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幕末の「金毘羅参詣名所圖會」[1847]に描かれた象頭山松尾寺金光院を見てみましょう
大門をくぐって桜馬場からの参道は、石段も玉垣も見えません。ここを登りきると、金堂(現旭社)前の広場にたどり着きます。金堂は、三万両という巨費をかけて2年前(1845)に完成したばかりでした。清水次郎長の代参でやってきた森の石松が、これを金毘羅大権現の本社と勘違いして帰ったと伝えられますが、それほど立派な建物です。当時は「西国一の建物」とも云われたようです。
 この金堂の下には多宝塔が建っています。真言密教の寺であることの存在証明のようなモニュメントです。この他にも鐘楼などの建物が建ち並ぶ姿が描かれます。金毘羅大権現の境内は、神社と云うよりは仏教伽藍と呼ぶ方がふさわしかったことがよく分かります。
 さて今回は玉垣を見ていきます。金堂の右側の石段は、下り専用です。ここには、石段がまっすぐに描かれています。しかし、玉垣は見えません。まだ作られていないようです。さらに、金堂の登ってくる左下の坂道を見ると、ここには石段もないように見えます。

それから7年後の「讃岐名所圖會」(1854)に描かれた金堂です。
★「讃岐名所圖會」にみる金刀毘羅宮konpira2

描かれた角度がちがいます。作者は、新たな構図から描かれた俯瞰図をめざしたのでしょう。金堂と多宝塔の位置に注意しながら90度くらい回転させた構図になります。蟻のように参拝者が描かれて金毘羅さんの「繁盛ぶり」が伝わってきます。
 旭社周辺の様子を、7年前の絵図と比較してみると・・・・
①旭社前の坂道は、石段が整備され玉垣もある。
②灯籠が立ち並んでいる
③二天門が移築され、前に鳥居が建立されている
④二天門に続く参道には長い回廊(休息所)ができている
⑤一直線であった本宮からの下り道が90度に曲がって下りてくるようになっている。
今回は脇目を振らずに玉垣に集中するために①②のみを追いかけます
  それでは、多宝塔から金堂へ上がっていく玉垣はいつ整備されたのでしょうか?

★「讃岐名所圖會」にみる多宝塔2

  それをしるための工具が「金毘羅庶民信仰資料集巻2」です。
4 玉垣旭社前
「金毘羅庶民信仰資料集巻2」

ここには文化財に指定された鳥居・狛犬・石段・敷石・祈念碑・玉垣がすべておさめられています。たとえば、多宝塔から金堂への坂道の玉垣には、右側がT22、左側がT23の番号が打たれています。そして、その親柱と小柱に刻まれた奉納者氏名や住所・奉納年月日・取次者・石工までが載せられています。
それでは玉垣T22を見てみましょう。
 
4 玉垣旭社前11
一番下の起点になる親柱に刻まれた奉納年月日は
嘉永6(1853)年五月吉日です。「讃岐名所圖會」(1854)が描かれた前年に、この玉垣は完成したようです。その下に名前があるとのは、取次世話人で実質的な責任者で、資金集めや支払い、金毘羅金光院と連絡事務などをすべて行った人物で、大きな旅籠の主人などが務めることが多かったようです。
そして、親柱と親柱に小柱が5本あります。そこに寄進者の名前が刻まれることになります。ここには「米屋周助」とあります。5本目は「米屋周次郎」とありますから、跡継ぎでしょうか。そんなことを想像していると、何かしらドラマが生まれそうな気がしてきます。
さて、これを寄進したのはどこの人たちなのでしょうか?
それは、この玉垣の一番上の最後の親柱8に刻まれています。

4 玉垣旭社前12
  親柱8にはもう一人の世話人の住所が「予州松山三津濱(浜)」とあります。松山の外港で繁栄した三津浜の商人たち寄進した玉垣だと分かります。親柱6と7の間の小柱には「海上安全」とありますので、三津屋は廻船問屋など海に関係した商売に携わっていたのかもしれません。
今までの所を確認しておきましょう。
 玉垣を奉納する場合、親柱の数が十数本あるのが普通です。
一連の玉垣は100人近くの奉納者によって建立されたということになります。そして、奉納年月日や願主、世話人は、端の親柱の1ヶ所にしか彫られていません。したがって一連の玉垣の親柱、小柱に彫られた多くの人名は、何らかの関係で結ばれた人々と考えられます。

4 玉垣旭社前90

 玉垣はそれまでの灯籠や鳥居などに比べ、ひとりひとりの名前を親柱・小柱に大きく彫りつけることができます。長い参道を登る金毘羅さんの参拝客にとってはいやが上にも目に入ってきます。これは奉納者にとっては魅力であったはずです。金比羅講で参拝した裕福な商人たちが、まだ繋がっていない玉垣をみて、ここに私たちの名前を刻んだ玉垣を奉納しようと話し合い、定宿の旅館の主に相談すれば、後の事務手続はすべてやってくれます。お金を支払うだけです。
 こうして、境内の長い参道に玉垣が短期間に出来上がっていったようです。
4 玉垣旭社前122

   金堂が30年近い工期を経て完成するのが1845年でした。
金堂完成に併せて石段や敷石などの周辺整備も進みます。それと同時歩調で玉垣整備が進められたのがこの表からはわかります。その契機になったのが金堂完成なのでしょう。ここでも石の玉垣が姿を現したのは幕末になってからで、思ったよりも新しいことが分かります。

  それでは、石の玉垣が現れる以前は、どうだったのでしょうか?
 『金毘羅参詣続膝栗毛』を書いた十返舎一九は、『讃岐国象頭山金毘羅詣』(文化七年-1810)に桜馬場あたりのことを、次のように記しています。
  「坊舎の桜樹は朱の玉垣と等く美し」
ここからはこの時の桜馬場の玉垣は、奈良時代のような朱塗りの木造であったことが分かります。鳥居が木造から石造に代わったように、玉垣も最初は木造で、それが幕末期に石の玉垣が大量に出現するようになったのです。玉垣建立の年代をしめした上表からも、江戸時代の末期から石造玉垣が急増していったことが分かります。。
この向かいのT23の玉垣は、どんな人たちの寄進なのでしょうか?

4 玉垣旭社前1222
T23の玉垣の寄進年月日を見ると寛成8(1796)年10月7日とあります。T22よりも半世紀も前のものです。初期に作られた玉垣の一つです。左側の玉垣はできても右側はなかなか姿を見せなかったようです。10月10日の大祭の前にやって来て奉納の儀式を終えたのかもしれません
 この玉垣には「玉垣講」とあります。
玉垣講には、大洲城下講中、米湊村・宮之下村講中(大洲城下講中)、小豆島厚演講中、明石吹上村講中・井出村講中・和坂村講中(明石玉垣講中)、松山城 下大唐人四丁目講中など、城下町や村単位の講があったことが分かります。この玉垣は大洲の玉垣講ですが、特徴的なのは大洲城下だけでなく周辺の村々の講中も加わっていたようです。
   地名でなく、おめでたい言葉がつけられた講もあります。
 鶴亀講、栄講、賓来講、金吉講、永代講、繁栄講、繁昌講中、栄壽講、金豊講などで、兵庫の鶴亀講、栄講などに見られるように、商人たちの講で、商売繁昌を願ってつけられることが多かったようです。
  講のあり方を示す言葉が名称になったものもあります。
 月参和順講(大洲)・初日講(兵庫)月参和順講は、毎月、講から代表の参拝者を出していたところからつけられた名前でしょう。初日講は、毎月の一日に参拝者を出すか、あるいは、その日ごとに集まって金毘羅さんを拝むなどしていたのでしょう。
4 玉垣旭社前12224

こうした人々の信仰心に支えられて、玉垣寄進は幕末に爆発的に増えて、急速に金毘羅さんの境内は整備されていったようです。どこにもないような玉垣と石段と灯籠の続く参道を人目みたいとと参拝客は増え続けたのです。
以上をまとめておきます。
①19世紀になり東国からの金比羅詣が増え、参拝客は増加した。
②これを背景に、1845年に総工費三万両をかけた金堂が完成した。
③新たな観光名所とするために金堂周辺の整備が進められた。
④その一環が参道の石段化や玉垣・灯籠の整備であった。
⑤こうして19世紀半ばには、金毘羅さんの参道は、石で白く輝く参道に生まれ変り、周辺の寺社と差別化が進み、さらなる参拝客の増加へとつながった。
⑥周辺の寺社の坂道が石段化し、玉垣で囲まれるようになるのは、幕末以後の明治になってからのことであった。

   以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。