前回は重要有形民俗文化財の指定を受けた鳥居10基の内で、境内にある4基を見て回りました。今回は、残り6基を見ていきます。これらは琴平に集まってくる5本の金毘羅街道の起点に作られたものです。しかし、時の流れの中で最初に建てられた所から移動しているのもあるようです。
古い順に鳥居を並べてみると、次のようになります
①1782 天明二 高藪(現北神苑) 粟島 廻船中 徳重徳兵衛
②1787 天明七 二本木(現書院下) 江戸 鴻池儀兵衛他
③1794 寛政六 牛屋口 予州 績本孫兵衛
④1794 寛政六 奥社道入口 当国 森在久
⑤1848 嘉永元 阿波町(現学芸館前)三好郡講中
⑥1855 安政二 新町 当国 武下一郎兵衛
⑦1859 安政六 一ノ坂(撤去) 予州 伊予講中
⑧1867 慶応三 賢木門前 予州 松齢構
⑨1878 明治11 四段坂御本宮前 当国 平野屋利助・妻津祢
⑩1910 明治四三 闇峠 京都 錦講
まずは①北神苑(高灯籠公園)の鳥居です。
この鳥居はもともとは、多度津街道の高藪口に建っていました。写真のように鳥居が建てられると灯籠が並んでいくようになり、多度津からの参拝客を迎える玄関口の役割も果たしていました。
ところが昭和48年、この鳥居に生コントラックが衝突し一部が壊れてしまいます。そのために安全性を考え、高燈龍の南側正面に移されたようです。移築の背景には、モータリゼーションの普及で狭い旧街道にも車が入ってきて、通行の邪魔になり出したという社会的背景があるようです。道路拡張と共に、旧街道を跨いでいた鳥居は「邪魔者」として取り除かれたり、移築されるようになります。しかし、移築先は高灯籠の正面で一等地です。今では最初からここにいたような顔で、建っています。
この鳥居は花崗岩製の明神鳥居で、約240年前の天明二年(1782)に粟島廻船中によって奉納されています。今ある鳥居の中では最も古いものになるようです。粟島(三豊市詫間町)は庄内(三崎)半島の沖合に、3枚のプロペラの様な形で浮かぶ小島です。ここは塩飽諸島と同じように古くから優れた船乗りのいたところで、江戸時代になり海上運送がさかんになると、廻船の船主、あるいは船乗りとなって活躍し、島に大きな富をもたらします。この鳥居は海上運送で大きな役割をはたした粟島廻船の船主や船乗りたちによって奉納されたようです。
この鳥居の奉納経過を、残された資料から見てみましょう。
建立の前年安永十年(1781)に建立願が次のように出されています。
乍恐奉願上口上之覚笠石共惣高 壱丈六尺五寸一石ノ鳥井 横中ノ庭サ地際二而内法り壱丈六尺柱ふとささし渡り 壱丈五寸右者丸亀御領阿波嶋(粟島)庄屋徳右衛門、
御宮山江御立願御座候二付、此度御願申上建申度由御座候、数年私方常宿二而熟懇二仕候、何卒御願申上呉候様ニト申參候、右願之通被為仰付被下候ハバ難有奉存候、右之段宜被迎上被存候様卜奉願上候。以上内町 中嶋屋長七安永十年丑四月十六日組頭 嘉原治殿
意訳すると
恐れながら次の通り鳥居奉納について願い出ます笠石も含めて全体の高さは壱丈六尺五寸石造の鳥居で 笠石を除くと内法は壱丈六尺柱の長さは 壱丈五寸この鳥居を、丸亀藩の阿波嶋(粟島)庄屋徳右衛門が、お宮へ奉納をお願い申し上げます。この旅の奉納願いは数年前より考え、計画してきたことです。何とぞ、お聞き届けいただき、この計画書通りに許可していただければ有難いことです。以上通り、謹んでお願いいたします。以上 内町中嶋長七
阿波嶋(粟島)の庄屋徳右衛門(徳兵衛の間違い)は、鳥居に名前が刻まれている「取次 徳重徳兵衛」のことで、内町中嶋屋長七とあるのが「世話人富所、中嶋屋長七」のことです。つまり、粟島の徳兵衛が金毘羅参拝の際に、定宿としている内町の中嶋屋長七に粟島廻船中が鳥居を奉納する願いをもっていると相談をもちかけ、それを長七が金毘羅当局に聞きとどけてもらえるようにと組頭嘉原治に申し出た文書です。
しかし、この申し出は一度では聞きとどけられなかったようす。
翌年の天明二年(1882)3月15日に再び同じような書状が長七から嘉原治に出されています。
翌年の天明二年(1882)3月15日に再び同じような書状が長七から嘉原治に出されています。
なぜ許可が下りなかったのでしょうか。
それは建立を申請した場所に問題があったからのようです。
「高松様並びに京極御両家其外他國諸侯方より萬御寄附物留記」の天明2年4月朔日の項に次のような記録があります。
高藪町入口江 石鳥居丸亀領粟嶋 庄屋徳右衛門より寄附但一之坂上り口江相建中度願出候得共、御神前より一ノ阪迪鳥居之数四ツニ相成不宜候二付及断高藪町入口江取建候事
意訳すると
高藪町入口へ石鳥居が丸亀領粟嶋の庄屋徳右衛門より寄附された。ただし、最初は一之坂上り口へ建設願い出されたが、ここは神前から一ノ阪までの鳥居の数が四つ目になるため宜しくない。そのためにこの場所に建てることは断り、高藪町入口へ変更した。
一之坂上り口は、内町方面からの参拝道と、伊予土佐方面からの参拝道が出会い、金毘羅五街道すべての道が一つになるところで、最も参拝客で賑わうところです。そのため札場も置かれていました。奉納者の気持としては、より神前に近く、より多くの参拝者の目にふれる所に建てたいと願うのは当然のことです。しかし、金毘羅さんにも思惑があります。この時点では一ノ坂に鳥居をたてるのは「不吉」と判断したようです。結局、一ノ坂上り口ではなく高藪入口に建立するこで許可が下りたようです。
ところで、この鳥居の笠の部はバランスを失なっていると研究者は指摘します。その理由は、笠を中央で支える額束が短かすぎるためだと云います。これについては嘉永七年(1854)の11月の金光院当局の書きとめた記録に次のようなものがあります。
新町石島居柱損少し西へ傾き、高藪口石鳥居笠木四寸斗喰違候由申出手常申付候へども及暮笠木等も難出来、今晩は番人附置通行人用心可致、明朝より足いたし飯高藪口ハ外二明地有之候ゆへ鳥居下ハ縄張いたし通不中段夜四ツ時村井為右工門拙宅へ来り申出候事
意訳すると
新町の石島居の柱が損傷し西へ傾き、高藪口の石鳥居も笠木が四寸ほど食い違っていると報告があった。今晩は監視人を付けて通行者に用心するように知らせ、明朝より対応することにした。高藪口は周りに空き地があるので、鳥居の下は縄張して通行禁止にした。夜四ツ時に村井為右工門がやってきて以上の報告を受けた。
嘉永七年(1854)の大地震は、讃岐にも大きな被害を与えました。前年に底樋工事を行った満濃池も工法ミスから堤防が決壊し、金毘羅の町も多くの橋が流されます。地震の揺れで、この鳥居も笠木が中央部で、四寸(21㎝)喰違ったとあります。このとき笠木をうける額束もいたみ修理を行ったのが、今の姿ようです。今では鳥居の建っていた一帯は家が建ち並んでいますが、その当時は空地がいっぱいあったことも分かります。
書院下の鳥居 丸亀街道の起点・二本木の金鳥居
現在、境内の書院下に建つ青銅製の黒く見える大鳥居は、もと丸亀街道が金毘羅領に入ってすぐのところに建っていました。上図の右手に建っている黒い鳥居です。ここには、丸亀街道をはさんだ両脇に一里塚の松と桜の大樹があったところから二本木と呼ばれていました。そのためこの鳥居も二本木の鳥居と呼ばれるようになります。
丸亀からこの鳥居までは百五十町、今でもここには「百五十町」と書いた町石があります。丸亀から馬や駕寵できた参拝者も、ここからさきは歩いて参拝したと云われます。
その間の経過を史料で見ていきましょう。
天明八年正月に、鴻池儀兵衛、世話人鴻池太良兵衛・同栄蔵の連名で、鳥居の各部寸法、および青銅の重量を記したものが提出されています。先ほどの場合もそうでしたが奉納を願うときには、奉納物の寸法も書き添えています。それは、鳥居を建てる用地が問題となるからでしょう。
「二本木鳥居用地覚書」によると、
天明八申三月、江戸鴻ノ池儀兵衛抒中田藤助と申仁施主二而二本木下之唐金鳥井寄進有之、則三月廿二日右藤助十人斗大召連到着有之、廿五日尊勝院此方多聞院同道二而二本木下地とこ見分候處、追々尊勝院より藤助へ及相談東西場所田地 禰右衛門持地高屋禰右衛門持地五間四方相調相済書附也
意訳すると
天明八(1789)申三月、江戸の鴻ノ池儀兵衛が而二本木に唐金(青銅)鳥居を寄進した。3月22日に 藤助が関係者を連れてやって来た。25日尊勝院と多聞院が同道して、二本木の建設予定地を下見し、具体的な建設地点を確認した。その上で、建設予定地の持ち主である禰右衛門と高屋禰右衛門の同意を取り付け、書類も提出させた。
こうして、用地も整い二ヶ月後の五月に完成します。高灯籠が姿を現すのは幕末ですので、この鳥居の姿は、ランドマークとして旅人の目を奪い、丸亀街道を通った人の旅日記にも必ず記されるようになります。菱谷平七の旅日記には
道の中に大なるからかねの鳥居あり、江戸の人びとの建てるよし
とあります。金毘羅の町の人たちも親しみを込めて「かねんとりい(金鳥居)」と呼ぶようになりました。
ところが25年後の文化十一年(1814)10月26日の夜に台風による大風が吹いて、この鳥居は倒れてしまいます。この灯籠はみんなから愛されるものになっていましたから、丸亀と金毘羅の多くの人々のボランテイアなどによって、4年後の冬に再建にとりかかり、文化同十五年の二月二十七日に完成します。
明治時代の写真
再建から約80年後の明治三十五年再び倒れるのです。このときは、しばらく倒れたまま放置されたようです。再再建されるのは大正になってからで、大正元年九月に姿を見せます。この時の再建には、大阪四天王寺生まれの十二代朝日山四郎右衛門の寄附や、同じく大阪の鋳縫人の協力によって行われたようです。そして10年後に、二本木から現在の書院下に移されます。
命あるものは死に、形あるものは壊れるのが必定です。出来上がった時には、その立派さから壊れたり朽ちたりすることまで考える人はあまりいません。しかし、半世紀も経つと青銅や石の灯籠でも壊れるのです。それが修理され維持されていくのは、信仰という心で結ばれた人たちの手がさしのべられたからなのかもしれないと思うようになりました。 この鳥居は天明八年に建立されてから現在まで、江戸・大坂・丸亀・金毘羅といった多くの人々の協力で維持されてきたようです。
この鳥居の履歴をまとめておきます。
天明七年 (1787年)丸亀街道、金毘羅町口の二本木に建立
文化11年(1814年)大風により破損倒壊
文化15年(1818年)再建
明治35年(1902年)8月28日、破損取壊し
明治45年(1912年)6月10日、再建起工
明治45年(1921年)10月9日、金刀比羅宮社務所南側に移転建立
牛屋口の鳥居
土佐伊予方面からの参拝者は、伊予川之江から讃岐の豊浜に入り、伊予見峠を越えて佐文(さぶみ)の牛屋口から金毘羅領に入りました。牛屋口は、象頭山のちょうど鼻の部分にあたり、街道最後の峠で金毘羅領への入口でした。ここは、琴平から豊浜方面に抜ける新道が別ルートでできたため、むかしの雰囲気が残る数少ないスポットです。ここの狛犬は個人寄進により川之江の石工によって掘られたもので特徴があります。この狛犬については、以前に紹介しましたの省略して先へ進みます。狛犬の向こうに鳥居が建ち、それに続く道筋の左側は、石垣を築いた上に土佐から奉納された石燈龍が並び建ちます。
さてここの鳥居ですが、寛政六年(1794)の銘があり、この峠に2番目に現れた奉納品のようです。一番早いのは前年に奉納された参拝碑です。それに続いて、石燈龍が明治はじめにかけて次々と奉納され、立ち並んでいくようになります。ここでも奉納品のスタートは鳥居です。
この牛屋口の鳥居は花崗岩製の明神鳥居で、予州宇摩郡野田村(愛媛県宇摩郡土居町野田)の績木孫兵衛宗信により奉納されたものです。 績木家は代々庄屋をつとめた名家で、野田村の金毘羅信仰の中心にいた家です。これも個人寄進で左側の柱に奉納者の績木孫兵衛宗信の名前だけが刻まれています。
学芸参考館前の鳥居 阿波街から移された阿波鳥居

南神苑(神事場)から新町に至る一帯を阿波町と云います。阿波から金毘羅に来た人々が、まずこの町に入ってきたからこの地名がついたようです。現在、学芸参考館前に建つ鳥居は、もともとは阿波町の人口、南神苑の東側に建っていました。ところが、多度津街道の鳥居と同じで、自動車の時代をむかえ、大型車が通りぬけできないようになります。石鳥居を保存する上でも、通行円滑のためにも移転されることになります。それで昭和三十年代のはじめ解体され、学芸参考館の前方に移されたようです。
この鳥居は、嘉永元年(1848)に阿波国三好郡講中の数多くの人たちによって奉納されています
三好郡は阿波国では西端で、金毘羅とは阿讃山脈をはさんで背中合わせの関係にあります。人的・経済的な関係も深かったようです。鳥居の銘文にある講中の村々を見てみましょう。
東山・昼間・足代(三好町)太刀野・太刀野山・芝生(三野町) 中庄・西庄・西庄山・加茂(三加茂町) 辻・西井川(井川町) 池田・州津・西山(池田町)
と吉野川の両岸に分布する村々です。その中心部にあたる昼間村から講元引請人と世話人四人を出しています。この近くには「金毘羅さんの奥社」を自称する箸蔵寺があります。箸蔵寺は真言密教系の修験者の寺で、いつの頃からか金毘羅大権現を祀るようになり、周辺に金毘羅信仰を広げていきます。そのため信者たちは、本家の金毘羅さんにも定期的にお参りする人が増えてくることは以前にお話ししました。箸蔵寺は今も金毘羅大権現を祀る寺院ですが、その境内の玉垣には日本に留まらず朝鮮や中国東北部からの信者の寄進が数多く見られます。戦前に至るまで活発な宗教活動が行われたいたことがうかがえます。それが現在の立派な仏教伽藍にも現れているのでしょう。
そのような中で昼間村を中心とした集金マシーンが働き、鳥居の寄進となったのではないかと私は考えています。
新町の鳥居 高松街道の起点

新町の鳥居は、旧高松街道の新町商店街の中に建っています。花崗岩製の明神鳥居で、安政二年(1855)、高松市川部町の武下一郎兵衛によって奉納されたものです。これも個人奉納です。
一郎兵衛は、中讃から東讃にかけての酒と油の販売権をもっていた人で、盛期には使用人が百人をこえ、掛屋・札差といった金融業など手広く商をしていた商人です。この鳥居が奉納された頃は、彼の事業の最盛期でもあったようです。
この鳥居には、笠木の裏側に剣先型の彫り込みが見え、不動明王の種子と願文が彫られていると研究者は云います。残念ながら私には確認できません。この彫り込みは建造物の棟札をイメージしたものと研究者は考えているようです。
しかし、掘られているのが不動さまというところ引っかかってくるものがあります。不動明王は修験者の守神です。奉納者と修験道に何らかの関係があったのではと勘ぐってみたいのですが、いかんせん資料がありません。
新町には以前から鳥居が建っていました。金毘羅さんへ奉納された鳥居のなかで街道に建てられたものとしては、新町のものが一番古いのではないかと研究者は考えているようです。
元和七年(1621)に、「新町に鳥居が建った」という最初の簡単な記事があるようです。
次は寛永十年(1633)でと『古老伝旧記』の中に次のように記されています。
新町石之華表(鳥居)之事寛永十契酉年造立(朱)
「施主当國岸之上村荒川安右衛門」惣高さ壱丈八尺弐寸 笠木厚壱尺八寸内のり壱丈三尺三寸 笠木長弐丈五尺柱廻り目通にて 五尺六寸右鳥居は古は木にて有之也
岸之上村の荒川安右衛門が木の鳥居にかえて石の鳥居を建てたとあります。木の鳥居は元和七年のもので、11年後に石の鳥居に建てられたということでしょう。しかし、この鳥居は嘉永七年(1854)末に火事や地震で倒れ、取除かれてしまったようです。その翌年になって建てられたのが現在の鳥居になるようです。
元禄時代の「祭礼図屏風」には、前の鳥居が描かれています。その位置は高松街道と丸亀街道が出会う合流点です。つまり今の鳥居より50㍍ほど金毘羅さん寄りに建っていたようです。
文化年(1804~17)の末頃に書かれた『中国名所図絵』には、この鳥居について
「石鳥居(丸亀街道から)新町を行常り角にあり。右は參詣道、左は高松街道(後略)」
と記されます。
屏風図をもう一度見てみましょう。ここには10月10日の大祭に、お山に上がっていく頭人行列の人々が枯れています。彼らは高松街道(右)をやって来て、金毘羅さん(左)に動いていきます。それを見守る人々の姿も描かれています。注意してみて欲しいのは、白い鳥居の前で高松街道と丸亀街道が合流し、人々が密集していることと、その右手に白い柵(木戸)があることです。ここが金毘羅領と天領の榎井村の境界であったようです。現在の鳥居が建っている位置は、このあたりになるようです。現在地になってからは、丸亀街道をやって来た人たちがこの鳥居の下をくぐることはなくなりました。
前回も触れましたが、金毘羅さんの石鳥居で現在残っているものは近世後半のものです。近世前半のものはありません。金毘羅さんだけでなく鳥居自体が中世以前のものは少ないようです。ほとんどが近世中期以後と考えてよいと研究者は云います。その理由としては
①石鳥居を造る技術をもつ石工が全国的に少なかった②鳥居は大きくて重量で運搬も大変であった
こういったことを合せて考えると、寛永十年に高さ5,5㍍と小形ではあっても石鳥居が奉納されていることは誇るべき事なのだと思います。
コメント
コメント一覧 (1)
ありがとうございます。
以下、些細なことなのでスルーしていただいても構いません。
1、元禄屏風に描かれている新町と榎井村の境の白い柵のある場所は鳥居のある所より50mほど東のJRの踏切がある所で、すぐ横に小川があり、それが昔からの境界線だと聞いています。鳥居から北に延びる道は国鉄琴平駅が大正12年に移転してきたときに作られた道で、南に延びる道は昭和後期に開通した道です。
2、「阿波町の鳥居」は昭和30年ごろ裏参道入り口、大祭の時、馬を留めておく広場にありました。子供の頃よく遊びました。(写真あり)その後学芸館下に再移転されました。時期はわかりません。
長々と失礼しました。
もし、金毘羅絵図などに興味がありましたらご連絡ください。当方沢山あります。
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