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 金毘羅さんには、いくつの鳥居があるの?  
①1782 天明二 高藪(現北神苑)  粟島廻船中 徳重徳兵衛 
②1787 天明七 二本木(現書院下) 江戸 鴻池儀兵衛他 
③1794 寛政六 牛屋口       予州 績本孫兵衛
④1794 寛政六 奥社道入口     当国 森在久       
⑤1848 嘉永元 阿波町(現学芸館前)三好郡講中
⑥1855 安政二 新町        当国 武下一郎兵衛
⑦1859 安政六 一ノ坂(撤去)   予州 伊予講中   
⑧1867 慶応三 賢木門前      予州 松齢構       
⑨1878 明治11 四段坂御本宮前  当国 平野屋利助・妻津祢
⑩1910 明治四三 闇峠       京都 錦講         
⑪1915 大正四  白峰神社上    岡山 中村某  
⑫1916 大正五  下向道      大阪 油商仲間他
⑬1918 大正七  白峰神社下    淡路 間浦喜蔵 
⑭1925 大正一四 大宮橋詰     愛知 金明講    
⑮1933 昭和八  桜馬場詰     東京 前田栄次郎  
⑯1955 昭和三四 奥社下    福岡県戸畑市山田宇太郎・同鈴子
⑰1974 昭和四九 桜馬場入口    愛媛県波方町 斎宮源四郎他 
⑱1982 昭和五七 奥社     香川県坂出 田中義勝・妻(ナエ)
現在ある鳥居がいつ、誰によって奉納されたかがこの表からは分かります。境内と旧町内のものだけだと18基が数えられるようです。しかし、これらの鳥居がはじめて、そこに建てられたことを意味するものではありません。以前あったものに代わって建て替えられたことも考えられます。

C-12-2
 ①~④の一番古い4基のグループが建てられたのは18世紀末で、それぞれの金毘羅街道の起点に建てられています。
①は多度津街道の起点の高藪町に、粟島の廻船衆が奉納
②は、丸亀街道の起点(現高灯籠)に江戸の豪商が奉納。
③は、伊予土佐街道の金毘羅領の入口に故人が奉納
④は、本社から奥社への参拝道の始点に三野郡の庄屋が。
この時期には、個人や少数者で奉納していて「講」による団体奉納はないようです。その後、何故か半世紀ほどの空白期間があります。第2期の鳥居建立は、幕末期になります。
⑤は阿波街道の起点に、阿波の人たちが奉納。
⑥は高松街道の起点に、高松の豪商が個人で奉納
⑦は、伊予土佐街道の起点に、伊予講中が団体で奉納。
奉納された8基の鳥居の建てられた位置を見てみると、仁王門(現大門)より内側のものはないようです。しかし、内側に鳥居がなかった訳ではありません。絵図などには、いくつかの鳥居が内にも描かれています。それらは石造ではなかったのかもしれません。
②明神鳥居

 明治になって、奉納によって石造の鳥居が大門の内側に建てられるのは、次の順番です
⑧賢木門外側 → ⑨四段坂御本宮前 → ⑩闇峠
と、かつての金堂(現旭社)から本社への間に、3つの鳥居が明治大正に建ちます。そういう意味では、思っていたよりも現在の鳥居が姿を現すのは新しいようです。
 
金毘羅さんで重要有形民俗文化財の指定を受けた鳥居は、上から数えて10番目までです。それが何で出来ているかで分類すると
石造製7
青銅製2
鉄製 1
立地場所で分類すると
1 境内 五
  書院下・賢木門前・闇峠・四段坂 奥社道入口 
  神苑2(学芸館前・北神苑)
2 街道  高松街道・土佐伊予街道・札ノ前
しかし、このうち次の三基は事情があって今の場所へ他から移転したものです。
①境内書院下の鳥居は丸亀街道から移転、
②神苑学芸館前の鳥居は阿波街道から移転、
③北神苑の高灯籠正面の鳥居は多度津街道から移転
この3つと旧位置に戻してみると、
 境内 4  街道 6
となり、金毘羅五街道の各街道口には、どこも鳥居が建っていたことになります。

  まず、指定されている境内にある4つを参道の下の方から順番に見ていくことにしましょう。
⑧賢木門(二天門)前の鳥居  明治になって松山の講中より奉納
 
2.金毘羅大権現 象頭山山上3

神仏分離以前の金毘羅の姿です。幕末に二万両をかけて完成した金堂を中心に多宝塔や諸堂が立ち並ぶ仏教伽藍世界があったことがよく分かります。神道的な空間は本社と三十番社の周りだけです。

 金堂(旭社)まで登ってくると、ここで参道は二つに別れます。
御本宮への登り道と、参拝を終え三穂津姫社をめぐって下る下向道です。
3 賢木門鳥居

⑧の鳥居は登り道の入口に建つ賢木(さかき)門の前にあります。青銅製の明神鳥居で、柱の銘文から伊予松山の松齢講が、慶応三年(1867)九月に奉納したものであることが分かります。
   この鳥居のすぐ左側に切り石の台座を据えた青銅製の角柱碑が建っています。
正面には大きく
「麻鐘華表(鳥居) 伊予国松山松齢構中」
とあり、この碑が鳥居と共に奉納されたもののようです。他の三面には講員の人名と奉納の経過、和歌などがぎっしりと刻まれています この碑文からは、次のような事が分かります。
①万延元年(1860)に青銅製の鳥居を奉納したが、鋳造がうまく出来てなかったのか自然に折れて壊れてしまった。
②慶応二年(1866)九月、再び青銅製鳥居の再建が発起され、明治四年十二月に落成
③明治十六年三月中旬にめでたく上棟式が行なわれた。
鳥居の慶応三年九月の紀年銘は、完成した年ではなく、再建発起した年のようです。
 この位置には、古い時代から鳥居が建っていたようです
1 金毘羅 伽藍図1
 境内変遷図を見ると、金光院から本宮までの参道は、かつては真直ぐに登っていたようです。それが金毘羅信仰の隆盛で人々で賑わい出すと諸堂がいくつも新しく建てられ、元禄頃に参道が延長され、登り道とは別に下向道も造られます。この鳥居は、参拝道と下向道を一目でわからせる意味もあって、はやくから建てられていたようです。
 現在の鳥居は高さが二四尺(約七・ニ㍍)と巨大で、加えて青銅製です。建設資金は相当かかったと思います。そのために「松齢講」という講が組織されます。講元は松山萱町二丁目の和泉屋蔵之助、発起人も同じ松山の三津ケ浜の三和屋常助です。講の構成を見ると、
①個人参加が933名、
②生串村中・三町村中といった村の有志からの寄進
③第一・第二金刀比羅丸・下怒和丸と船名があるので、船員からの寄進
④網方中といった漁師の奉納
 多くの人たちからの寄進を集めています。いわゆる「勧進」方式です。そのため発起から落成まで六年がかかっています。この鳥居を奉納するには、それだけ多くの人々の協力が必要だったということなのでしょう。
 講員は、現在の松山市を中心に中予全域に広がっていますが次のような特徴がうかがえます
①上浮穴郡久方町といった山間部では少ない。
②講元の和泉屋蔵之助か松山萱町二丁目で、発起人の三和屋常助も松山三津ヶ浜と、海沿いであることが影響している
③安居島・興居島・恕和島といった島嶼部や海岸線の村々に分布が濃く、仁社丸勝五郎・長久丸元吉といった船主の名前が見られ、金毘羅さんに海上安全などを願って寄附した人が多かった
 松山の豊かな経済力をもつ商人層と周辺の信者の合力で、奉納された鳥居といえるようです。
 闇峠の石鳥居    明治四十三年五月京都の錦講中から奉納
 賢木門を入ってすぐ右側の遥拝所から、手水舎をすぎてすぐのところにかかる連理橋までの間を闇峠と呼ぶようです。この間は、常緑樹が欝蒼と繁り、真夏の太陽の下でもなお薄暗い。そんなところから闇峠と名付けられたといいます。その手水舎の手前に鳥居が建っています。
3 闇峠鳥居
 闇峠の鳥居は花岡岩製の神明鳥居です。金毘羅さんに建つ鳥居は、神明が明神鳥居かのどちらかです。多いのは明神鳥居で、神明鳥居は、明治以後奉納された三つだけです。神明鳥居は伊勢神宮に代表される鳥居なので、明治以後国家神道の影響をうけて、奉納されるようになったようです。
 この鳥居は柱の銘文に、明治43年5月に京都の錦講中から奉納されたことが記されています。錦は京都市中京区の錦小路に面し、古くから生鮮・加工食料品店が建ち並ぶ「京都市民の台所」として有名な町です。奉納者として名前が記されている45人も、錦町の店主たちなのでしょう。
 錦からの奉納は、これがはじめてではないようです。この鳥居の奉納よりも80年ほど前の天保五年(1834))に、錦の魚立店の講中から燈船が一対奉納されています。賢木門前に並ぶ青銅製の燈船のひとつです。錦の人々のあいだでは、金毘羅信仰がつづいていたようです。

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  四段坂の鳥居                      37P
 闇峠を抜けると、御本宮を正面にあおぎ見る最後の石段が待っています。4つに別れているので四段坂と呼ばれます。この階段の途中、事知神社前に鳥居が建ちます。ここからは本宮まで、あと数十段の石段をのこすのみです。

3 四段坂鳥居
 この鳥居は花崗岩製の神明鳥居で、明治11年4月、丸亀の浜町に住む平野屋利助と津怜によって奉納されています。 鳥居は奉納物としては規模も大きく費用もかさみます。そのため個人での奉納は少なく、講中や仲間といった団体での奉納が普通です。先ほど見た賢木門前の青銅鳥居の伊予講中などがその代表例です。そんな中でこの四段坂の鳥居は、小さいとはいえ、個人の奉納です。

3 四段坂鳥居2
どんな人が奉納したのか興味がわいてきます
 奉納した平野屋利助は石工だったようです。金刀比羅宮の大門の前に、この鳥居と同じ明治11年12月に富山の売薬人中が奉納した石燈龍が建っています。花崗岩製で、笠の四面の軒先に破風をつくり出すなど、精巧な造りで職人芸を感じます。この石燈龍の銘に「石工平野屋利助」とあります。利助は腕のいい石工だったようです。
 ただの石工ではないようです。天保のころ(1830~48)の丸亀の町のことを描いた『丸亀繁昌記』のなかに、彼の店が次のように登場します。
 商売の元手堅むる礎には石屋のきも連りて 神社の玉垣、石灯龍、鳥居の出来合、望次第。施主の名をほる石盤に阿吽の高麗狗のき端を守る。石凛然と積上たり
 彼の店は、本にも取りあげられるほどの大きな石屋だったようです。鳥居を個人で奉納したのは、それまでの感謝や信心もありますが、利助自身が腕の良い職人として手広く商売を行っていたという経済力を抜きにしては考えられません。
 また、ここにはそれ以前から鳥居があったようです。享保ころの絵図には、四段坂に鳥居が描かれています。御本宮の前ということではやくから建てられたようです。

  奥社道入口の鳥居                   
 讃岐平野と瀬戸内海の眺望を後に、奥社への参道入口で迎えてくれるのがこの鳥居です。

3 奥社参道入口鳥居
花崗岩製の明神鳥居で、寛政六年(1794)仲秋(旧八月)に奉納されています。願主は三野郡(現三豊市)の次の4人の庄屋です。
羽方村(三豊郡高瀬町羽方)の森在久、
松崎村(同郡詫間町松崎)の白井胤林、
上勝間村(同郡高瀬町上勝間)の安藤清次、
大野村 (同郡山本町大野)の小野嘉明
3 奥社参道入口鳥居.2jpg

金毘羅が鎮座する象頭山の西側の三豊の村々です。これらの村の中には、象頭山や大麻山の西側に入会権を持ち芝木や下草刈りによく登ってきていたようです。近世初頭までは、大麻山の頂上稜線一体は、牛や馬の牧場であったことが資料からは分かります。本社から奥社への道は、修験者の通う修行の道であると同時に、農民たちにとっては下草刈りなどの生活の道だったと私は思っています。

以上、金毘羅さんの重要有形民俗文化財に指定されている10の鳥居の中で、境内に建てられた4つを見て回りました。感じるのは、案外新しいものだということです。今ある鳥居は、全て18世紀末になって姿を現したというのが以外のようにも感じます。
 金毘羅さん=古くからの神社という先入観に囚われすぎているのかもしれません。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献  印南敏秀  鳥居 
         「金毘羅庶民信仰資料集NO2」