今から約300年前に起きた宝永の地震は、讃岐にも大きな被害を与えたようです。そのため被害の様子が記録として,数多く残っています。宝永地震を史料から見てみることにします。

八栗寺山門からの五剣山
高松市牟礼町と庵治町の境にある五剣山は、その名の通り五本の剣が天を突き刺すように並ぶ山容でした。しかし、今は南端(右)の五ノ峰が崩れ落ちて「四剣山」となっています。この五ノ峰を崩れ落ちさせたのが地震のようです。当時の資料を見てきましょう 現在の五剣山は5つ剣には見えないようです。
それでは地震で、崩れ落ちたのはどこなんでしょうか?
崩壊前と崩壊後の五剣山の姿を比較できる絵図があります。崩壊前の五剣山を描いた絵図「四国礼場記」を見てみましょう。

これは地震前の元禄年間に、高野山のエリート学僧寂本が四国をめぐり執筆した霊場誌です。本堂の後に天を指すように五剣山が立ち、そこには洞窟があり峰の頂には社が勧進されている様子が描かれています。北側(左)から順番に一の峰、二の峰と呼ばれていたようです。この絵図で見ると真ん中のひときわ大きい峰が3の峰と思っていましますが、これが4の峰になります。そして、南端(右)の二つに分かれた峰をまとめて5の峰と呼んでいたようです。
山と寺の名前の由来を、寂本は次のように記します。
空海は思いを凝らして七日間、虚空蔵聞持法を修した。明星が出現した。二十一日目に五柄の剣が天から降った。この剣を岩の頭に埋めたことから、五剣山と呼ぶようになった。空海は千手観音像を彫刻して、建てた堂に安置した。千手院と号した。この山に登れば、八国を一望に見渡せるため、「八国寺」とも呼ぶ。空海が唐への留学で成果を挙げられるか試してみようと、栗八枝を焼いて、この地に植えた。たちまちのうちに生長した。そこで八栗寺と名を改めた。
中央の峰に祀られていたのが蔵王権現です。
この峰には七つの仙窟があり、そこには仙人の木像や、五智如来が安置されいたと云います。蔵王権現を祀ることから石鎚山と同じ天台系の密教寺院であったことがうかがえます。中央には、空海が岩面に彫り込んだ高さ一丈六尺の大日如来像があり、そこで空海は求聞持法を行った岩屋があとも記します。 絵図ではひときわ高く太く描かれた真ん中の峰が蔵王権現が祀られた峰にあたるようです。

崩壊後の五剣山を描いた絵図を見てみましょう。
伽藍背後の五剣山を見ると、北側の4つは変わらないようですが南端の五の峰がポキンと折れて、平たくなっているように見えます。ふたつの絵図の比較から姿を消したのは、五の峰だったようです。

宝永地震は、宝永四(1707)年10月4日未刻(午後2時頃)に発生しました。
規模は、マグニチュード8・6、震度最大6(推定)で、我が国最大級の巨大地震とされます。足摺岬沖から御前崎に至る南海トラフ沿いの全海域を巻き込んだフィリピン海プレートの沈下にともなう海溝型地震とされています。
この地震による被害は、北陸地方から九州地方まで広い範囲に及んでいて、死者は推定2万人とされます。地震後には道後温泉などの各地の温泉の湯が一時的に出なくなり、49日後には富士山が大噴火し、宝永火口をつくります。讃岐では、この年は3月に地鳴か起こり、8月・9月には大雨や大風が発生、そして10月にこの地震です。この時期は旱魃も続き、社会不安が広がったようです。


当時の人たちは、どんな記録を残しているのか見てみましょう
「翁賜夜話」)
五剣山一峯崩墜 火光如電響驚数里
「地震発生とともに、五剣山の一峰が崩壊した。その際、火柱が電光のように立ち、数里にわたる轟音が響いた」
「嘉永七寅年地震記写」
平水時代右祖父之若盛り二相当り申候 其両八栗山五剣山之内東壱剣崩れ申候と申候
祖父の若い頃のに、五剣山の内の東端の山稜が崩れたと云っていた。この史料が書かれたのは、嘉永七(1854)年の安政南海地震の後に書かれています。宝永地震を体験した祖父からの聞き伝えを記しているようです。地震で崩れた場所は「東壱剣」と具体的な崩落場所を記述しています。
「消暑漫筆」
五剣山 一眸崩れ墜たるも此日の事なり
この史料も「嘉永七寅年地震記写」と同じように、後の時代に両親からの聞き伝えで、宝永地震の当日に五剣山の一峰が崩れたとしています。
このように多くの史料が五剣山は、宝永地震の際に、一峰が崩落したと記しています。
「恵公外記」
八栗山之嶽三ケ所大石落申候
「八栗山の嶽の三ケ所が崩落し、大石が落ちた」と、短く記します。その崩落した峰のことには触れずに「三ヶ所から大石が落ちた」とあるので、他の峰でも崩落があったようです。
宝永地震以前にも五剣山は、崩落していた
『讃岐国名勝図会』亘五剣山の記述
意訳すると往古 五剣完かりしが元禄十一年五月十一日より雨降同廿一日まで止ざりけるとき 廿日の暁五剣の内一峯北嶽中頃まで倒け其下に 大石ありしを五十間ばかり落し 其谷石に埋れけるされど権現の社は恙なかりける 其後宝永四年十月四日未の刻大に地震して東一峯また折れ北へ落る火光雷のごとく数里へ聞こえ夥しき音しけるとなむ
昔、五剣揃っていた元禄11(1698)年5月11日から21日まで、雨が降り止まず、地盤が緩み、5月20日の早朝にの五剣の内の一峰が北嶽中腹まで倒れ、巨石が落下し谷を埋めてしまった。しかし、権現の社は無事であった。その後、宝永4年10月4日午後2時頃、大地震が起きて東一峰が折れて北へ落ちた。その時には火柱がたち雷のような轟音が数里に渡って鳴り響いた。
この元禄11年の長雨による崩落のものなのかどうかは分かりませんが、一・ニノ峰の麓にある中将坊の堂裏や、その周辺には上から転がり落ちてきたと思われる巨石がごろごろしています。この史料からは宝永地震の時のものばかりでなく、それ以前に崩れ落ちてきたものもあることが分かります。
地震により、山崩れが起こり、五ノ峰がなくなったという事は、当時の人々には驚きと強い印象を与えたのでしょう。多くの人たちが記録として残しています。

どうして崩れ落ちたの?
五剣山・5の峰の崩壊原因を研究者たちは、どのように考えているのでしょうか。五剣山は,火山活動でできた花崗岩を基盤として、その上に凝灰岩、更にその上に火山角礫岩が乗っかっている構造のようです。
そして標高 300mより上は,火山角礫岩が断崖となっています。この火山角礫岩層は,間に凝灰岩層を水平にサンドイッチのように挟む形で、屏風のようにせせり立っていたようです。五の峰は、他の峰が幅があるのに比べて山頂部で 5~7mの幅しかありませんでした。塔のように細くせせりたっていたのです。


崩落した巨石は、どこに転がっているのか

崩れ落ちた岩塊(青い点)は、五の峰の北東側(地点 A右側)と南西側(地点 B左側)に転がり落ちて沢の下で集まっているのが分かります。このうち,地点 Aのものは、五の峰北部から、地点 Bのものは,五の峰北部と南部から落ちてこの地点まで転がってきたと研究者は考えているようです。

また、五の峰以外の沢にも、大きな石が転がり集まった場所があります。この時の地震だけでなく、崩落が続いていることがうかがえます。

どうして五の峰は崩れ落ちたのか?
先ほどもお話ししたように、五の峰山頂の崩落面は火山角礫岩中を上と下から凝灰岩層が挟むサンドイッチ状態になっていました。長い間の浸食で、凝灰岩層には水平割れ目ができて、上に乗る火山角礫岩は浮石状態になります。それが、巨大地震の揺れで揺さぶられて、崩れ落ちたというシナリオのようです。
それを裏付けるように、今でも五の峰北部山頂には崩落をまぬがれた東へ転倒した石が残っているようです。

以上をまとめると次のようになります
①五剣山の峰は、中新世の火山活動から生まれた火山角礫岩からできている.
②宝永地震で崩壊した五の峰は,他の峰と比べて非常に細く屏風岩のようにせせり立っていた.
③崩壊前の絵図にから五剣山の五の峰には2つのピークがあった
④宝永地震時に、五の峰北部は北方(庵治側),南部は南方(牟礼側)方向に崩落した
⑤五の峰の火山角礫岩層は,凝灰岩層が入り込んで分離面と成り浮石状になっている.
⑥山頂部に残っている転倒した火山角礫岩塊から,峰は墓石が転倒するように崩壊した
見なれた山が大きく姿を変えたことは地元の人たちにとっては、大きな驚きとショックをもたらしたのではないかと思います。また、この山を霊山として修行の場としてしていた修験者たちにとっても、大きな衝撃だったでしょう。しかし、八栗寺や修験者たちの当時の対応を記録した史料は、現在の所は見つかっていないようです。
「巨大地震」という視点で歴史を見直してみると、讃岐も無縁ではないようです。
①宝永地震 宝永 4(1707)年10月4日)②安政南海地震 嘉永 7(1854)年11月月5日)③昭和南海地震(昭和21(1946)年12月21日)
約100~150年周期で巨大地震に襲われているようです。早ければ今世紀の半ばには、五剣山の一つの峰を突き崩したような地震に見舞われる可能性があるようです。
おつきあいいただき、ありがとうございました。参考文献
香川大学工学部「1707 年宝永地震による讃岐五剣山の山体崩壊 」
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