本山寺五重塔

本山寺では、五重塔の平成大修理に併せて調査が行われてきました。現在の五重塔は、今から約120年前の明治24年(1891)から25年間、住職を務めた頼富実毅が取り組んだ本山寺復興事業の一貫として建立されもので、着工から上棟式まで14年を要した難事業であったことは以前紹介しました。今回新たに庫裏西側の倉庫などから五重塔関係の記録資料が発見され、調査報告書が最近出されました。その報告書を見ていくことにします。
 まず「五重大塔上棟式記録」の原本が見つかっています。その結果、明治の五重塔建立の過程が詳しく分かってきたようです。
例えば、五重塔建立に使われた用材について記した記録です。

本山寺五重用材設計書
本山寺の五重大塔第五重用材設計書
この「五重大塔第5重用材設計書」には、五層目に必要な部材の大きさ・数・代金を書き上げています。木材の種類別に書き上げていますが、照合すると実際に用いられている樹種と必ずしも一致しないようです。ここに書かれているのは見積書段階のもので、実際の施工時に変更が加えられた所が多数あるようです。「予定(計画)は未定、決定に非ず」という所でしょうか。資金的な問題もあったのかもしれません。
本山寺五重塔用材

また用材を購入した木材店からの本山寺への送り状もあります。一本一本の用材の長さや種類が記され番最後に久土山支店の名前が見えます。銘木の産地として有名な和歌山県伊都郡九度山の材木屋から仕入れたことが分かります。この他に、日向国延岡(現 宮崎県延岡市)・伊予国宇摩郡上分(現 愛媛県四国中央市)からの用材送り状が残っているようです。
建立費用の調達について
以前の段階では寄附金の募集については、分からないことが多くて想像を交えた話になりました。しかし、今回の史料発見で詳細まで分かるようになったようです。
  明治29年(1896)7月6日付で、本山寺住職頼富実毅から香川県知事宛に提出された五重大塔建築費用の寄附金募集願からは、次のような事が分かります。
①五重塔の建築が同年七月四日付で認可されたこと
②その直後に寄附金募集について認可を願い出ていること
③目標額が47469円94銭7厘で、そのうち6000円は予約申込がすでにあること
④目標額の内の三万円を香川県下で募集すること
⑤それ以外の17000円余りを、他府県下や四国巡拝等の参詣者から募集すること
などの計画であったようです。しかし、募金開始から6年後の明治35年の時点では、寄附金は目標の1/3に満たなかったようです。
 そこで、頼富実毅住職が自らが募金活動を行っています。
①頼富実毅住職による諸病の加持祈祷
②弘法大師四国道開御修行尊像の各地出張
③四国八十八カ所巡礼砂踏み
④各地への説教活動
などの活動で信者からの寄附を募っています。頼富住職は、目に障害を持っていましたがそれを押して自ら、岡山・愛媛・島根・山口・福岡・大分の各県に赴い募金活動を行っています。しかし、旅費など支出の方が収入より多いときもあり、この県外募金活動がうまく言ったとは云えないようです。時期も日露戦争の開戦と重なり、思うように募金は集まらず収支差引は211円で、「派出スルモ甚夕宜カラス」という結果になっています。

本山寺寄付
  資金調達のために本山寺が講元となって組織されたのが講(保存会)です。
講組織については、本山寺信徒総代など関係が深い人々を中心に組織され、会員の出資金を利殖したり、落札金との差額を五重塔保存のための積立金としたりすることによって、確実に費用の調達につなげています。保存会(講)組織が、集金マシーンとして機能したようです。
今回の発見の中には、明治末期から昭和後期の162枚の写真もありました。

五重塔や本堂、二王門、大門、大師堂など境内の建造物が写されています。また法要の様子や大勢での記念撮影、住職頼富実毅の肖像や本山寺以外の場所での写真もあります。
まずは五重塔上棟式の行列写真を見てみましょう。
本山寺五重塔上棟式の行列写真1

①提灯・幡を先頭に、羽織袴姿の楽人たちが雅楽を奏でながら進んでいきます。
②その後には人力車に乗った稚児と、母親と手を繋いだ稚児たちの姿が見えます。
③その後には日の丸が掲げられています。
④背後の山並みは、七宝山のようです。
⑤ 「五重大塔上棟式記録」には、パレードのスタート地点は「荻田宅」とあります。荻田家から本山寺までの上棟式行列を写したもののようです。
本山寺五重塔上棟式の行列写真2

⑥信徒に担がれた興に乗った僧侶(頼富実毅)が行きます。
⑦後にはまだ人が続きます。大勢の人々が練り歩き、沿道には観衆も見えます。1枚目の写真より畦の上の見物人は増えているようです。
五重塔上棟の法会として、明治43年12月10日に行われた「稚児行列」のようです。
本山寺五重塔から本堂へ架けられた仮設橋

この写真はパレードを終えた行列と観衆たちが境内に入ってきて大群衆となっています。向かって右側が本堂で、左側に五重塔があります。本堂から五重塔へは仮設の橋が架けられ、読経を終えた正装姿の僧侶たちが右から左へと動いていきます。
 庶民にとってはメインイヴェントの「棟上げの餅投げ」が、いよいよ始まる直前の写真です。裸祭のような熱気が伝わってきます。
本山寺餅投げ

 これは五重塔の上から境内を撮影した写真です。十二堂の脇に組まれた櫓に人が登り、櫓の周りには数百人以上の群衆がいます。「投餅・投物」が行われる直前なのでしょう。

本山寺大門

今回、私が一番興味を惹かれたのがこの写真です。
大門です。正面の仁王門ではありません。旧伊予街道側からの入口にある門です。第一次世界大戦直前の大正三年(1913)の大門移設時の写真のようです。この写真の裏には、当時の長田玄哉名誉住職のメモ書きとして、この大門が宝光寺(岡山県瀬戸内市牛窓町)より移築されたと記されているというのです。大門は海を渡って、吉備から運ばれてきたもののようです。境内整備計画の一環として移築されたのでしょう。
本山寺大門札2


写真の左側にある立札を拡大すると
「当郷一ノ谷 大門一建立 施主荻田才助
と読めます。一ノ谷村の荻田才助が、この大門を牛窓から移築し建立寄進したことが分かります。
荻田才助とは何者なのでしょうか?
荻田は村会議会が初めて開かれた明治23年5月に、豊田郡一ノ谷村の初代村長を務めた人物です。先ほど見た五重塔の上棟式行列は、荻田才助の家がスタート地点となっていました。五重塔建立や営繕費などとして、荻田の金や米の借用証が今回出てきました。大正3年11月には、五重大塔用費として本山寺は荻田から二十円を借用しています。言うなれば地域の有力者であると同時に、檀家集団や講運営のリーダーとして、住職を支えてきた人物だったのかもしれません。彼によって牛窓から移築され、当時のメイン道路であった伊予街道側に新たな入口が開かれたようです。
本山寺大門2
現在の大門
 

戦時下では、総動員令の下に「全てを戦場へ」のスローガンの下に、数多くの金属類が供出されました。
昭和18年2月、県下から集められた銅像の壮行式(除魂式)が高松城跡桜の馬場で行われます。
本山寺金属供出

この時の様子を写したものがこの写真です。ここには桜馬場に集められた約70点の銅像が写っていてます。この中に本山時から供出された頼富実毅像・牛像・修行大師像・楠木正成像・馬像などがあったようです。
写真の上には、次のような書き込みがあります。
「此ノ外 宣徳火鉢60ケ  菱灯籠一ケ  大線香立(直径3尺五寸)(本堂向拝ニアリシモノ) 五倶足―二組  鐘カネ半鐘  仏具等其ノ数百已上(以下判読不能)」
 本山寺が数多くの銅製品を供出したことが分かります。騎馬銅像・牛銅像・修行大師像は、供出直前の5月10日に本山寺で、「記念写真」が撮られています。お別れをした後に送り出されたようです。

以上をまとめておきます。
①明治に三豊の地方寺院が伽藍整備計画の一環として、五重塔の建立を計画した
②建設費用は約5万円で、県内外での募金活動を展開した
③日清・日露戦争の戦争の状況の中で、住職と一番になった檀家や保存会(講)は資金調達に成功④15年の歳月の後に明治末に五重塔を完成させた。その時の様子が写真に残っている。
⑤伽藍整備計画の一環として、大門が岡山県牛窓のお寺から移築された。
⑦この結果、本山寺は五重塔のある札所として三豊を代表する寺院となっていった。

  以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。

 参考文献    
本山寺五重塔の平成大修理に伴う文化財調査報告書(第2報)
 香川県立ミュージアム調査研究報告第10号(2019年3月)