前回は、国家による祈雨が天武朝から行われるようになったことを見てきました。そこでは、律令などの政治制度を取り入れる中で、国の祈雨祈願システムも整備されたことが見えてきました。
ところで、当時の人たちは旱魃などの自然災害が、なぜ発生すると考えていたのでしょうか。今回は、その疑問を探って見ようと思います。テキストは「藪元晶 国家的祈雨の成立 飛鳥・奈良時代の祈雨 雨乞儀礼の成立と展開」です。
ところで、当時の人たちは旱魃などの自然災害が、なぜ発生すると考えていたのでしょうか。今回は、その疑問を探って見ようと思います。テキストは「藪元晶 国家的祈雨の成立 飛鳥・奈良時代の祈雨 雨乞儀礼の成立と展開」です。
持統天皇が亡くなった翌年の慶雲(けいうん、きょううん)2年のことです。
「慶雲」とは夕空に現れ瑞兆とされる雲で、大宝4年の持統天皇の葬儀の後に、この雲が藤原京の空に現れます。これを契機に改元されたようです。当時の政治情勢は、実際に施行されはじめた律令と、現実運用とのギャップが至る所から吹き出してきて不協和音を奏で始めていました。そのため現場に即した細則の必要性や令そのものへの改革が迫られるようになります。また、大宝3年(703年)から慶雲4年(707年)には連続的に飢饉が発生し、税体系の不備と重なって貧窮・没落する農民が急増しました。その救済策も求められます。
このような中で文武天皇は、次のような詔勅を出します。
『続日本紀』慶雲二年(七〇五)四月三日の記事です。
詔して曰はく、「朕非薄(ちんひはく)の躬(み)を以て、王公の上に託(つ)けり。徳、上天を感(うごか)し、仁、黎庶(れいしょ)に及ぶこと能はず。遂に陰陽錯謬(あやま)り、水旱(すいかん)時を失ひ、年穀登(みの)らず、民をして菜色多からしむ。此を念ふ毎に、心に闘但(いた)めり。五大寺をしてて金光明経を読み、民の苦しみを救ふことを為さしむべし。天下の緒国、今年の挙税(こぜい)の利そ収むること勿(なか)れ 併せて庸の半を減せ」
意訳すると前半部で
「自分は非薄の身で王位にあるが、その徳は天帝の心をうごかすことも、その仁は民に及ぼすこともできない。ために凶作をまねき、民に飢者が多い。それを思うと悲しみにたえない」
とあります。つまり、水旱の発生を自分の不徳に原因があるとしています。そのための対応策として、五大寺に金光明経を輪読させ、民の苦しみを救うと共に、本年度の租税免除と庸の半減を打ち出しています。
続いて元正天皇は、続日本紀』養老六年(722)七月七日の詔勅で、次のように述べています
詔して曰はく「陰陽錯謬(あやま)り、災旱(さいかん)頻(しきり)に至りぬ。是に由りて幣(みてぐら)を名山に奉りて、神祇を尊祭す。甘雨降らず、黎元業を失へり。朕が薄徳、此を致せるか。百姓何の罪ありてか、樵萎(ぞうふ)すること甚しき。天下に赦して、国郡司をして審(つばい)らかに冤獄を録し、屍(かばね)を掩ひて荷(死体)を埋み、酒を禁めて屠(ほふ)りを断たしむべし。高年の徒には、勤めて存撫を加へよ。(中略)」とのたまふ。
意訳すると
旱魃に対して、祈雨の奉幣を各地の名山に奉ったが雨は降らない。これは私の徳が薄いことによるのであろうか、百姓には何の罪もないとして、国司や郡司にたいして、特赦の実施を命じています。さらに、死体処理や高齢者慰撫など具体的な指示も出しています。ここでも、天皇の薄徳が旱魃の原因ではないかと考え、その対策として大赦等を行っています。
このように、天皇の不徳によって水旱の災が生じるという記述が、持統亡き後の天武朝の天皇たちには見られるようになります。これは聖武天皇にも引き継がれ、その打開策として鎮護仏教導入政策をとり東大寺・国分寺造営に繋がっていきます。
「旱魃=天皇の不徳」とする認識は、どこからきたのでしょうか?
どうやらその源は、中国のありそうです。『後漢書』「粛宗孝章帝紀第三」の五年(八〇)甲中条には、旱魃に対する皇帝の対応が次のように記されています。
詔して曰わく「「春秋」に麦苗無しと書するは、之を重んずればなり。去秋、雨の恵みは適わず、今野亦旱(ひでり)し、炎の如く焼くが如し、凶年は時無く、而して備えを為すこと未だ至らず。朕の不徳、上は三光を累わせ、震慄とうとうとして心を痛め首を病む。前代の聖君、博く思いて、災の咎めを降すと雖も、即ち函を開いて風を返すの応有り。今、予(われ)小子、徒に燦々たるのみ。其れ二千石をして牢獄を理(おさ)め、五岳四徳及び名山の能く雲を興し雨を致す者に祈って崇朝ならずして、遍く天下に雨ふらすの報いを蒙らんこと請願わしめよ。務めて粛敬を加えよ」
とあります。この後漢の孝章帝の詔の中には、旱魃の発生を「朕の不徳」とする言葉があります。そして、その対策として、裁きを公正にし天下の名山や五岳などで祈雨を行うよう命じています。このような記事は、当時の中国の史書には数多く見られます。当時の日本は
「政治的には律令、宗教的には鎮護仏教、文化的には漢字」
を移植させる「中国化政策」が、国策として展開中でした。そのような「中国ブーム」の中で天皇のブレーンも、唐から帰国した人たちが多くなります。自然と中国の史書の表現を手本にして、公文書や詔勅も作られるようになります。中国の皇帝思想も、ストレートにそのまま文章化されたようです。
この時期、天皇が中国思想に大きく傾倒している様子は、『続日本紀』和銅八年(七一五)六月十二日の条にも見えます。
ここには、中国の故事が紹介され、中国の皇帝が旱魃に対して熱心に関わっていたことが紹介されています。そして、諸社奉幣の後に数日を待たずして雨が降ったことから
「時の人以為へらく、聖徳感通して致せるなりとおもへり」
と記します。天皇の徳が天帝に通じて雨が降った、と人々が理解していると記されています。ここにも儒教の徳治主義思想がもてはやされ、全面的に受け入れられようとしている姿がうかがえます。同時に「先進国中国」への強い憧れのようなものが感じられるのです。
水旱の原因を天皇の不徳とする見方も、中国伝来のようです。
お上は「旱魃=天皇の不徳」を「公式見解」としていたかもしれませんが、当時の庶民感覚と一緒だったとは云えません。それは明治の文明開化を先導する西欧帰りの福沢諭吉と庶民の意識の差に似ているかもしれません。そして、奈良時代の終わりになると「旱魃=天皇の不徳」説を原因とする記事は激減します。まるで、一時的なブームであったかのように・・・。
「旱魃=天皇の不徳」説に代わって登場してくるのが、神の崇(たたり)とする考えです。
「旱魃=神の祟り」説の記事は、紀記にはありません。これの初見は『日本紀略』大同四年(809)七月三日の次の記事です。
遣使於吉野山陵(井上内親王)。掃除陵内、併読経 以几旱累旬山陵為崇也。
井上内親王の吉野山陵に使いを遣わし、陵内の掃除と読経を行わせたとあります。その理由は旱魃が長期間にわたっているのは、山陵が崇をなしているからだろ云うのです。
これ以後、旱魃を神の崇とする記事が増えます。20年ほど後の天長九年(832)5月19日には、『釈日本紀』に次のようにあります。
令卜巫充旱於内裏。伊豆国神為崇。
旱魃の原因を内裏で占わせたところ、伊豆の国の神が崇をなしていることが判明しているというのです。
『続日本後紀』承和八年五月十二日の条には、
「旬にわたって雨が降らないので、崇ではないかと占わしたところ、山陵に遣わせた例の貢ぎ物がなされていないことによる崇であると結果が出た。また、香椎廟も同じく崇をなしているという卜が出た。驚いて調べさせると、所司が言うには、去年よりこの二年間荷前を安易に陵戸人にさせたので、きっと供えていないこともあったであろうということである。今、恐れかしこまって先々そのようなことがないようにして奉ります。香椎廟にも専使を遣わせて謝罪します。和気真綱を遣わせて謝罪し祈願しますので、お聞きになって直ちに甘雨を降らせていただきますように慎んで申し上げます」
とあります。
以上のように、平安時代になると、旱魃を崇によるものとする記事が増えます。それまでは国家の公式見解としては、「旱魃=天皇の不徳」説がとられてきました。ところが「崇」へと急速にシフトしていくのです。その背景には何があったのでしょうか?
それをある研究者は次のように説明します
平安時代になって、急に墳墓(山陵)の崇りを云うようになって来た。(中略)皇太子(平城天皇)による病気の原因が崇道天皇の崇りであるといったのは「卜」であった(793年)。柏原山陵の崇りを指摘したのも「卜」であり(806年)、大極殿失火のことをいったのも「卜」であった。そうすると、神祇官の下で出された「卜」による山陵の崇りに苦しめられた天皇の姿がここにあるということになるであろう。このような点から見るとき、荷前制は神祇官を掌握した人の嵯峨天皇・淳和天皇、引いて空海らへの攻撃であったということになるのではなかろうか。
神祇官によって「卜」という形で、山陵の崇が作り出されるようになったと研究者は考えているようです。さらに視野を広げると、この時期に登場する崇(たたり)事象は、旱魃だけでなく、天皇の不徳を始めとして、地震・災異・火災などいろいろなものに及んでいます。それらの崇事象は、宝亀年間(770~)頃から増えているようです。そこには、卜部の組織化を行った大中臣清麻呂の姿が垣間見えると云います。彼が、権力闘争の道具として神祇官の卜部による亀卜をもとに崇現象を広めたという見方ができるようです。
ともかく、旱魃も含めてさまざまな災の原因を崇によるものとする考えが、奈良時代末から平安時代にかけて、神祇官によって増幅させられたようです。その流れの中で、旱魃原因も崇によるものとされるようになっていったのです。
そんな中で注目されるのが、『続日本紀』天平宝字七年(763)九月一日条の記事です。
勅して曰わく「疫死数多く、水旱時ならず、神火屡至(しばしばいた)り、徒(いたずら)に官物を損ふ。此は国郡司等の国神に恭(うやうや)しからぬ咎(とが)なり(中略)」とのたまふ。
ここで初めて災害の発生を「国郡司等の国神に恭しからぬ咎なり」という新しい見解が出されています。これは「災害を加えているのは、天帝でなく国神」という新見解です。それまでは「咎」といえば、中国風に天帝によるものとされてきたのです。中国の「天人相関思想を、そのまま受けいれる形で「旱魃=天皇の不徳」説として、公式見解としていたことは先に見た通りです。このような流れの中に「国神に恭しからぬ咎」説が登場してきます。これは視点を変えると、土地神に対して国司や郡司が十分に祭らなかったために起こった災害ということになります。もう少し進めるとこれは崇現象に近づいていきます。つまり国神による崇とも云えます。同時に視点を変えると「天皇の不徳による旱魃」説から天皇は解放されることになります。朝廷にとっては、魅力的な説であったかもしれません。
以上をまとめておくと
①奈良時代は中国の影響を受けて「旱魃=天皇不徳」説が国の公式見解となっていた
②奈良時代の終わり頃から神祇官によって「旱魃=崇」説が広まられようになる
③これは権力闘争の道具としても使われ、神祇官の地位の向上につながった。
④結果的に平安時代を通して祈雨祭祀に関わる人たちが重視されるようになった
⑤その後には、旱魃が崇によるものかどうかを卜う卜占に、陰陽寮も参加するようになる
このような動きは陰陽道に仕える人たちの社会的な「地位の向上」をもたらしたことは、容易に想像ができます。
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