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善通寺さんと金毘羅さんが「本末争い」をしているようです。
これを聞いて最初感じたのは、なぜ神社である金毘羅さんが真言宗の善通寺の末寺とされるのかと思ったのですが、金毘羅さんの成り立ちを考えると納得します。当時は神仏混淆の時代で仏が人々を救うために、神に化身して現れるとされていました。もともと、小松荘のこのお山にあったのは松尾寺で、観音菩薩が本尊とされていました。その守護神として三十番社があったようです。
 しかし、戦国末期に、このお山で修行を行う修験者たちによって、新たな守護神として金毘羅神が作り出され、金比羅堂が建立されます。修験者たちは金比羅堂の別当として金光院を組織し、社僧として金毘羅大権現を祀るようになります。金光院は、三十番社や松尾寺との「権力闘争」を経て、お山のヘゲモニーを握っていったことは、以前にお話ししましたので省略します。
 社僧は、前回お話しした西長尾城主の甥(弟?)のように高野山で学んだ真言密教の修験者たちです。善通寺の僧侶から見れば、同じ高野山で学んだ同門連中が金毘羅大権現を祀り、時の藩主から保護を受けて急速に力を付けているように見えたはずです。ある意味、善通寺から見れば金毘羅大権現(金光院)は「新興の成り上がりの流行神」で、目の上のたんこぶのような存在に感じるようになっていたのかもしれません。

金毘羅大権現扁額1
本末争いの主人公は?
 本末の争いが起きたのは、丸亀藩山崎家の二代目藩主・志摩守俊家の時代(1648ー51)の頃です。争いの主人公は次の二人です。
善通寺誕生院では禽貞(1642~73在職)
金毘羅金光院では宥典(1645ー66在職)
  それでは、残された史料を見ていくことにしましょう
この事件については金光院側に「善通寺出入始末書」などの文書が残っています。内容は「金光院は誕生院の末寺ではない」理由を、九か条にわたって書き上げたものです。これは誕生院の「金光院は誕生院の末寺である」という主張に対する金光院の回答の」ようです。残念ながら善通寺側の文書は残っていません。
その「反論内容」を見てみましょう。
一 先々師宥盛果られ候節、金毘羅導師の儀、弘憲寺良純へ宥盛存生の内に直に申し置くべく候に付いて、弘憲寺へ頼み申し候、追善の法事、二、三度誕生院へ頼まれ候事
意訳すると

先々代の金光院院主が亡くなった頃に、金毘羅導師の件について、高松の生駒家菩提寺弘憲寺の良純様に宥盛生存の内に依頼しておくようにと云われました。なお、追善法要については、二、三度善通寺誕生院にお願いしたこともあります。

ここからは善通寺側が「宥盛の追悼法要を行ったのは善通寺である。それを、宥睨の代には別の寺院に変えた。本寺をないがしろにするものである」という主張がされていたことがうかがえます。

一 金毘羅社遷宮の事、先師宥睨は高野山無量寿院頼み申すべく存ぜられ候へども、権現遷宮の事は神慮に任かす旧例に従へば、僧侶四、五人御蔵を取り誕生院へうり申すに付き頼まれ候由に候右両条にて末寺と申され院哉、此方承引仕らざる

意訳すると
金毘羅社の遷宮については、先師宥睨は高野山無量寿院に依頼するようにという意向でしたが、権現の遷宮なので、神社のことで旧例に従えば、僧侶4,5人で行い、誕生院へ依頼したことはあります。しかし、これを持って金光院が誕生院の末寺であるというのには納得できません。
 
   宥睨の時の行われた金毘羅堂の遷宮の導師について、善通寺側から出された「善通寺誕生院の僧侶が行ったと」いう主張への反論のようです。

一 観音堂入仏、先の誕生院致され候様に今の住持申さる由承り候、相違の様に存じ院、此の導師は先々師宥盛仕られ候証拠これあるべき事

 意訳すると
観音堂入仏の儀式については、先の誕生院によって行われたと、誕生院現住持はおっしゃているようですが、これは事実と異なります。この時の導師は先々代の宥盛によて行われたもので、証拠も残っています。

本堂や観音堂などの落慶法要の際には、本寺から導師を招いて執り行うのが当時のスタイルでした。そのため誕生院は、あれもこれもかつては善通寺の僧侶が導師を勤めたと主張し、故に金光院は善通寺の末寺であるという論法だったことがうかがえます。

一 先師宥睨の代、当山鎮守三十番神の社、松平右京太夫殿御建立、遷宮賀茂村明王院に仕り候、その時誕生院より二言の申され様これ無き事
意訳すると
先師宥睨の時に、当山鎮守の三十番社については、松平右京太夫殿が建立し、賀茂村明王院が遷宮を勤めています。その時に、誕生院が関わった事実はありません。

三十番社はもともとの松尾寺の守護神を祀る神社でした。この三十番社に取って代わって、金比羅堂が建立され台頭していきます。そのため三十番社と金比羅堂別当の金光院との間には「権力闘争」が展開されたことは、以前お話しした通りです。

一 年頭の礼日、正月十日に相定まり、その後誕生院金光院へ参られ候由申さると承り候、相違申す事に候、前後の日限相定らず候、十日は権現の会日に院へば自由に他出仕らず候、その上金光院へ誕生院の尊翁正月八日に年頭の礼に参られ候、(中略)

意訳すると
 年頭の礼日は正月十日と定められています。その後に、誕生院と金光院へ参られるとおっしゃっているようですが、これも事実とは異なります。期日については、前後の日限は定まっていません。十日は権現の会日ですので、我々(金光院)は参加することはできません。

これは本末関係を示す事例として、年頭の正月十日に金光院主が年始挨拶のために本寺の善通寺にやってきていたことを善通寺側が主張した事への反論のようです

一 法事又は公事、何事にても国中の院家集合の席、往古は存ぜず、金光院二、三代の座配は一薦或は二蕩、金光院より座上の出家は多くこれ無く候、諸院家多分下座仕られ候事その隠れ無く、誕生院の末寺として座上仕り侯はば、諸院家付会に申し分られこれ在る間敷く候哉(後略)

 法事や公事など公式の席上に、国中の院家が集まり同席することは昔はありませんでしが、その席順について金光院の二、三代の座配は高い位置に配されています。金光院より座上の寺社は多くはありません。諸院家は金光院の下座にあることが隠れない事実です。もし、金光院が誕生院の末寺というのなら、末寺よりも下になぜ我々の席があるのかと諸院家から異議があるはずですが、そのようなことは聞いたこともありません

ここからは17世紀半ばには、金光院が讃岐の寺社の中でも高い格式を認められていたことが分かります。それを背景に、末社にそのような格式が与えられるはずがないという論法のようです。
  以上から善通寺の主張を推察してみると、次のようになるのではないでしょうか
かつては金光院の主催する落慶法要のような式典には善通寺の僧侶が導師を勤めていた。ここから善通寺が金光院の本寺であったことが分かる。その「本末関係」が宥睨の頃からないがしろになされて現在に至っている。これは嘆かわしいことなので善通寺が本寺で、金光院はその末寺であることを再確認して欲しい。

o0420056013994350398金毘羅大権現
金毘羅大権現像
 これ以外に善通寺側が本寺を主張するよりどころとなったもうひとつの「文書」があったのではないかと私は思っています。
それは初代金光院主・宥雅が改作した文書です。宥雅は「善通寺の中興の祖」とされる宥範を「金比羅寺」の開祖にするための文書加筆を行ったようです。研究者は、次のように指摘します。
宥範以前の『宥範縁起』には、宥範について
「小松の小堂に閑居」し、
「称明院に入住有」、
「小松の小堂に於いて生涯を送り」云々
とだけ記されていました。ここには松尾寺や金毘羅の名は、出てきません。つまり、宥範と金比羅は関係がなかったのです。ところが、宥雅の書写した『宥範縁起』には、次のような事が書き加えられています。
「善通寺釈宥範、姓は岩野氏、讃州那賀郡の人なり。…
一日猛省して松尾山に登り、金毘羅神に祈る。……
神現れて日く、我是れ天竺の神ぞ、而して摩但哩(理)神和尚を号して加持し、山威の福を贈らん。」
「…後、金毘羅寺を開き、禅坐惜居。寛(観)庶三年(一三五二)七月初朔、八十三而寂」(原漢文)
 ここでは、宥範が
「幼年期に松尾山に登って金比羅神に祈った」
と加筆されています。この時代から金毘羅神を祭った施設があったと思わせる書き方です。金毘羅寺とは、金毘羅権現などを含む松尾寺の総称という意味でしょう。
「宥範が・・・・金毘羅寺を開き、禅坐惜居」
とありますから金比羅堂の開祖者は宥範とも書かれています。裏書三項目は
「右此裏書三品は、古きほうく(反故)の記写す者也」
と、書き留められています。
金毘羅山旭社・多宝塔1


 宥雅が金光院の開山に、善通寺中興の祖といわれる宥範を据えることに腐心していることが分かります。これは、新しく建立した金比羅堂に箔を付けるために、当時周辺で最も有名だった宥範の名前を利用したのでしょう。
 それから70年近く経ち、金毘羅さんは讃岐で一番の寄進地をもつ最有力寺社に成長しました。金毘羅大権現の開祖を宥範に求める由来が世間には広がっています。さらに宥雅が書写した加筆版『宥範縁起』が善通寺側に伝わればどうなるでしょうか。善通寺誕生院の院主が「こっちが本寺で、金毘羅は末寺」と訴えても不思議ではありません。
 しかし、これは事実に基づいた主張ではありません。いろいろと「状況証拠」を挙げて主張したのでしょうが、受けいれられることはなかったようです。

金毘羅山本山図1
次に、その経緯を次に見ていくことにします。
民間の手による調停工作は?
 この争いがまだ公にならない前に、丸亀の備前屋小右衛門の親が仲に入って、一度は和睦の約束ができていたと丸亀市史は云います。宥睨の年忌のときに、国中の出家衆が金光院へ集まり会合することになっていました。ところが、出席するはずの誕生院禽貞がやってこなかったようです。そのために和談の話は流れてしまいます。禽貞にとっては、和睦は不満だったのでしょう。
 さらに、誕生院の本寺である京都の随心院門跡からも、山崎藩へ両院の争いを仲裁してほしいとの申し出があったようです。そこで、両院を呼んで、持宝院(本山寺)と威徳院(高瀬町)にも同席させ和解の場を設けましたが、うまく運びません。
sim (2)金毘羅大権現6

山崎藩による調停工作は?
 そこで金光院宥典は、自分の考えを山崎藩家老の由羅外記・奉行の谷田三右衛門・新海半右衛門へ申し出ます。その中で、慶安元年(1648)に金毘羅へ将軍家の朱印状が下されたことに触れて、次のように主張します

「愚僧儀は近年御朱印頂戴致し……右京太夫殿・志摩守殿(藩主)へも出入り仕り、御言にも懸り候へば、左様の儀を心にあて、旧規に背き非例の沙汰も申かと、志摩守殿又は各御衆中も思し召すべき儀迷惑仕り候」

 
誕生院禽貞の本末論争について、まったく根拠のない、言いがかりのような主張で迷惑千万と、のべています。志摩守殿とは、山崎藩二代志摩守俊家のことです。志摩守は、金光院の申し出に納得し
「皆とも誕生院へ異見挨拶致し、仕らる様に申し談ずべき旨申し付けられた。」
と、誕生院に言い聞かせて、しかるべき様に取りはからうよう命じます。 藩主の指示を受けて、家老たちは誕生院を呼んで、次のようなやりとりが行われたようです
「誕生院は丸亀山崎藩の領内、金光院は朱印地で他領になる。そのため松尾寺(金光院)を善通寺の末寺というのは難しい。証明する証文があるなら急いで提出するように」
誕生院「照明する文書は、ございません」
「証文がなければ、本末関係を判断することはできない」
といって席を立ちます。そして、次第を志摩守俊家に報告します。
報告を受けた藩主志摩守は
「誕生院のいわれのない主張のようだ。双方の和談にするように」
と命じます
20150708054418金比羅さんと大天狗
こうして、藩主命による調停が行われることになり、金光院院主宥典も呼ばれて丸亀へ出向きます。場所は妙法寺です。藩からは御名代として家老が出席しました。
 しかし、杯を交わす段になって、誕生院禽貞が
「和平の盃を誕生院より金光院へ指し申すべき取りかはしの盃ならは和睦仕る間敷く」
と、自分たちの主張が認められない調停には承服できないと言い出します。これには調停役をつとめた藩主も立腹して、
「以後百姓檀那ども誕生院へ出入り仕る間敷き旨」
と、誕生院への人々の出入禁止を申しつけます。
 禁門措置に対して金光院宥典は、誕生院の閉門を解いてもらえるように藩に願い出ています。その後、山崎藩は廃絶しますが、この事件を担当した家老たちの金光院にあてた手紙が残っています。これは金光院から、のちのち誕生院から異変がましいことを言い出すことがないよう先年の一件を確認しておいてもらいたいという願いに答えたもので、次のように記されています。
「後々年に至りて御念の為め……拙者など存命の内に右の段弥御正し置き成され度き御内存の旨、一通りは御尤もにて、併しその時分の儀、丸亀領内陰れ無き事に御座候へは、後々年に至り誕生院後主・同人衆も先年より証文・証跡これ無き事を重ねて申し立られるべき儀とは存ぜられず候」

「誕生院に、本末関係を証明する文書はないので、心配無用」ということのようです。事件後決着後に、金光院は本末論争を善通寺側が蒸し返さないように「再発防止」策として、山崎家を離れた家老の由羅外記、大河内市郎兵衛にまで連絡をとっていたことが分かります。
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 ところが金光院が心配した通り、誕生院は新領主となった京極家にも「本末関係」を申し立てるのです。「権現堂(金毘羅堂)御再興の遷宮導師食貞仕るべき旨」を提出し、金比羅堂再興の導師に誕生院主を呼ぶことを求めています。
 京極藩の郡奉行赤田十兵衛は、金光院にこのことについて問い合わせ、山崎藩時代の事件の顛末を確認し動きません。「それはもうすでに終わったこと」として処理されます。金毘羅さんの遷宮導師を、誕生院院主が勤めることはありませんでした。
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 以上をまとめておくと次のようになります
①山崎藩時代に善通寺は金毘羅金光院を善通寺の末寺であると訴えた。 
②その根拠は、金光院歴代の葬儀やお堂の落慶法要に善通寺の僧侶が導師となっていることであった。
③また、当時は金毘羅大権現は「善通寺中興の祖・宥範」によって建立されたという由緒が流布されていたこともある
④これに対して、山崎藩は和解交渉を行うが善通寺側の強硬な姿勢に頓挫する
⑤立腹した藩主は善通寺誕生院への立入禁止令を出す
⑥金光院は藩主への取りなし工作を行うと同時に、再発防止策も講じた。
⑦金光院の危惧した通り、京極藩に代わって誕生院は「本末論争」を再度訴える
⑧しかし、金光院の「再発防止策」によって京極藩は善通寺の訴えを認めなかった。

こうして見てみると、改めて感じるのは善通寺の金光院への「怨念」ともいえる想いです。これがどうして生まれたのか。それは以前にもお話ししたように、金光院の成り上がりともいえるサクセスストーリーにあったと私は思っています。

参考文献
       善通寺誕生院と金毘羅金光院の本末争い 丸亀市史957P