旱魃の際に、丸亀藩が善通寺に対して雨乞祈願を命じています。藩の正式な命を受けて、善通寺は雨乞祈祷を行っています。そのことを最初に知ったときには不思議に感じました。なぜなら雨乞いは旱魃に苦しむ庶民が自発的に、村々で行うものという先入観が私にはあったからです。
しかし、考えて見ると王権と治水灌漑が密接な関係にあったことは中国の禹伝説に見る通りです。治水灌漑を行い、水をコントロールし、それを水田に提供できる者が「治者」として、支配の正当性を得てきました。そこからは
「水を治めるものが、国を治める」
という概念が生まれます。
江戸時代の讃岐生駒藩で、大干ばつが頻発し、藩政が危機的な状況に陥ったときに、その保護者であった藤堂高虎が命じたことは大規模なため池を各地に作らせることでした。難局打開のために藩が汗を流している姿勢を見せ、そこに百姓を動員し関わらせることによって藩内の求心力の核を作り出そうとする政治的な思惑もあったかもしれません。ため池築造や河川工事のために藤堂高虎が派遣していた西嶋八兵衛は、その際に「禹」碑を建立しています。ここからは藤堂高虎や西嶋八兵衛にも「水を治めるものが、国を治める」という統治意識が心に刻まれていたことが分かります。
しかし、ため池ができても、水は確保できるとは限りません。
雨が降らなければ、貯めようがないのです。雨を降らせる力も王たる者には求められたようです。王は「レインメーカー」であり、雨を降らせる能力を持つ者こそが,王権を維持できたと云えるのかもしれません。そして、古代国家の成立と共に、王の呪術的力による雨乞いから、国家による組織的な雨乞いへと変化、成長するようです。今回は、その過程を見ていこうと思います。
雨が降らなければ、貯めようがないのです。雨を降らせる力も王たる者には求められたようです。王は「レインメーカー」であり、雨を降らせる能力を持つ者こそが,王権を維持できたと云えるのかもしれません。そして、古代国家の成立と共に、王の呪術的力による雨乞いから、国家による組織的な雨乞いへと変化、成長するようです。今回は、その過程を見ていこうと思います。
テキストは「藪元晶 国家的祈雨の成立 飛鳥・奈良時代の祈雨 雨乞儀礼の成立と展開」です。
旱魃そのものが『日本書紀』に記載されるは、推古天皇36年(628)のことです。その四月の条に、次のように記されています。
春より夏に至るまでに、旱(ひでり)す。
この記事の後は、舒明天皇八年(636)・皇極天皇元年(642)と連続して見られます。舒明天皇八年の条には、
是歳、大きに旱して、天下飢す。
とあり、皇極天皇元年六月の条には、
是の月に、大きに旱る。
とあります。そして、この年の7月に初めて祈雨の記事が登場します。大化の改新の直前になって、国家にとっての異常気象や災害の意味を受け止め、記録しようとする意識が形成され始めたようです。
祈雨の初見記事である皇極天皇元年(642)の記事を見てみましょう。7月から8月にかけてのことです。
秋七月(中略)戊寅に、群臣相語りて曰はく、
「村村の祝部の所教(おしえ)の随(まま)に、或いは牛馬を殺して、諸の社の神を祭(いの)る。或いは頻(しきり)に市を移す。或いは河伯(かわのかみ)を祷る。既に所敷(しるし)無し」といふ。
7月の末から雨が降らず旱魃が続きます。そこで、まず群臣が神祇的な方法でいろいろと祈雨を行います。 祈雨のために民衆がどんなことをやっているかを見てみると
①村々の祝部の教えるところに従って、牛馬を殺して諸社の神を祀ったり、②何度も市を移したり、③河の神に祈ったり
しています。その方法は、中国の史書に出てくる祈雨と、殆ど同じのように思えますが、ともかく神に対していろいろな方法で祈雨を行っています。しかし、効果がありません。
蘇我大臣報(こた)へて曰はく、「寺寺にして大乗経典を転読みまつるべし。悔過すること、仏の説きたまふ所の如くして、敬びて雨を祈(こ)はむ」といふ。庚辰(27日)に、大寺の南の庭にして、仏菩薩の像と四天王の像とを厳(よそ)ひて、衆の僧を屈(いや)び請(ま)せて、大雲経等を読ましむ。時に、蘇我大臣、手に香炉を執りて、香を焼きて願を発す。辛已(28日)に、微雨ふる。壬午(29日9に、雨を祈(こ)ふこと能はず。故、経を読むことを停む。
続いて、蘇我大臣蝦夷が「寺寺に命じて大乗経典を転読」させるという仏教的な方法で降雨祈願を行います。その結果、わずかに雨は降りますが、水不足解消には至りません。そこで女帝皇極天皇の登場です。
八月の甲申の朔(一日)に、天皇、南淵の河上に幸して、脆(ひざまづ)きて四方を拝む。天を仰ぎて祈ひたまふ。即ち雷なりて大雨ふる。遂に雨ふること五日。溥(あまね)く天下を潤す。或本に云はく、五日連に雨ふりて、九穀登り熟めりといふ。是に天下の百姓、倶に称万歳びて曰さく、「至徳まします天皇なり」とまうす。
そこで、皇極天皇が南淵の河上で祈雨を行うと、たちどころに5日間にわたり雨が降り、水不足は解消します。これに民衆は「至徳まします天皇なり」と、讃えたというのです
ここには、蘇我蝦夷が行うと小雨で、天皇が行うと大雨という対比の仕方から、天皇の呪力の方が蝦夷の呪力よりも勝っていたことを伝えることに書紀の重点は置かれているようです。
そのことを配慮しながら焦点を当てたいのは、祈雨行為を誰が行っているかです。
そのことを配慮しながら焦点を当てたいのは、祈雨行為を誰が行っているかです。
祈雨は、どうも群臣がそれぞれ別個に行っているようです。祈雨について話し合われた場には、群臣が集まり、蘇我蝦夷もいます。ここは朝議の場のようです。そこで「群臣相語りて曰はく」と、政権要人たちがそれぞれに自分の所で行った祈雨についての報告をしているシーンととれます。朝議で、祈雨のことが話されているとしておきましょう。これは旱魃への対応(=祈雨の実施)が国の政治的な検討課題となっていることがうかがえます。
この記事からは、朝廷が音頭を取って祈雨を行っているようには見えません。
群臣たちがばらばらに、それぞれの神々に対して祈雨祈願(祭)を行っているのです。このようなあり方が、この時期までの国家の祈雨のあり方であったと研究者は考えているようです。
それに対して、国家的見地に立って祈雨を行おうとしたのが蘇我蝦夷です。
彼は、寺々に大乗経典を転読させています。いかにも、仏教を重んじた蘇我氏らしい方法です。ここにある寺々というのは、豪族たちの建てた氏寺を含めてのことでしょう。それらの寺々に対して、具体的な祈雨の方法を命じて行わせている様子が見えてきます。別の視点から見ると、蝦夷は国家レベルでの祈雨を計画し、自分がその主導者として命じているように思えます。古代国家体制の構築を推し進める蘇我氏らしい対応です。蝦夷が実際に、自分自身で香炉を手にして祈雨を行ったかどうかは別にして、蝦夷が国家レベルでの祈雨を命じる立場にあったことはうかがえます。
最後に、皇極天皇が登場し祈雨を行います。
その方法は、天皇自らが南淵の河上で四方拝を行っています。
実は、この時点で天皇が行える祈雨の選択肢は、あまりなかったようです。仏教的な方法は、蝦夷がすでに行っています。天皇が普通に神を祀るのであれば、それは天皇家が私的に祈雨を行っていることにしかすぎません。後世に見られるような諸社に奉幣するという形での祈雨も、この時代には不可能だったようです。なぜなら、当時の豪族たちは、自分の支配する地域に対して絶対的な宗教的権威を持っていました。そこへ奉幣するということは、一種の宗教的な介入ともなりかねません。この段階でそこまですることは無理と研究者は考えているようです。
そうすると選択肢は、次のふたつしかなかったようです。
①中国風の方法をとるか、②あるいは神祇的でも特異な方法をとる
そこで皇極天皇は「四方拝」というスタイルで、自分自身で祈雨祈願をおこなったようです。
蝦夷と皇極天皇のやり方を比べると、蝦夷が国家が命令を下す形で組織的に祈雨を行おうとしたのに対して、皇極天皇の動きは個人プレー的な傾向が強いように思えます。大王が自ら天に祈るというのでは、卑弥呼の時代と変わりません。
蝦夷と皇極天皇のやり方を比べると、蝦夷が国家が命令を下す形で組織的に祈雨を行おうとしたのに対して、皇極天皇の動きは個人プレー的な傾向が強いように思えます。大王が自ら天に祈るというのでは、卑弥呼の時代と変わりません。
紀記の中には、扶余の国の話として、旱魃で五穀の実らないのは王の咎であるとして、王を取り替え、あるいは、王を殺そうとしたと記されています。ここからは
①大王にも、レインメーカーとしての性格が備わっていた②祈雨祈願の霊力を持たない王は「革命」されたり、殺された
ことがうかがえます。
もし、大王が祈願し雨が降らなければ、どうなるのでしょうか?
もし、大王が祈願し雨が降らなければ、どうなるのでしょうか?
大王の威信は落ち、面目は丸つぶれです。国家の安泰を図るためには、大王自身が祈雨するのは、避けなければならない時代がやってきていたのです。そのためのシステム作りが課題であったはずです。
その政治的な課題を蝦夷は認識していたとも考えられます。これは、当時の両者の置かれた政権内部での位置とも関係するのかもしれません。国家的祈雨への動きは、蘇我氏の主導で進められていたようです。
国家的祈雨の成立
テキストでは次に、日本書紀に見える異常気象の略表を示します。
一番左欄の○が旱魃が記された年、◎が祈雨が行われたことが記された年です。
先ほど見た642年に行われた「皇極天皇の祈雨祈願」は、○→◎と示されます。これが書紀の最初の祈雨祈願行事になります。これ以前の推古朝から旱魃や霜・大風など天候異変の記事が数多く記録されていることが分かります。テキストは、この期間を「第1グループ」としています。
しかし、第1グループの後30年ほど旱魃などの天候不順記事は見られなくなります。この空白期は、何を意味するのでしょうか?
この期間は、霖雨についての記事が二例ばかりあるだけで、旱魅についての記事がありません。この時期には旱魃が起こらなかったのでしょうか? それはないでしょう。
第ニグループの天武朝・持統朝の約30年間には、20件以上の祈雨を行っているのです。この当時は旱魅に悩まされていたことがうかがえます。謎の空白期にも、旱魃には見舞われていると考えた方が自然です。
なぜ日本書紀には「異常気象」が書かれなかったのでしょうか?
考えられることは2つです
①『日本書紀』の編纂段階で、この期間だけ故意に旱魃の記事を省いた②『日本書紀』の編纂に用いた原史料に、この時期の旱魃の記事がなかった
①について、中国では天候不順は、皇帝の支配力のなさを示すもので「革命」の要因とされました。大化の改新クーデターの正当化のために、天候不順記事をその前に並べることで、蘇我氏政権を否定的に示そうとしたのかもしれません。そして、中江大兄の権力掌握後には、天候不順記事を減らしたというのは考えられることです。この期間にには霖雨の記事が2つあるだけです。
②については、①と関連して、天智天皇の記録者たちが旱魅の記事を記録していないために、書紀編纂者は、書こうにも書けなかったのかもしれません。第一グループと第ニグループの間の空白期間は、旱魃も含めて異常気象に対する記録化の態度が弱まっていたようです。
天武天皇
天武朝以後の神祇的祈雨は?
表を見ると第ニグループになると、旱魅と祈雨の記事が急激に増加します。同時に、その他の天候についての記事も増えています。この時期は、異常気象全般に対しての問題意識が高まってきたことがうかがえます。
その中でも、特に増えているのが旱魅と、その対応です。
表を見ると、この期間23年間の内の半分を超える14年に旱航や祈雨の記事があります。そして、以前とは違って、旱勉の記事があれば必ずそれに対する祈雨の記事があるという風にペアになっています。それとは逆に、旱魅の記事は漏れていても、対応策としての祈雨の記事のみが記されていることも増えます。
ここから考えられることは、旱魅が起こった場合には、必ず国家としてその対応策として祈雨を行うようになったことがうかがえます。つまり、国の政治的行為としての祈雨が確立したと研究者は考えているようです。このような祈雨を国家行うようになるのは、この図からは天武朝の第2グループの時期からのようです。
それでは、どんな方法で祈雨を行っていたのでしょうか。
第2グループの祈雨の記事初見は、天武天皇五年(676)です。
是の夏に、大きに旱(ひでり)す。使を四方に遣して、幣帛(みてぐら)を捧げて、諸の神祇に祈らしむ。亦諸の僧尼を請せて、三宝に祈らしむ。然れども雨ふらず。是に由りて、五穀登(みな)らず。百姓飢ゑす。
ここでは、諸神に奉幣するとともに、僧尼が三宝に祈るという方法をとっています。
ところが、翌年の天武天皇六年の五月になると、
是の月に、旱す。京及び畿内に零(あまごい)す。
というように、「零」という文字が使われるようになります。「零」とは、中国で雨乞をさす言葉だそうです。残念ながら、それらのいずれも「零」の一文字なので、具体的な祈雨内容は分かりません。『続日本紀』になると、表現に変化が現れます。文武天皇二年(698)五月一日の条に、
諸国旱(ひでり)す。因て幣帛(みてぐら)を諸社に奉る。
とあり、諸社に対して奉幣を行うという具体的な行為が記されます。表現はいろいろと変わりますが。行われていた祈雨行為は、奉幣という形で祈雨が行われていたと研究者は考えているようです。
幣帛(みてぐら)
この諸社奉幣というスタイルは、以後何百年と続いていくオーソドックスな方法です。これは祈雨だけでなく、さまざまな祈願の場でなされるものです。しかし、記録としては天武天皇五年が初見で、それ以前には見られないようです。このことから、諸社奉幣というスタイルは、天武天皇五年前後に、初めて登場したものと研究者は考えます。
さらに問題となるのは、「諸社奉幣」です。
「奉幣」そのものは以前から見られる祭祀方法の一つですから抵抗はなかったでしょう。しかし、「諸社」に奉幣するのは、問題が多かったようです。諸社ということになると、天皇家が祀る神々だけでなく、有力豪族が祀る神々も入ってきます。国家が各豪族の祀る神々に対して、直接的に奉幣使を遣わして神を祀るということは、ある意味で、各豪族の持つ祭祀権をゆさぶりかねない行為です。重大な宗教的介入と反発する豪族もいたはずです。そういう影響力を考えると「諸社奉幣」は、重大な政治的意味と背景をもって成立したと研究者は考えています。
「奉幣」そのものは以前から見られる祭祀方法の一つですから抵抗はなかったでしょう。しかし、「諸社」に奉幣するのは、問題が多かったようです。諸社ということになると、天皇家が祀る神々だけでなく、有力豪族が祀る神々も入ってきます。国家が各豪族の祀る神々に対して、直接的に奉幣使を遣わして神を祀るということは、ある意味で、各豪族の持つ祭祀権をゆさぶりかねない行為です。重大な宗教的介入と反発する豪族もいたはずです。そういう影響力を考えると「諸社奉幣」は、重大な政治的意味と背景をもって成立したと研究者は考えています。
その背景に国家による強力な政治的・宗教的主導権の発揮がなくてはできないことです。
天武朝というのは、それが行われるにはふさわしい時期です。天武朝は、壬申の乱によって畿内の有力豪族の勢いが後退し、相対的に天皇の地位が高まった時です。天皇による専制的な政治が実現した時期に当たります。この時期に、国家による祈雨祈願は、「諸社奉幣」という形で成立したとしておきましょう。まさに、律令的な国家体制へと向かおうとする時期の所産とも言えるようです。ここには、大化クーデター前の皇極天皇のように天皇自らが祈雨を行う姿はありません。天皇が祈願の主体者であることには変わりはありませんが、神祇的な制度の上で神々に祈願を行うようになっています。天皇の持つ個人的な霊力に、頼る必要はなくなりました。祈雨がシステム化されたと云えます。レインメーカーとしての、天皇の役割は終わりを告げたのです。同時にそれが古代における国家祈雨の始まりだったようです。
これが生駒藩が善通寺へ祈雨祈願を行うように命じることへと繋がっていくようです。
参考文献 藪元晶 国家的祈雨の成立 天武朝というのは、それが行われるにはふさわしい時期です。天武朝は、壬申の乱によって畿内の有力豪族の勢いが後退し、相対的に天皇の地位が高まった時です。天皇による専制的な政治が実現した時期に当たります。この時期に、国家による祈雨祈願は、「諸社奉幣」という形で成立したとしておきましょう。まさに、律令的な国家体制へと向かおうとする時期の所産とも言えるようです。ここには、大化クーデター前の皇極天皇のように天皇自らが祈雨を行う姿はありません。天皇が祈願の主体者であることには変わりはありませんが、神祇的な制度の上で神々に祈願を行うようになっています。天皇の持つ個人的な霊力に、頼る必要はなくなりました。祈雨がシステム化されたと云えます。レインメーカーとしての、天皇の役割は終わりを告げたのです。同時にそれが古代における国家祈雨の始まりだったようです。
これが生駒藩が善通寺へ祈雨祈願を行うように命じることへと繋がっていくようです。
飛鳥・奈良時代の祈雨 雨乞儀礼の成立と展開」
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