寺や神社の文化財を調査する時に、役に立つのが「宝物目録」のようです。今ある宝物と、過去に「宝物目録」のリストに挙げられたものを比べれば、その目録が作られた時に、どんな文化財があったか分かります。そして、うまくいけば宝物がどのような場所に安置されていたのかも分かります。さらに、それがどんな由来で、伝来したのかも見ることができます。寺社調査の「有力史料」が、宝物目録と云われる所以です。今回は、善通寺の宝物リストを見ていきましょう。
テキストは 渋谷 啓一 「 善通寺出開帳記録から見る「宝物」の形成 」 香川県歴博調査報告書2009年 です。
瞬目大師
善通寺にはいくつかの寺宝目録があるようです。
その多くは、寺の縁起や由緒を語る『多度郡屏風浦善通寺之記』などと同じ木箱に納められています。なかでもいちばん規模の大きな目録は近代、大正五(1916)年に作成された目録で、動産登録的な意味合いがあるようです。これを見ると、善通寺が所有する当時の宝物・文化財が一目で分かります。
一方、江戸時代に作成された寺宝目録としては、ご開帳の時に出品した宝物を載せたものがあります。
今回とりあげる寺宝目録は、
今回とりあげる寺宝目録は、
①元禄九年(1696)の「霊仏宝物之目録」②宝暦九年(1759)の「霊像宝物目録」
のふたつです。①を元禄版、②を宝暦版としておきます。どちらも出開帳の時の目録ですので、当時の善通寺の宝物の全部を含んでいるとは限りません。しかし、それだけに選りすぐれの宝物たちが選ばれています。それを見ることによって、当時の善通寺当局の自らの宝物への意識がうかがえるというのが研究者の思惑です。
目録を見る前に、善通寺の出開帳の様子と、再建への動きを見ておくことにしましょう
江戸時代になり天下泰平の世の中になり、戦国の時代が遠くなる17世紀半ばになると江戸や大坂、京都などで各寺院の秘仏を公開する出開帳が盛んに行われるようになります。
その目的は、都市の住人の参詣を催し、収益をあげることでした。寺院の中には、戦乱の中で伽藍を失った所が数多くありました。しかし、寺領を失った寺院は経済的困窮から伽藍再建が進まなかったようです。そんな中で、次のような有力寺院が開帳による復興費用工面という手法を取り始めます。
延宝四年(1676) 石山寺が、江戸で行った出開帳元禄五年(1692) 善光寺の出開帳元禄七年(1693) 法隆寺の江戸出開帳
法隆寺は聖徳太子信仰の中心地で、この出開帳でも聖徳太子信仰を中心に出品宝物が選ばれ、多くの信者が訪れ、期待してた以上の収益をあげ、堂宇復興に成功します。このような動きを見て、善通寺も動き始めます。
「江戸名所図会」の回向院開帳の様子
中世以来、聖徳太子信仰と弘法大師信仰は「太子信仰」として一連のもののように広まっていました。法隆寺の出開帳が聖徳太子なら、善通寺は「弘法大師誕生の地」として、弘法大師信仰を目玉に据えます。今まで進まなかった金堂復興資金を、江戸や上方での出開帳でまかなおうとしたのです。
元禄の出開帳のスケジュールは次の通りです。
①元禄 9(1696)年に江戸で行われ、②元禄10(1697)年3月1日 ~ 22日まで
善通寺での居開帳、③同年11月23日~12月9日まで上方、④元禄11年(1698)4月21日~ 7月まで 京都⑤元禄13年(1700)2月上旬 ~ 5月8日まで
播州網干(丸亀藩飛地)
以上のように3年間にわたり5ヶ所で開かれています。
結果は大成功で、この収益により工事中の金堂復興は順調に進み、元禄13年には、京都の仏師に依頼した本尊薬師如来坐像が納められ、15年6月には完成の結縁潅頂が執り行われ9月に結願しています。寺領からの収入だけでは、再建は難しかったはずです。元禄の本堂再建は、出開帳という都市住民の信仰心と寄進に支えられて、とんとん拍子に成就したたようです。
結果は大成功で、この収益により工事中の金堂復興は順調に進み、元禄13年には、京都の仏師に依頼した本尊薬師如来坐像が納められ、15年6月には完成の結縁潅頂が執り行われ9月に結願しています。寺領からの収入だけでは、再建は難しかったはずです。元禄の本堂再建は、出開帳という都市住民の信仰心と寄進に支えられて、とんとん拍子に成就したたようです。
さて、残る課題は五重塔です。
再建の動きは、金堂が復興した直後から始まりますが、今度は順調には進みません。その動きは「善通寺大塔再興雑記」に、詳しく記されています。最初、住職の光胤は多宝塔での再建を目指したようです。それが三重塔に変更され、光国が住職になると五重塔での再建計画にグレードアップされていきます。そのため当初予定した建設資金よりも大幅にふくれあがります。
そのような中で宝暦12年(1762)に、桃園天皇から五重塔再建にむけての許可が下ります。再建工事は進み、天明八年(1788)に上棟、文化元年(1804)に入仏供養をおこない完成という形で進みます。
この五重塔の再建でも、善通寺は出開帳をおこなっています。
①元文5(1740)年 江戸・京・大坂での出開帳②宝暦5(1755)年 善通寺での居開帳②宝暦6(1756)年 網子での出開帳
多くの人々が住む都市へ出かけていって開催される出開帳は、いろいろなリスクをともないます。宝物輸送や管理・警護、開催準備、など、ややもすれば出費がかさみ、時には赤字に終わる場合もあったようです。出開帳の場合、成功(=教線拡大と収益確保)するためには、多くの人々が共鳴し賛同してくれるような「大義名分」が必要です。そのためには開帳趣旨をはっきりとさせて、そのねらいにあった出品宝物を選ぶことが求められます。
善通寺の場合は、弘法大師信仰が売りです。
弘法大師空海が誕生した善通寺の復興が趣旨です。具体的には第一期は金堂の復興、第二期は五重塔復興ということになるのでしょう。そのためには「弘法大師空身誕生の地にふさわしい出品リスト」が必要になります。具体的に云えば、次のようなものが宝物(展示品)が欲しいところです。
①空海幼少期の姿②父母の姿③幼少期の事績にまつわる霊宝④誕生地ゆえの信仰資料(後世の優れた作品など)
寸法は、縦約30㎝ 横172㎝の折本装で、表紙には紺紙を用い銀で秋草が描かれています。表紙中央やや上に標題「霊仏宝物之目録」を打ちつけています。本文の料紙は雲母入りの紙が使われます。
首題は
「讃岐国多度郡屏風浦五岳山善通寺誕生院霊仏宝物之目録」、
「讃岐国多度郡屏風浦五岳山善通寺誕生院霊仏宝物之目録」、
末尾に「此目録之通、於江戸開帳以前桂昌院様御照覧之分 如右」とあります。
ここから元禄九年(1696)の江戸出開帳の際に、桂昌院の御覧に際し作成された目録のようです。
桂昌院に見てもらうために料紙を切り継いで、出開帳出品についても吟味が十分なされたことがうかがえます。料紙に薄墨の界線がひかれ、36件の宝物が記され、それぞれの宝物についての注記(作者・由来・形状品質など)が書かれています。
次に宝暦目録をみてみましょう。
こちらは善通寺の手控えとして書き出されたものです。
表紙には標題が「善通寺誕生院霊像宝物之記」と墨書されています。
冒頭は「勅願所讃岐国屏風浦五岳山功位大領佐伯善通之寺 御誕生院霊一宝警目録」と書かれています。裏表紙見返り部分に。次のように記されます。
「右九番之縁起ハ、宝暦六子年於播州網干津ノ宮開帳ノ時、筆記シテ示之。宝暦五亥年於寺門開帳之時ハ十四番トセリ。木像大師護摩堂並毘沙門・吉祥天・渡唐天神右五ヶ所二分ツ故ナリ。散失センコトヲ恐レテ令浄書之一帖トスルナリ宝暦九己卯年十月 日 権僧正光国識右筆 宇佐宮僧真境
別表に掲げた四十六件の宝物を、1番から9番までのグループ(輸送時の収納櫃のグループ)ごとに記し、注記を宝物名称の後に付けています。第三番のグループの末尾には
「各々善通寺奥院七種宝物なり」
とあり、初めて「七種宝物」という呼び方が登場します。善通寺にとって重要な意味をもつ宝物という意味なのか、いくつかの宝物名の右上に墨色の「○」印が記されています。
掲載されている宝物リストについてみてみましょう。
1~6までは彫刻7~18までは書画19に「稚児大師像」があるものの20~24は工芸品、25~34は経典(書跡)35・36は古文書・絵図
と全部で36です。それがジャンル別に区分されて並べられています。各ジャンル内では「大師作」と伝わるものをまず最初に持ってきて、その後の配列は年代順です。
彫刻については、幼少期の空海像・空海の請来品を、メイン宝物と考えていたようです。この目録からは、ジャンル別に配列されたはいますが、誕生地にまつわる「大師作」ものを選定の第一基準としてリストアップしていたことが分かります。
選出と配列論理は、この目録の提出先である桂昌院に、出開帳趣旨に賛同してもらうためのものだったのでしょう。出開帳の趣旨に一番近い論理構成が、このリストだと善通寺側は考えていたのでしょう。
選出と配列論理は、この目録の提出先である桂昌院に、出開帳趣旨に賛同してもらうためのものだったのでしょう。出開帳の趣旨に一番近い論理構成が、このリストだと善通寺側は考えていたのでしょう。
次に、約半世紀後の宝暦目録をみてみましょう。
宝暦目録は奥書にあるように網干の出開帳時の梱包リストです。
一番から九番までのグループに分けて、箱に詰められたようです。そのため、内容面よりも形状面など櫃への収納が優先されての配列になっているようです。結果といて、配列論理から出開帳の趣旨を探るのは難しいと研究者は考えているようです。
しかし、第二番に「瞬目大師」(10)、第三番(11~19)には、中世文書や、一字一仏法華経序品をはじめとする「七種宝物」が配置されています。第四番には両親像(20・21)が続いており、内容面でみてみると、このI群が「誕生地」善通寺出開帳の主軸になるようです。
一番から九番までのグループに分けて、箱に詰められたようです。そのため、内容面よりも形状面など櫃への収納が優先されての配列になっているようです。結果といて、配列論理から出開帳の趣旨を探るのは難しいと研究者は考えているようです。
しかし、第二番に「瞬目大師」(10)、第三番(11~19)には、中世文書や、一字一仏法華経序品をはじめとする「七種宝物」が配置されています。第四番には両親像(20・21)が続いており、内容面でみてみると、このI群が「誕生地」善通寺出開帳の主軸になるようです。
また、先に述べた「○」印の宝物は、10・14・15・16・17・18・37・42・43で、
①出開帳の主軸となる一群②後半に配置された善通寺創建時の資料③中世の盛時を物語る資料(亀山院の寄進と伝える紺紙金泥法華経)
になります。元禄期の第一基準であった「大師作」の宝物は、振り分けられており、重要度の基準が変わってきたようです。
両者のリストをつき合わせて、元禄期になかったものが、宝暦期には選ばれた宝物を研究者は探します。
そして、20・21の「讃岐守佐伯善通公御影」と「阿刀氏御影」の空海の両親像に注目します。このふたつの像は、明和八年(1771)の銘をもつ厨子に入れられて、現在まで保管されてきました。この保管用厨子は、宝暦期の開帳後に作られたもののようです。像については、制作年代は作風から江戸時代前半期のものとされます。ちょうど五重塔建立のための第二期出開帳が行われていた時期と重なります
。前回にはなかった両親の像は、第二期の出開帳のために作られたようです。「空海誕生の地」にとって、幼少期の空海の姿とともに、両親の姿も必要と考えるようになったのでしょう。「弘法大師誕生所」を強調するためのアイテムのひとつともいえます。
そして、20・21の「讃岐守佐伯善通公御影」と「阿刀氏御影」の空海の両親像に注目します。このふたつの像は、明和八年(1771)の銘をもつ厨子に入れられて、現在まで保管されてきました。この保管用厨子は、宝暦期の開帳後に作られたもののようです。像については、制作年代は作風から江戸時代前半期のものとされます。ちょうど五重塔建立のための第二期出開帳が行われていた時期と重なります
。前回にはなかった両親の像は、第二期の出開帳のために作られたようです。「空海誕生の地」にとって、幼少期の空海の姿とともに、両親の姿も必要と考えるようになったのでしょう。「弘法大師誕生所」を強調するためのアイテムのひとつともいえます。
一字一仏法華経序品
次に研究者が注目するのは「七種宝物」という言葉の登場です。
現在の弘法大師空海ゆかりの「七種霊宝」は、
①一字一仏法華経序品②金銅錫杖頭(いずれも国宝指定)③仏舎利④袈裟⑤水瓶⑥鉢⑦泥塔
の七件だそうです。ところが宝暦目録の「七種宝物」と、現在のものとはちがうっているものがあるようです。⑥の鉢はリストになく、幼少期の空海が作ったといわれる⑦泥塔は、両目録ともに、他の「七種宝物」から離れて配置されています。ここからは「七種宝物」は、江戸時代にはまだ特定化していなかったと研究者は考えているようです。
宝暦の第二期出開帳にあたり、江戸や上方の都市住民に「弘法大師誕地」をアピールするためのプロモート戦略として「七種宝物」という概念が新たに作り出されたのかもしれません。それは、瞬目大師に続く新しいアピールポイントになっていきます。
以上をまとめておくと
①善通寺では、17世紀末から金堂と五重塔の復興が課題となった。
②そのための建設資金集めのために、出開帳という新手法がとられた③出開帳には、目玉となる宝物が必要となった。
④そのため出開帳の趣旨に合う「宝物」が「創」られ、エピソードが付けられていった
⑤それが空海の父母の像であり、「七種宝物」という概念だった
そういう目で見ると、善通寺が次の二つを主張するようになるのも、江戸時代の後半からだった事に気がつきます
①善通寺では、17世紀末から金堂と五重塔の復興が課題となった。
②そのための建設資金集めのために、出開帳という新手法がとられた③出開帳には、目玉となる宝物が必要となった。
④そのため出開帳の趣旨に合う「宝物」が「創」られ、エピソードが付けられていった
⑤それが空海の父母の像であり、「七種宝物」という概念だった
そういう目で見ると、善通寺が次の二つを主張するようになるのも、江戸時代の後半からだった事に気がつきます
①父善通のために空海が建立した寺が善通寺②空海の母は、玉依御前
これも出開帳のアピールの中で生まれ、高揚した意識かもしれないと思うようになりました。
参考文献
渋谷啓一 善通寺出開帳目録から見る「宝物」の形成
香川県歴史博物館調査研究報告第三巻2007年
参考文献
渋谷啓一 善通寺出開帳目録から見る「宝物」の形成
香川県歴史博物館調査研究報告第三巻2007年
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