宝永地震の際の高松城下町での倒壊被害について、史料を見てみましょう。
「小神野夜話」
往来一足も引かれ不申候 侍中両側之土塀と土塀と大方打合候程に覚候由 
「宝永地震当日は、往来に一足も行くことができず、武家町の土塀と土塀が打ち合うように倒れた。」
とあります。土塀は現在の鉄筋の入っていないブロック塀と同じだったようです。
  「随観録」
一 天守櫓 屋根瓦落 壁損申候 
一 多門ニケ所転懸申候 其外之多門少々ひツミ屋根瓦落壁大破仕候           
一 城内石垣並惣塀所々崩れ申候
一 城内潰家十九軒 此外二三之丸惣塀大破仕候
一 城内櫓一ケ所崩れ申候
一 潰家九百弐拾九軒 内四十五軒家中 
  六百四拾九軒町弐百三十五軒郷中
一 家中町屋建家数百軒大破
一 土蔵十ハケ所 川口番所三ケ所崩れ申候
一 死人弐拾九人 内九人男 廿人女
一 怪我人三人 内二人男 一人女
   以上
 この史料は高松藩から幕府へ提出したもののようで、被害状況が詳しく記されています。まず最初に挙げられるのが天守閣や石垣、城門・櫓などお城の被害であることが「封建時代」ということを改めて感じさせてくれます。天守櫓の屋根瓦が落ち壁が傷いたり、櫓も崩れるなど高松城自体にも大きな被害を受けたようです。しかし、「潰家九百弐拾九軒」とあり
倒壊 929軒
大破  数百軒
死者  29人(男9、女20)
被害が最も多かった場所が、城下の町屋で、高松藩全体の倒壊家屋の約七割を占めています。これは町屋の半分以上の割合になるようです。
  「翁謳夜話」(35)
  北浜魚肆瓦屋咸崩壊圧死者甚衆
 北浜の魚店(魚屋町)の瓦葺きの家はみな崩れ、圧死者が多く出た
と具体的な倒壊被害の場所や様子が分かります。藩は防火対策のために瓦葺建造物の建設を政策的にすすめていたようですが震災には、屋根に重い瓦の乗った家屋の方が倒壊率は高かったようです。死者の多くは、家屋崩壊による圧死者だったようです。
高松城122スキャナー版sim

 『増補高松藩記』には5年後の正徳元年(1712)の地震の時にも、魚屋町だけ76人の死者が出たとあります。また「小神野夜話」によると、享保三年(1718)元旦の大火では火が魚屋町に移ると大勢が助からないと、高松藩の役人を慌てさせたことが記されています。魚屋町は、店棚などの建物が多く建てられ、人口が密集しいる上に、袋小路の多い町並みで避難が難しかったことがうかがえます。災害に対して構造的な弱さがあると認識されていたのでしょう。魚屋町の住人は、広い場所に逃れることができなかった事が、他の町より圧死者数が多くなった要因と研究者は考えているようです。

高松城下図屏風 北浜への道1

 地震発生は昼の2時です。人々が「経済活動」を行っているときです。これが深夜であったなら寝込みを襲われて圧死者はもっと増えていたかもしれません。地震による火事の発生については触れられていません。
高松城下図屏風 船揚場への道3

 高松城下の流言飛語(フェイクニュース)は?
 地震直後は情報が空白となり、心理的にも不安になります。そのためいろいろな流言飛語が自然発生すると云われます。関東大震災の時の「朝鮮人暴動」の流言などが有名ですが、この宝永地震の時の高松はどうだったのでしょうか
     「翁謳夜話」
 都下流言某日将復大震海水溢 漂殺人 於是衆人皆匈々不得安枕 仮設草舎而寝臥且備米嚢海水溢則将斉去遁于山上
意訳すると
 再度大地震が発生し、大揺れに揺れて津波を起こし死傷者を出すという流言が飛び交った。そのため多くの人は安心して眠ることも出来ない。仮設の草葺小屋で生活を行い、さらに再度の津波に備え、非常用の米袋を用意し、いざという時には山の上に避難する準備をしている。

 2㍍近い津波は人々に大きな恐怖を植え付けたようです。今度は津波で多くの人が流されるという噂におびえています。津波に備えて非常用持ち出し袋も準備しています。流言が広がることで、人々は不安になり、混乱が発生していることがうかがえます。

高松藩の対応は?
 宝永地震の時の藩主は、第三代松平頼豊です。この地震は、藩主となった三年後のことでした。松平頼豊の治政は、宝永地震だけではなく、火事や風雨害など数多くの自然災害に悩まされたようです。
 地震当日の宝永四(一七〇七)年十月四日、松平頼豊は、参勤交代で江戸にいました。そのため高松での地震には遭っていません。
高松藩では、被災者に対してどのような対応を取ったのでしょうか
  「恵公実録」
(十月)十一日賑賜損屋者有差
11日地震で家が倒壊した者に米や金などが与えられ救済措置が施された
  「翁謳夜話」
  命有司書壊屋鯛之以金若穀各有差示
 地震後、役人に倒壊家屋の被害状況を調べさせ、被害に応じて金や日米を支給した
  「小神野夜話」
家中町郷中破損之家多く御座候由過分之御救米も被下候由
家中や郷中には、破損した家が多いので、藩から被災家屋それぞれに過分の御救米が与えられた
以上から高松藩では、地震発生から一週間以内に被災者に対する救済体制を整えていたことがわかります。高松藩は、この地震の前から多くの自然災害に襲われ、その対応経験がありました。いわば危機対応のマニュアルが準備されていたのかもしれません。それが迅速な対応となって現れたとしておきましょう。
 後の安政南海地震の際には、寒川郡長尾西村の庄屋をつとめた山下家の文書等からわかるように、高松藩内の村々の庄屋が、それぞれ村内の被害状況を詳細に調べ、藩に報告をしています。しかし、この地震の時には、村々の庄屋がどのように動いたかが分かる史料はないようです。
 宝永地震は、余震が長く続きます。翌年の夏頃になり、ようやくおさまります。やっと人々は、通常の生活に戻る事ができたのは約1年後のようです

3回にわたって300年前の大地震の被害と影響を見てきました。
最後に、その被害をもう一度まとめておきます
①五剣山のひとつの剣であった峰を崩落させ、見なれた故郷の山を姿を変えた。
②干潟を埋めて干拓された新田では、液状化現象が起こった
③夜には1,8㍍ほどの津波がやってきて、防波堤が数多く壊された
④高松城の天守閣の瓦が落ちたり、壁や櫓が崩れるなどの大きな被害を受けた
⑤瓦葺きの家を中心に900軒以上の家屋が倒壊した。その内、城下町内では600軒に及ぶ。これは半数以上の家屋が倒壊したことになる。
⑥北浜の魚屋町は道が細い道が入り組み袋状になっており、逃げ場の無い人たちが倒壊で多くの死者を出した。
⑦しかし、死者は全体で29人と以外に少ない
⑧高松藩は藩主は参勤交替で不在だったが、1週間後には救援活動を始動させている

以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。