1 清原八郎
 藤沢周平の「回天の門」の主人公 清河八郎について
「回天の門」中で、幕末の尊攘派の志士であり儒学者であった主人公の清河八郎を、藤沢周平は次のように記しています
「清河八郎は、故郷清川を家出という形で上京し、何の後ろ盾もない中、高い志のもと、人との繋がりを大切にし、類まれなる説得力で、幕末の数多くの同士をまとめていった。」

 藤沢周平は恩師が記念館の館長であった縁もあって、2年をかけて記念館に足を運び、展示資料を読み解くなどして、八郎の生涯を調べたそうです。この中で幼少の日々から、志半ばにして討たれるまでの八郎の行動と、彼を取り巻く人物たちを、史実に基づきながら丁寧に追っていくことで、八郎の人物像が描かれていました 
 その清河八郎が、安政二年(1855)26歳の時に、母親を連れて金毘羅さんにやって来ています。
母を連れての大旅行の出発のきっかけは?
  安政2年正月下旬、八郎が26歳の時です、神田三河町の清河塾が開塾3ヶ月にして延焼してしまいます。八郎は失意のまま山形の実家に帰ってきます。ぽっかりとあいた時間と心を埋めるために、母親の亀代が望んでいた伊勢詣でに出ることになったようです。下男の貞吉を連れて、春先の雪が残る3月20日に山形の清川をスタートします。まずは伊勢を目指します。しかし、当時の「伊勢詣で」は、伊勢だけにあらず・・」でした。その参拝ルートを見てみましょう。
①最上川を川船で下って、酒田港へ
②酒田から北前船で越後へ
③越後から北国街道で、善光寺詣で
④女人禁制の福島の関を避けながら木曽道を行き、
⑤途中伊那谷から大平街道を通り、中山道、追分、伊勢街道で伊勢詣
⑥奈良・京都・大阪・兵庫、播磨の「西国三十三ヶ寺巡礼」
⑦姫路書写山にお参り後に、岡山から四国に渡って丸亀へ
⑧讃岐の金毘羅・善通寺に詣で、
⑧多度津から船で瀬戸内海をクルージングしながら宮島
⑨さらに周防岩国の錦帯橋を渡って
⑩帰路に、残りの三十三ケ寺巡礼
という欲張り旅行は、半年を越える大旅行でした。今の私たちからするとびっくりするような長旅です。しかし、当時の東国からの人たちは
「善光寺 + 伊勢参り + 西国三十三ヶ寺 + 金毘羅 + 宮島 」
というのが基本的な伊勢詣でプランだったようです。一生に一度の「伊勢参り」ですから、ついでに「何でも見たやろう、参っておこう」的な巡礼パターンが一般化していたのです。日本人の好奇心・旅行好きはこの当たりからもう形作られていたのかもしれません。おそるべし、ご先祖様です
紀州加田より金毘羅絵図1
 清河八郎は、旅先の風俗を細やかに観察した旅日記を『西遊草』と題して残しています。その記録の意図を次のように記しています。
  我記するところの事を案じ、一世に一度は必ず伊勢いたさるべきなり。されども道中の労をしのび、孤燈のもとにて思ひのままをしたためたる此『西遊草』なれば、大人見識の見るに供するにあらず。但児童、小婦の伊勢参ばなしに、旅中のあらましをさとさんために、しるしおくのみ。

ここでは「想定読者」を「世の中の大人に見せるものではない」とし、後日、弟や妹が伊勢参りをする際、旅中のあらましをさとすため」の私的な作であると断っています。
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その「丸亀・金毘羅・善通寺」の部分をのぞいてみることにします
(安政二年)五月十五日
 丸亀は讃州にて京極氏の城下なり。
城は築きたての山城にして、楼櫓列なり、しもより眺みるに、美事なる事いわんかたなく、あたかも村上の城に類して、またはるかに念の入りたるなり。町家も多く、殊に金毘羅渡海の港なれば、客船の往来たゆる間もなく、実ににぎわひの地なり。且金毘羅とは百五拾町へだてたり。されども象頭山は僅目の前に見ゆれども、路のめぐりめぐりするゆへ、遠迂になるなり。
 舟より直になはやなる家にて衣類をととのへ、且朝食をなしぬ。是日もやはり入梅の気にして、晴雨さだまらず。時々雨衣を被りき。此辺西南にひらけたる事かぎりなく、且四国富士といふ小山、路よりわづか壱里ばかりへだて、突然として景色あり。「常に人をのぼさず。七月十七日頃に一日群がりのぼる」と路中の子供はなされき。
 すべて此辺高山はまれにて、摺鉢をふせたるごとき山、処々にあり、いづれも草木不足なり。時々雲霧に顕晦いたし、種々の容体をなせり。
意訳 
丸亀は讃岐の国にあり、京極様の城下町である。
城は山の上に築かれた山城で、楼閣が列を成して並び下から眺めると、その見事さは言い表せないほどで念が入った造りだ。町家も多く、金毘羅船の終着港でもあり、そのため客船の往来は絶えることなく、殷賑をきわめている。丸亀と金毘羅は150町(15㎞)ほど離れている。見た目には、象頭山はすぐ近くに見えるが、道はまわりめぐり続くので案外遠い。。
 金比羅船から下船し「なはや」という店で衣服を整えて、朝飯をとる。天気はこの日も梅雨入りに近いためかはっきりとしない。時々、雨具をつけて丸亀街道を進んでいく。このあたりは西南に方面に広く開けた地形で、「四国富士」という小山が街道から一里ほど向こうに突き出た山容を見せている。
  「いつもはあの山には登れないんだ、7月17日だけに登ることが許されているんだ、その時には群がるように人が集まってくるんだ」
と、付近の子どもが教えてくれた。
この当たりには高い山はなく、摺鉢をふせたような山がぽつりぽつりと見える。そして、山には木々が生えていない。その山々が時々、雲に隠れてまた現れ、様々な姿を見せてくれる。
岡山の児島からの船で丸亀港に着きます。船を下りて朝食をとっていますので、潮時の関係で夜に備讃瀬戸を渡ってきたようです。金毘羅参拝後に丸亀に引き返してくる場合には、十返舎一九の「弥次喜多」のように荷物を宿に預けてお参りにいきます。しかし、この母子は多度津から宮島へ行く予定なので荷物を持って、旅姿に着替えて丸亀街道を歩むことになります。
289金毘羅参詣案内大略図

 道中に「四国富士」(讃岐富士)が出てきます。
  「いつもはあの山には登れないんだ、7月17日だけに登ることが許されているんだ、その時には群がるように人が集まってくるんだ」
と、土地の子ども達が教えてくれたと云います。
 ここからは、当時は年に一度しか登ることが許されていなかったことが分かります。霊山として「禁足」された聖なる山だったようです。「讃岐富士禁足」に触れた史料に、私は初めて出会いました。
 この時代の旅行記と今の旅行案内を比べると、大きく違うこととして私が思うのは
①宿の名前は必ず記すが、その善し悪しの評価はない
②食事も、内容や味には触れない
③街道の道案内記事はない。
考えて見れば筆で合間に記録するとすれば、それほど多くの情報を残すことは出来ないという制約もあったのでしょう。
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 金毘羅までやって来ました。
金毘羅参詣のもの群がりて道中にぎにぎしく、やすらひながら昼頃に金毘羅麓にいたる。
 入口に金鳥井あり。夫より石燈篭並びあり。勿論昨年の洪水にて余程損じたるとて、いまだ全備せざりき。金毘羅の町は賑ひいわんかたなく、市中に屋根の付たる橋(鞘橋)を渡し、夫より両端旅篭や軒をならべ、いづれも美事なる家ばかりなり。
 空腹に及しかば、備前やなるにて午食をいたし、荷物をあげをき、参詣する。吾は再びなれば(八郎は7年前の嘉永元年に詣でている。)案内よく覚ゆ。金毘羅山は実にも名の如く象頭に異ならずして、草木まれなり。唯々宮の安置する処は、吾国の仙人林の如く草木繁りあり。いと森々たるありさまなり。 
意訳
 金毘羅街道をいく参拝者は数多く、道中は賑わっていている。休みを取りながら昼頃に金毘羅の麓に着いた。
 町の入口に鉄の鳥居(現高灯籠付近)があり、そこからは灯籠が並ぶ。昨年の洪水で大きな被害を受け、完全に復興していないと云うが金毘羅の町の賑わいは凄まじい。屋根の着いた橋(鞘橋=一の橋で参道に当時は参道に架かっていた)を渡ると、そこからは両端に旅籠が軒を並べる内町だ。見事な造りの家ばかりである。
 お腹も空いたので備前屋という店で昼御飯をとり、そこに荷物を預けて参拝する。私は初めてではないので、案内はよく覚えている。金毘羅山は、その名の通り象の頭ようで、草木もない。しかし、神社があるところは山形の仙人林(郷里清川の仙人堂をめぐる杉林)と同じように木々が茂り、大きな森となっている。
  丸亀から琴平まで4里(16㎞)足らずです。
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その一里塚の大きな松が、かつては現在の高灯籠付近にはあったようです。そこにあった鉄の大きな鳥居は、現在は美術館横の石段に移されています。灯籠の一部はJR琴平駅前広場に移されていますが、一部は今でも交番付近に並んでいます。
 ここで注意しておきたいのは
「昨年の洪水で大きな被害を受け、完全に復興していない」
と出てくる「昨年の洪水」です。これは、以前にお話しした満濃池の決壊による被害のことのようです。
この時には鞘橋をはじめとする琴平の橋が殆どながされています。
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「屋根の着いた橋(=鞘橋)」を渡ったとありますので、この時点では復興していたのかもしれません。どちらにしても、洪水の被害を受けながらも、金毘羅には多くの参拝客が訪れ賑わっていたことが分かります。鞘橋を渡った内町の旅籠外の家並みも美しいと褒めています。
讃岐の里山は、はげ山だった?
次に私が気になるのが
「金毘羅山は実にも名の如く象頭に異ならずして、草木まれなり。唯々宮の安置する処は、吾国の仙人林の如く草木繁りあり。いと森々たるありさまなり」
の部分です。
丸亀街道から周囲の山々をみた時にも
「すべて此辺高山はまれにて、摺鉢をふせたるごとき山、処々にあり、いづれも草木不足なり。」
とあります。山は
「象頭に異ならずして、草木まれなり」
「いづれも草木不足なり。」
で、宮宮の鎮座する所は
「吾国の仙人林の如く、草木繁りあり」
なのです。これは、何を表しているのでしょうか?
  思い当たるのが象頭山の浮世絵です
1 象頭山 浮世絵

清川八郎が母親と金毘羅さんにやって来た同じ年の安政2年(1855)に、広重によって描かれた  の「讃岐 象頭山遠望」です。岡田台地からの「残念坂」を上り下りする参拝者の向こうに像が眠るように象頭山が描かれています。
 山は左側と右側では大きく色合いが違います。なぜでしょう?
最初は、「赤富士」のような「絵心」で、彩りを美しく見せるために架空の姿を描いたものなのかと思っていました。しかし、だんだんと、これは当時のそのままの姿を描いているのでないかと思うようになりました。
 向かって左側は、金毘羅大権現の神域です。右側は、古代から大麻山と呼ばれた山域です。現在は、この間には防火帯が設けられ行政的には左が琴平町、右が善通寺市になります。
ここからは私の仮説です。
左側は金毘羅さんの神域で「不入森」として、木々が切られることはなかった。しかし、右の善通寺側は、伐採が行われ「草木不足」となり、山が荒れている状態を描いているのではないでしょうか?
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歌川広重の「山海見立相撲 讃岐象頭山」を見ると、山が荒れ、谷筋が露わになっているように見えます。背景には、以前お話ししたように田畑に草木をすき込み堆肥とするために、周辺の里山の木々が切られたことがあります。この時期に芝木は大量に田畑にすき込まれ肥料にされました。里山の入会権をめぐって、周辺の村々が互いに争うようになり、藩に調停が持ち込まれた時代です。それが戦後まで続きます。

1952年三原沖の島々ははげ山だった。
三原沖の島々ははげ山化(1952年)

 そして、瀬戸の島々も「耕して天に至る」の言葉通り、山の上まで畑が作られ森が失われていった頃と重なります。
島の木々は、製塩のための燃料として切り尽くされはげ山になっていきます。その後が畠にされて、「耕して天に至る」という景観が現れます。白砂青松の松林の背後の山は、禿げ山化していたのです。

聖通寺山 1952年 はげ山
     聖通寺(坂出市)の突端と向こうに見えるのが沙弥島 ともにはげ山(1952年)

残った緑も薪や肥料に伐採されたのです。ある意味、山が木々に覆われた光景の方が珍しかったのかもしれません。だから、浮世絵師たちは好んで木々の緑の神域と、はげ山のコントラストのある光景を描いたのかもしれません。もし、当時のこの場所に立って、周りを見渡すと見える里山は、丸裸のはげ山だったのかもしれません

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象頭山眺望野図
4344102-34飯野山と飯神社
                飯野山(讃岐国名勝図会)
 以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。