洗に出て商いを営みだします。その家が「北仁」です。仁太郎は弘化期の生まれですから、その活躍は幕末の慶応から明治にかけてのことと考えられます。「北仁」は、蓄えた財力をもとでに金融業も営み、次第に大崎下島の土地を買い集めます。
 昭和になって廻船業が衰退すると「北仁」の当主は、商売をやめますが島は出て行きませんでした。先祖が手に入れた土地でみかん作りに乗り出すのです。みかん農家として島に生きる道を選んだ「北仁」の屋敷が残っています。この家は、常磐町の中ほどの海側に奥深くのびた作りになっています。
7 御手洗 北川家
②間口は約四間余りで、主屋の北に庭園があり、土蔵・離れ座敷が奥に建つ。別棟は渡り廊下で結ばれている。
③離れ座敷は、大正時代の建築で、入畳二室と茶室から成る数寄屋普請で、北川家が商家として全盛を誇った時代の建物。
④主尾は、妻入り塗籠造り本瓦葦きの伝統的な様式

この主屋は、北川家が御手洗進出以前に建てられていたものと研究者は考えているようです。つまり、以前に住んでいた人から買ったということでしょう。台所はのちに増築したもので、店の横の板敷きも改造した部分であるので、この増築部分を除くと、庭に沿って建屋が一列に並ぶという町家の間取りになります。
 廻船業から金融業、そしてみかん農家へと明治以後の北川家の活動の舞台となった家屋がここには、そのまま残っています。
  親子2代で御手洗の町長を務めた鞆田家を見てみましょう
7 御手洗 鞆田家
この家も幕末頃に佐藤家が立てたものを、後に鞆田家が購入したようです。佐藤家は屋号「里惣」で、幕末に船持ちとして活躍し、一代で財を築き、急成長をとげた家といわれます。その後、日清戦争を前にして軍港呉防備のために能美島に砲台が建設されることになり、「里惣」はこの仕事を請負います。ところが、工事に失敗し家運を傾けます。その際にこの「里惣」の屋敷は、そのころ金融業で羽振りの良かった鞆田家の手にわたったようです。
御手洗のクチコミ -重厚ななまこ壁の家 | 地球の歩き方[旅スケ]
 鞆田家は、それまでは住吉町に住んでいたようで屋号は「鞆幸」でした。
幕末から明治20年にかけて海産物・穀物問屋を営み、あわせて金融業にも手をひろげていた資産家です。「鞆幸」(ともこう)を名のったのは、幕末に活躍した祖父幸七に由来しているといいます。この辛七の子が市太郎で商売は行わず、医者として開業します。頼りになる
人物だったようで、明治後半には御手洗町長を勤めています。その間も、大崎上島や愛媛県岡村島、中島方面の土地を集積しています。
 市太郎の跡をついだ子は、教員となり、戦前は父と同じく町長を勤めています。先ほども云いましたが鞆田家が「里惣」(さとそう)と呼ばれる佐藤家の屋敷を買い取って、住吉町に移ったきたのは、明治三〇年ころです。
  この鞆田家の家屋を、研究者は次のように紹介しています

7 御手洗 鞆田家2
①主屋は「里惣」が全盛を誇った幕末のころのもの
②主屋は、間口四間半の妻入り塗籠造りで、脇に間口二間の平入り家屋を別棟でとりつけた造り。
③一階の開口部には当時の蔀が残されている。二階外壁の一部は、海鼠壁の凝った意匠がある。
④主屋の屋根は、寄棟桟桟瓦葺きで、御手洗の伝統的な町家の形式とは異なる。
⑤屋敷取りは、主尾の真に広い庭園を配し、土蔵、湯殿、二棟の離れ座敷を構え、それぞれが渡り廊下で結ばれている。
⑥道路をへだてた海辺には昭和10年ころに建てられた木造洋館があり、別宅としてつかわれている。
⑦主屋の間取りは通庭に沿って店、中の間、座敷の三重が一列に並ぶ
⑧台所は以前は土間につきでた板敷き、後に改造を加えて部屋とした
⑨土間の入口右手にある部屋は、市太郎が医業を営む際に用いた
御手洗の町家は、有力者の家でも通り庭に沿って部屋が二列に並ぶ造りは、ほとんどないようです。そこに中継的商業をなりわいとした問屋商人の住まいの特色があると研究者は考えているようです。

御手洗に残された有力者の家屋の遍歴を見ていると、その家を舞台に活躍した「栄枯盛衰」が見えてくるような気がします。都会では残されることのない幕末や明治の木造建築物が何軒も残っていることに驚かされると共に、そこには一軒一軒の歴史があることを改めて気づかせてくれます。
御手洗地区ガイドマップ | 田中佐知男のスケッチによる御手洗案内地図
参考文献 谷沢明 瀬戸の街並み 港町形成の研究