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    霊山・如意山(公文山)に鎮座する櫛梨神社 
金毘羅さんの鎮座する象頭山の東を金倉川が北に向かって流れていきます。この金倉川を挟んで小高い峰峰が続きます。これが如意山です。この山の麓には中世には荘園の荘官・公文の館があったようで、公文山とも呼ばれています。この山の周辺は、古代中世からひとつの宗教ゾーンを形成していたと「町誌ことひら」は記します。
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 如意山(公文山)の西に伸びる尾根の下に鎮座するのが櫛梨(くしなし)神社です。ここにも「悪魚退治伝説」が伝わっています。前回、讃留霊王に退治された「悪魚」が、改心して「神魚」となり、金毘羅神(クンピーラ)に変身した。そこには宥範から宥雅という高野山密教系の修験者のつながりがあることを前回は紹介しました。その二人の接点が櫛梨神社になるようなのです。今回は、この神社について見てみることにします。
1櫛梨神社

 この櫛梨神社は、讃岐国延喜式内二十四社の一つです。
高松市の田村神社(讃岐国一宮)、三豊市高瀬町の大水上神社(同二宮)と並び称される古大社だとされてきました。大内郡の大水主神社と三宮、四宮の席次を争った形跡があります。古代には、周辺に有力な勢力がいたようです。目の前の霊山として崇められたであろう大麻山(象頭山)山腹には、数多くの初期古墳がありました。善通寺勢力と連合勢力を組んでいたのが、どこかの時点で「吸収合併」されたと私は考えています。それが野田院古墳の出現時ではないかと思います。それ以後も、如意山周辺は丸亀平野南部の一つの政治的宗教的拠点であったようです。中世は、ここは東国出身の薩摩守護になた島津家の荘園になっています。櫛梨神社は、その櫛梨荘の文化センターであったようです。
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「全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年」には、この神社の由緒を次のように記します。
当社は延喜神名式讃岐國那珂郡小櫛梨神社とありて延喜式内当国二十四社の一なり。景行天皇の23年、神櫛皇子、勅を受けて大魚を討たむとして讃岐国に来り、御船ほを櫛梨山に泊し給い、祓戸神を祀り、船磐大明神という、船磐の地名は今も尚残り、舟形の大岩あり、
 付近の稍西、此ノ山麓に船の苫を干したる苫干場、
櫂屋敷、船頭屋敷の地名も今に残れり、悪魚征討後、
城山に城を築きて留り給い、当国の国造に任ぜられる。仲哀天皇の8年9月15日、御年120歳にて薨じ給う。国人、その遺命を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という。社殿は壮麗、境内は三十六町の社領、御旅所は仲南町塩入八町谷七曲に在り、その間、鳥居百七基ありきと。
天正7年、長曽我部元親の兵火に罹り、一切焼失する。元和元年、生駒氏社殿造営、寛文5年、氏子等により再建せらる。明治3年、随神門、同43年、本殿、翌44年幣殿を各改築、大正6年、社務所を新築す。
   
ここには次のようなことが書かれています
①神櫛皇子が、悪魚を討つために讃岐国やってきた
②櫛梨山に漂着し、これを祝うため般磐大明神を祀った。
③付近には、海に関係する地名がいくつも残っている。
④神櫛王は悪魚討伐後、城山に館を構え讃岐国造になった。⑤亡くなった後は、櫛梨山に葬り皇宮大明神と呼ばれる。
⑥旅所は旧仲南町の塩入にあり、鳥居が107基あった
⑦天正年間に、長宗我部元親の侵入で兵火に会い一切消失
 ここにも讃留霊王(神櫛皇子)の悪魚退治伝説が伝わっています。
それも、皇子の乗った船の漂着地であり、葬ったのが櫛梨山とされています。この伝説が作られた時の人々は、かつてはこのあたりまで海だったのだという意識を持っていたようです。空海生誕伝説の「屏風ヶ浦」の海の近くで空海は生まれたという当時の「地理感覚」と相通じる所がありそうです。
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 この神社の讃留霊王伝説で新味なのは「神櫛(醸酒一カムクシ)王を祭(祖先)神」として、その子孫酒部氏族が奉斎した氏神社としている点です。古くは、櫛梨山上の本台(山頂の平坦地)に社殿を構えていたといいいますが、祭神の性格からすると平地にあってしかるべき神社だと研究者は考えているようです。山上には、祠様があっただけで山そのものが神体であるされ、櫛梨山全体が信仰の対象だったのでしょう。
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 櫛梨神社には悪魚退治伝説は、史料としては伝わっていないようです。伝えられているのは善通寺誕生院の宥範の縁起の中に書かれているのです。
 2つの【悪魚退治伝説】 
 悪魚退治伝説は、南北朝期の作とされ讃岐藤原氏(綾氏)の系図「綾氏系図」に冒頭に付けられているのが知られてきました。綾氏先祖の英雄譚として、氏族の栄光を飾るものと理解されてきました。そしてこの伝説を作ったのは、文中に出てくる寺名から法勲寺の僧侶であるとされてきたのです。つまり、この『綾氏系図』は、綾氏の有力な氏寺の一つである法勲寺の縁起としての性格をもっているとされてきました。
しかし、近年になって「綾氏系図』よりも古いとされる史料が出てきたようです。それが、高松無量寿院所蔵文書の中にある応永九年(1402)3月に、善通寺誕生院住持・宥源の『贈僧正宥範発心求法縁起』(=宥範縁起」です。

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 宥範は何者?
 宥範は櫛梨の有力豪族出身で、高野山や各地の寺院で修行を積み、晩年は善通寺復興に手腕を見せ「善通寺中興の祖」と呼ばれた名僧です。この中に、讃留霊公の悪魚退治伝説が語られているようです。
16歳で仏門に入り、高野山などに学び、当時の密教仏教界において、その博学と名声は全国に知られていたようです。善通寺復興に尽力し「中興の祖」と称されています。
 宥範は、各地ので修行を終えて翌嘉暦二年(1327)、讃岐国に帰り、
「所由有りて、小松の小堂に閑居し」
します。そして『妙印抄』三十五巻本の増補を行い3年かかって『妙印抄』八十巻本を完成させ、これを善通寺誕生院に奉じます。念願を果たして、故郷・櫛梨の小堂から象頭山の称明(名)院に移り住んでいます。生まれ故郷の櫛梨の里を、眼下にできる寺に落ち着きたかったのでしょう。こうして、八十巻を越える大著を書き終え、静かに隠退の日々を送ろうとします。しかし、それは周囲が許しませんでした。
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   善通寺中興の祖として 
  当時、善通寺は中世の荒廃の極みにありました。伽藍も荒れ果てていたようです。そのような中で、善通寺の老若の衆徒が、宥範に住職になってくれるように嘆願に押し掛けてきます。ついに、称名寺をおりて善通寺の住職となることを決意し、元徳三年(1331)7月28日に善通寺東北院に移り住みます。そして、伽藍整備に取りかかるのです。
元弘年中(1331~)は、誕生院を始めとして堂宇修造にかかり、
建武年中(1334~)に東北院から誕生院に移り
建武三年(1336)の東北院から誕生院へ転住するのに合わせて「櫛無社地頭職」を獲得したようです。
これは「櫛梨神社及びその社領をあてがわれた地頭代官」と研究者は考えているようです。ここからは宥範の実家である「岩野」家が、その地頭代官家であったことがうかがえます。「岩野」は宥範の本家筋の人物と考えられるようです。宥範が善通寺の伽藍整備を急速に行えた背景には、経済的保護者がいたことが考えられます。その有力パトロンとして、実家の岩野一族の存在が考えられます。
 櫛梨神社や大歳神社は、岩野家出身者の社僧によって奉じられていたようです。
「大歳神社」は、今は上櫛梨の産土神ですが、もともとは櫛梨神社の旅社か分社的な性格と研究者は考えているようです。例えば、宥範は高野山への修業出立に際して、大歳神社に籠もって祈願したと記されています。ここからは、大歳神社が櫛梨神社の分社か一部であったこと、岩野一族の支配下にあったことがうかがえます。
 別の研究者次のような見方も示しています
「大歳神社の北に小路の地字が残り、櫛梨保が荘園化して荘司の存在を示唆していると思われる。しかし、鎌倉時代以降も、保の呼称が残っているので、大歳神社辺りに保司が住居していて、その跡に産土神としての大歳神社が建立された」

 善通寺の伽藍整備は暦応年中(1338~42)には、五重塔や諸堂、四面の大門、四方の垣地(垣根など)の再建・修理をすべて終ります。こうして、整備された天を指す五重塔を後世の人々が見上げるたびに「善通寺中興の祖」として宥範の評価は高まります。その伝記が弟子たちによって書かれるのは自然です。しかし、この「宥範縁起」の中に、どうして「悪魚退治伝説」が含まれているのでしょうか。悪魚と宥範の関係を、どう考えればいいのでしょうか?
宥範縁起(無量寿院系)と綾氏系図(法勲寺系)を比較してみましょう。
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それぞれの寺運興隆を目的に、作られたものですから、少しずつアレンジがされています。例えば、悪魚の表記は「神魚」と「悪魚」、凱旋地も「高松」と「坂出」のように相違点があります。どちらが、より原典に近いのか研究者もなかなか分からないようです。しかし、強いて云えば
①全体的に洗練されているのは「綾氏系図』
②西海・南海の用字の正確さや文脈の詳細・緻密さ、重厚さから『宥範縁起』の方が古風
と、宥範縁起の中にでてくる「悪魚退治伝説」の方が古いのではないかと「町史ことひら」は考えているようです。
  どちらにしても櫛梨神社に伝えられた悪魚退治伝説は、法勲寺系ではなく、高松の無量寿院系のものであることに変わりはありません。
無量寿院は、宥範が若い頃に密教僧侶として修行をスタートさせたたお寺でもあります。そして、このお寺の由来が悪魚退治伝説ならぬ「神魚伝説」であったようです。
宥範から聞いた神魚伝説は善通寺や櫛梨神社の社僧たちに語り伝えられていくようになります。
そして、櫛梨神社の例祭には、修験者の社僧(山伏)の語る縁起を聞きながら「神魚」や「櫛梨神社」への畏怖と尊崇とを新たにし、胸熱くして家路を急いだのかもしれません。この時にまだ金毘羅神は生まれていません。
 高松から琴平にかけての中讃地区の寺社の中には、似たような悪魚退治伝説がいくつか伝わっています。これらは、社寺縁起の流行する近世初頭に『宥範縁起』をテキストに広がったのではないかと研究者は考えているようです。
 このような中で人々がよく知っている「悪魚」を、神として祀ることを考える修験者があらわれるのです。それが前回お話しした宥雅です。彼は
 悪魚 → 神魚 → 金毘羅神(鰐神)
というストーリーを下敷きにして、金毘羅神を創出し、それを松尾寺の新たな守護神を作りだし、それを祀るための金比羅堂を象頭山に建立したのです。その創出は彼一人のアイデアだったかどうかは分かりません。しかし、金比羅堂建設というのは、支援者や保護者なしではできることではありません。彼は、西長尾城の城主の甥でした。つまり、長尾氏の一族です。当然、背後には長尾氏の支援があったはずです。
 以上、前回の「悪魚が金毘羅神に変身」したお話の補足をまとめておきます。
①中世の公文山周辺は、丸亀平野南部の宗教ゾーンで、そのひとつが櫛梨神社である
②櫛梨神社には「悪魚退治伝説」が伝わるが、これは宥範伝来のものである。
③もともと高松の無量寿院の由来に登場する「神魚」が、そこで修行した宥範によって伝えられレ「宥範縁起」の中に記された
④中世の櫛梨神社では、この悪魚退治伝説が社僧たちによって人々に語られるようになる。
⑤社伝由来の流行で、古い神社ではどこにも社伝が語られるようになり悪魚退治伝説を採用する神社が増える。
⑥これは法勲寺で行われていた「綾氏祖先崇拝」による団結を図る武士団への広がりと同時に、中讃地区での悪魚退治伝説の広がりをうむ
⑦この広がりを下敷きに「悪魚」をモデルに新たな「金毘羅神」が登場してくる
⑧それを進めたのが西長尾城主の甥の修験者宥雅であった。
以上 最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。

参考文献 町史ことひら 第1巻 第5章 中世の宗教と文化