今まで一番古いとされてきた天守閣の写真
2005(H17)年3月に、ケンブリッジ大学図書館が、高松城の写真を所蔵しているということが分かりました。それは、写真集の出版準備を進めていた平凡社より県立ミュージアムへの問い合わせがきっかけだったようです。問い合わせの内容は、同大学所蔵の写真のうち「名古屋城」というタイトルがつけられた写真があるが、高松城の間違いではないかというもので、合わせて「讃岐高松」というタイトルがついた写真3枚が送付され、現在の場所等が分かれば教えてほしいというものだったようです。
「名古屋城」というタイトルが付けられた写真は高松城天守閣の写真であり、残り3枚は高松城内から城下を撮影したものと分かりました。明治初期の高松城天守閣の写真は、それまで一枚しか見つかっていませんでした。
1882年の高松城の天守閣から見ていくことにしましょう。
テキストは「野村美紀・佐藤竜馬 明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について 香川県歴史博物館 調査報告書第2号 2006年」です
テキストは「野村美紀・佐藤竜馬 明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について 香川県歴史博物館 調査報告書第2号 2006年」です
三ノ丸外側の曲輪・桜の馬場の桜門のあたりから本丸天守を撮ったものです。今まで知られていた写真と同じ方向・角度で撮られています。三層四階地下一階の天守です。外壁の白い漆喰のはげ落ちている所も同じです。ここからは、ふたつの写真は、ほぼ同じ時期に撮影されたことが分かります。
研究者は次のように指摘します。
「最上階(四階)の東面南隅外壁と、二階東面北側の連子窓周辺の漆喰損傷状況を見ると、従来の写真の方がケンブリッジ大学の写真よりもわずかに剥落が進行していることが分かり、先に撮影されたようである。」
ということで、高松城天守閣を写した一番古い写真となるようです。
この写真からは、次のような特徴や状態が見て取れるようです
①初層が石垣から大きくせり出していること、②三層の四階が三階よりもはみ出す「南蛮造」であること③初層・二層の軒裏には軒と壁を斜めに架け渡す方杖で、④四階の飛び出した床は二段に重ねられた片持梁で支えられている⑤外壁は漆喰が剥落し、初層には小舞が露出している箇所もある⑥大棟がへたっている以外は軒の歪みも少なく、構造自体はさほど老朽化していない
天守の西側に重なって見えるのが本丸です。
ここには、地久櫓などと天守を連結する多聞櫓が巡っていたと云われます。しかし、写真の左端に見える本丸南東隅には多聞櫓はありません。天守曲輪手も見えません。そこには、草が生い茂っています。明治になって、破却されたようです。
また天守台右奥に見えるニノ丸東面には、石垣上に漆喰塗りの白い土塀が見えます。しかし、それも奥(北)側の黒櫓に近い箇所では倒壊したまま放置されているようです。 研究者は
また天守台右奥に見えるニノ丸東面には、石垣上に漆喰塗りの白い土塀が見えます。しかし、それも奥(北)側の黒櫓に近い箇所では倒壊したまま放置されているようです。 研究者は
「このほか、ニノ丸北西隅に建つ二層の廉櫓がおぼろげながら見える。」
現在の天守閣跡の石垣
この写真を撮影した英人旅行家ギルマールは、『旅行日誌』の中で、高松城の荒廃ぶりに強い興味を示しています。この写真からも天守閣の壁や披雲閣の屋根など老朽化が見て取れます。桜馬場も草や芝木が伸び放題です。ギルマールは
「草木があまりにも生い茂っているので、我々は道に迷ったほどである」
と記しいます。大がかりな撮影道具を持って歩くのは難しく、機材を設置して撮影が出来る場所も限られたようです。
明治を迎えた時にすでに老朽化していましたが、陸軍が使用しなくなって以降、さらに荒廃が進んだようです。
この写真が撮影されたのは明治15年ですが、その2年後の明治17年には取り壊されます。三ノ丸御殿が取り壊された時期については分からないようですが、この写真には写っていますから明治15年まではあったことが確認できます。天守閣と同時期に取り壊されたと考えられます。
この写真の右側の石垣上に見えるのが三の丸の多聞櫓のようです。
写真には入っていませんが、多聞櫓はさらに右側に伸びて三ノ丸正門である桜御門に繋がっていました。
「節子下見板の外壁と垂木を波形に塗り込んだ軒裏は、桜御門と同じ」
と研究者は指摘します。多聞櫓は、三の丸南東角の龍櫓を起点に北と西に延びていたようです。
私が興味があるのは実は、お城よりもこれを撮した人たちです。
どんな人たちが、どんな目的で高松までやってきて、この写真を撮ったのでしょうか。今ではスマートフォンの普及で写真撮影は日常化していますが140年前には、写真撮影は高度な最先端技術でした。この時期、日本ではまだ乾板が普及していなくて、湿板がつかわれていたようです。これには、撮影器具が数多く必要でしかも大型です。そのため野外撮影は事実上はできなかったようです。そのためギルマールが高松城で撮った写真も4枚だけです。
どんな人たちが、どんな目的で高松までやってきて、この写真を撮ったのでしょうか。今ではスマートフォンの普及で写真撮影は日常化していますが140年前には、写真撮影は高度な最先端技術でした。この時期、日本ではまだ乾板が普及していなくて、湿板がつかわれていたようです。これには、撮影器具が数多く必要でしかも大型です。そのため野外撮影は事実上はできなかったようです。そのためギルマールが高松城で撮った写真も4枚だけです。
4枚の写真がどのようにして撮られたのか見ていくことにします。
高松城天守閣を撮した写真は、ヒルー・ギルマール(1852~1933)が、ケンブリッジ大学地理学部に寄贈したものです。
彼はケンブリッジ大学で医学博士の学位を取得しますが、医師にはならず、旅行家、博物学者、地理学者として世界各地を旅行し、後半生は地理学関係の出版・編集などに携わったようです。
彼を旅行家として有名にしたのが、30歳の時に自前のヨット・マーケーザ号での冒険旅行でした。その旅行記『マーケーザ号のカムチャッカおよびニューギニアへの巡航‥台湾、琉球およびマレー群島の記述を含めて』が高く評価されます。彼は『旅行日誌』をつけ、家族などに宛てた手紙も保管するように依頼しています。ここからは最初から旅行記として出版するつもりで、詳細な記録をしていたようすがうかがえます。このため日本旅行中に撮影された写真の撮影場所や撮影日が特定できます、このことが、写真の持つ史料的価値を非常に高いものにしていると研究者は考えているようです。
彼の記録からその足取りを追ってみると、次のようになります。
1回目は、明治15年6月28日から琉球滞在を経て、7月4日から29日間マーケーザ号を横浜に碇泊させ関東近辺を旅行、その後函館を経てカムチャッカ半島に向かって出港するまでです。
その行程は横浜をスタートして、宮ノ下、箱根、吉田、河口湖、甲府、昇仙峡、甲府、鰍沢、身延山、富士川、蒲原、鎌倉、横浜と廻っています。
2回目は、カムチャッカから
9月27日 函館に戻り、
10月6日 横浜に至る。
そして東京から日光、下諏訪などを経て名古屋に至り、伊勢、和歌山を経て、神戸に碇泊し、その間京都・奈良・大阪を回り、瀬戸内海へと進みます。高松に立ち寄った後に宮島、松山を経由して九州に向かい、伊万里・長崎・熊本を回り、
翌明治16年1月31日に長崎から中国に向けて出発するという行程です。さすが英国の貴族の「冒険旅行」です。当時の日本人の残した、こんな旅行記や冒険記はありまでん。
2度目の日本滞在中に立ち寄った場所は次の通りです。
横浜、東京、宇都宮、日光、妙義山、碓氷峠、下諏訪、飯田、時又、天竜川、二俣、名古屋、瀬戸、横浜、伊勢、勝浦、那智、大島、神戸、京都、琵琶湖、奈良、神戸、高松、宮島、松山、伊万里、長崎、熊本、阿蘇山、栃木、長崎を訪れています。
高松への寄港は2度目の滞在中に神戸から宮島へ向かう途上のことだったようです。
全ての場所で撮影しているようではありません。写真として残っている被写体は、次の通りです。
第一国立銀行、増上寺、不忍池、浅草寺、吹上御苑、鎌倉大仏、鶴岡八幡宮、富士屋ホテル、東照宮、名古屋城、伊勢神宮、京都御所、西本願寺、三十三間堂、方広寺の梵鐘、清水寺、東大寺、興福寺、春日大社、大阪城、高松城、厳島神社、伊予松山城、熊本城
これらは、ギルマールが撮影したものと私は思っていました。ところがそうではないようです。
日本人の写真技師を雇い入れて、同行させているのです。
ギルマールの旅行に随行したのは、横浜の写真師臼井秀三郎です。
彼の正確な生没年は分かりませんが、伊豆下田の生まれで、同じ下田出身で、文久二年(1862)に横浜で写真館を開業した下岡蓮杖の弟子です。臼井は、師匠の下岡蓮杖より写真術を学び、遅くとも明治8年には横浜で開業していたことが分かっています。
臼井がギルマールの旅行に随行することになったきっかけは、ギルマールが初めて横浜に上陸した際に、琉球で撮影した乾板の現像を写真館スティルフリート&アンダーセン(日本写真社)に依頼したことから始まります。この写真館の写真師ジョンー・ダグラスは、臼井に写真術を教授した人物です。臼井を雇用した経緯の詳しいことは分かりませんが、乾板の現像を依頼したことをきっかけに、ギルマールが日本人写真師を求めていることを知ったダグラスが臼井を紹介したというストーリーが考えられます。
帰国後の出版を考えていたギルマールが、日本の写真を大量に持ち帰るためには、日本で写真師を雇う必要がありました。そうすればギルマールにとって、自分の仕事を軽減し、質の高い写真を手に入れることができます。一方、外国人向けに、日本の名所写真を販売していた臼井にとっては、販売できる写真の種類を増やすチャンスです。両者にとって悪い話ではありません。
高松城天守閣からの屋島方面の展望 ギルマールの大型ヨットが停泊中
こうして年の瀬も押し詰まった明治15年12月30日の早朝に、神戸からギルマールー行を載せたヨットが高松港に到着します。そして『旅行日誌』の中で、高松港出発時刻を2時30分と記していますので、高松滞在は数時間程度だったようです。その大部分は撮影にかけられたのでしょう。同行した写真技師の臼井は、湿板の技法で撮影したと研究者は考えているようです。この撮影技法は、よく磨いた透明なガラス板にコロジオンを塗布し、それを硝酸銀に浸して感光性を持たせ原板とします。乾燥すると感光性がなくなるため、濡れているうちに撮影・現像を行わなければなりません。野外での撮影には、薬品や暗室を携帯する必要があり、かなりの労力と技術が求められます。そのため、野外の建物などを撮った写真は非常に少ないようです。
ギルマールたちのヨットには、神戸から外務省の野口と小林という人物が同行していたようです。イギリスから日本へ向かうギルマールー行が、シンガポールで、駐オランダ公使の勤務を終えて帰国途中の長岡護美と知り合い、日本旅行中に役立つ紹介状のようなものを書いてもらっていました。 高松城の写真撮影の際にも、仮に陸軍や県の管理が厳しくとも、外務省の役人が二人も同行してれば、城内への立ち入りや、天守閣や櫓からの撮影も現地の許可が下りたのでしょう。
『旅行日誌』には、撮影が終わった後に、
「骨董品をいっぱい積み込んで高松を出発した」「我々が出かけるところはどこでも群れをなした」
とあり、ギルマールたちが、城下を歩き、骨董品を買い集めた様子がうかがえる。しかし、城下で撮影された写真は残っていません。臼井らが同行しなかったのかもしれません。
最後に、当時の高松城の置かれた状況を見ておくことにしましょう
高松藩は、1870(M3)年9月に、早くも老朽化した城郭楼櫓の撤去を願い出ています。翌年の4月に再度願い出て許可を得て、壊す前に最後に城内を一般公開しています。
これで建物が壊され撤去されていれば、更地になっていたはずですが、そうはならなかったようです。城内の建物を取り壊す前に廃藩置県を迎え、1871年8月、高松城は兵部省に移管されます。そして、大阪鎮台第二分営が城内に設置されることになったのです。
2年後の1873年には、鎮台配置が改められ、全国に六鎮台十四営所が設けられます。このときには、高松の大阪鎮台第二分営は廃止され、丸亀に営所が設置されることになります。営所指定されなかった高松城郭は廃城とされ、入札による払下げが行われることになります。
高松城は営所とされなかったのに、廃城にはならなかったようです。どうしてでしょうか?
2年後の1873年には、鎮台配置が改められ、全国に六鎮台十四営所が設けられます。このときには、高松の大阪鎮台第二分営は廃止され、丸亀に営所が設置されることになります。営所指定されなかった高松城郭は廃城とされ、入札による払下げが行われることになります。
高松城は営所とされなかったのに、廃城にはならなかったようです。どうしてでしょうか?
これは、丸亀への移転に時間がかかったためのようです。丸亀営所が完成し、高松から丸亀へ軍隊が移転したのは翌年の1874年12月になります。そして、1875年8月に、丸亀歩兵第十二連隊が編成されます。そのうち第三大隊は、1879年6月まで高松に分屯します。
以上見てきたように、高松城の天守閣や櫓は、明治初頭に老朽化による取り壊しが決定していたのに実行されずに、その後1879(M11)年まで陸軍によって使用されていたようです。
ギルマールが訪れたのは、その4年後のことになります。つまり、陸軍が去って無人の施設で管理もされずに放置されて4年経っていたのです。桜馬場に草木がぼうぼうと茂っているのも納得がいきます。
日清戦争を前にした1889(M21)年5月、鎮台制度は師団制度に改編され、全国18ヶ所に連隊所在地を指定します。このとき、陸軍省の管轄とされた22の城郭以外は、払い下げられることになります。高松城は、旧藩主松平頼聡に払い下げられます。
松平家へ払い下げ後も、しばらくは放置されたようです。
1902(M35)五年に、初代藩主頼重を祭る玉藻廟が造営され、同年桜の馬場を中心に第八回関西府県連合共進会が開催されます。その翌年に松平家の家督を相続した頼寿は、高松城を整備し、積極的に活用することによって、旧領地における基盤を確立する方向を示します。こうして前時代の遺物となってしまった高松城は、旧藩主である松平家に払い下げられた後に、再び利用の道が開かれることになります。
ギルマールたちが見た高松城は、陸軍による使用も終え、利用価値をすべて失い、打ち捨てられた、最も荒廃した時期の姿だったようです。
参考文献
野村美紀・佐藤竜馬
明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について
香川県歴史博物館 調査報告書第2号 2006年
野村美紀・佐藤竜馬
明治十五年の高松~ケンブリッジ大学図書館所蔵の写真について
香川県歴史博物館 調査報告書第2号 2006年
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