脇指 無銘 ニッカリ青江((丸亀市立資料館蔵、重要美術品)
刃長60・3cm 反り1・1㎝ 元幅3・2㎝
全長76・3cm(茎)め金象嵌銘「羽柴五郎左衛門尉長(以下切)」
裏に金象嵌銘の上部のごく一部が残る (造込)三つ棟、鏑造 (茎尻)切 (目釘孔)三つ (茎鑢日)切 (彫)表裏に棒樋掻き通す
地鉄は板目肌に映りが立つ。刃文は直刃調に小のたれを交え、匂口締まる。南北朝時代特有の大切先に、大きくのたれて入り突き上げて深く返る錐子刃を焼く。もとは長大な太刀であったものが大きく磨り上げられ、現在の姿となる。角立四ツロ結紋を彫った金鋼がつく。無銘であるが備中国青江派の刀工による作と極められている。
江戸時代には丸亀京極家にもたらされていたようで
「京極に過ぎたるもの三つあり、につこり(ニッカリ)、茶壷(野々村仁清作の陶器類)に多賀越中(京極家家老、佐々九郎兵衛とも)」
と、小藩丸亀藩には過ぎた品と評されていたのが分かります。
どうして「ニッカリ」という号がつくのでしょうか?
この刀はもともとは江戸で保管されていたようです。それが江戸時代半ばに丸亀に移されます。近代になってから京極家を離れますが、その時期は分かりません。しかし、大正4年(1915)6月の「所蔵品台帳京極別邸」には記載があり、翌年の大正5年に東京に移されたと朱書の追記がありますので、丸亀を離れたのはそれ以降になります。その後、個人所有を経て、現在は丸亀市立資料館に収められています。
豊臣家が所蔵していた「ニッカリ青江」
「ニッカリ青江」は「大坂御腰物帳」のリストの中に記載があるので、豊臣家の所蔵刀剣であったことが分かります。そこには「につかり刀」とあるだけです。他のことは書かれていませんが、その名称から同一物であることは間違いないでしょう。大切な物が保管されていた「一之箱」に収蔵されていたので、豊臣家所蔵刀剣の中でも、ランクは上位に位置づけられていたことが分かります。
所有者を刻んだ金象嵌銘は「羽柴五郎左衛門尉長」と読めます。
ここから豊臣家のものになる前は、丹羽長秀か、その子長重が持っていたことが分かります。よく見ると所持銘の下部分が切れています。これは刀を短くしたため(磨き上げ)で、丹羽氏は父子ともに五郎左衛門尉を名乗っていたので、その下が見えないとどちらの持ち物だったかは分かりません。また丹羽時代に、当主の名前を切って、磨り上げが行われたとは思えません。短くされたのは、丹羽家を離れた後のことと研究者は考えているようです。
松平頼平の「京極家重代 珂加理刀之記録 稿」には、「ニッカリ青江」の磨り上げは、秀吉によるものとしています。しかし、特に根拠となる資料や背景は示されていません。
埋忠寿斎明栄が写した「刀絵図」には「ニッカリ青江」の押形が載せられ、次のような詞書が添えられています。

A 御物/につかり 長サ 二尺 作あおヘ(青江)B 秀頼様すり上り 光徳オ参候而 寿斎持三度仕申候C いんすにてそうかん也
Aの「御物」は豊臣家所蔵であったことを示し、
号、法量、作者が「長サ 二尺 作あおヘ」と記されます。
Cは「羽柴五郎左衛門尉長」の金象嵌銘に関する文言で、
「印子(いんす)金」で象嵌されていることを注記しています。
「印子(いんす)金」で象嵌されていることを注記しています。
研究者が注目するのはBの文です。
『図説刀剣名物帳』では「秀頼様ョリ上り」と解読しますが、片仮名の「ヨ」としている文字を「寸」をくずした平仮名の「す」であると解読すると「ニッカリ青江」は、秀頼の命で「磨り上げ」たと読めることになります。
寿斎が写した「刀絵図」には、原本に記されていた詞書に加え、寿斎による追記があります。その中で豊臣秀頼に関わるものがいくつもあるようです。そこには
「金具寿斎仕候/さめさや・墨さやニツニ成申候」
とあり、秀頼の指料として刀装の金具を寿斎が担当したことが分かります。そして、秀頼の注文を受けて、意匠直しを行ったりもしています。
「ニッカリ青江」は、秀頼のお気に入りの刀であったのかもしれません。そうだとすると、「ニッカリ青江」を自分の好みにあわせて磨り上げを行ったのも秀頼ではないのかという解釈も可能になります。
名刀と評価された刀剣を自らの好みにあわせ磨り上げることは、織田信長なども行っているようです。「ニッカリ青江」の場合、磨り上げの際には、丹羽長秀か長重の名前の一部を切り落とすことになります。それを命じることができる立場の者は、限られてきます。「ニッカリ青江」の磨り上げを行わせたのは、秀頼と考えるのは説得力があるように思えます。


京極家へは、どのようにしてもたらされたのでしょうか?
豊臣家が所蔵していた「ニッカリ青江」が京極家所蔵に移ったことについては、専門家は次のように指摘しています。大坂冬の陣での徳川・豊臣の和睦の際の京極家が仲介に対する恩賞として、秀頼から下賜されたのが「ニッカリ青江」であったとし、現在はこれが定説になっているようです。
「ニッカリ青江」は「一之箱」に仕舞われていたことから分かるように豊臣家の重要刀剣です。そして秀頼は「ニッカリ青江」がお気に入りだったことはすでに見てきました。この時に和睦の重要性を考えると、秀頼が愛用の「ニッカリ青江」を和睦成立の恩賞としたことは、妥当な流れのようです。


『埋忠銘鑑』の「ニッカリ青江」の図には「元和二霜月十一日二金具出来申候/寿斎」の記述があります。ここからは京極家が大坂夏の陣が終った翌年に、埋忠寿斎に依頼して金具を新調したことが分かります。秀頼から拝領して、意匠直しをおこなったことになります。どうしてでしょうか?
享保19年(1734)12月作成開始の「御刀脇指御印帳」では、
京極藩所有の刀剣ランキングを次のように記します。
京極藩所有の刀剣ランキングを次のように記します。
1番目に「長光衛府御太刀」(後に「備前長船真守」)2番目に「守家御太刀」3番日に「ニッカリ青江」
また、丸亀の刀剣台帳と云える享和三年(1803)作成開始の「御刀脇指御印帳」では、「ニッカリ青江」が筆頭に記されています。
享保の「御刀脇指御印帳」の中では、「ニッヵり青江」が徳川将軍拝領品よりも上位にランクされています。この「特別扱い」は、どこからくるのでしょうか
享保十七年(1732)、京極家は、将軍徳川吉宗からの求めに応じて伝来の遺物を供覧のために提出しています。この時提出されたのは
①ニッカリ青江②後奈良上皇から拝領の二尊旗③佐々木高綱の乗馬「生崚(生食いけづき)」の轡を直した道具④佐々木信綱所用の壷簸
です。近江源氏佐々木氏の流れを汲む旧族大名家であることに由来する伝来品と「ニッカリ青江」が組み合わされている点に研究者は注目します。別の見方をすると「ニッカリ青江」は豊臣秀頼からの拝領品としてではなく、京極家の由緒に関わる品として位置付られていたのかもしれないと思えてくるのです。
次の資料をみてみましょう。
伊佐孫二郎先祖佐々木太郎定綱ノ末 春貞父駒丹後守渡辺綱末也、丹後守佐々木屋形十番備ノ頭、近江長光寺ニテ化物ヲ切り候、其刀青江弐尺壱寸、柴田修理亮子息権六指申候ヲ丹羽長秀取り、太閤様江上ケ、太閤様ョリ若狭宰相殿日被遣候、今京極備中守殿御所持につかりと中刀之由、外ニニツカリノ御由緒書モ有之也
大正四年(1915)「所蔵品台帳 京極別邸」の「ニツカリ刀」についての記述です。文中に「今京極備中守殿御所持」とあることから、この文章は寛文二年(1662)から元禄七年(1694)まで丸亀二代藩主を務めた京極備中守高豊の時代に表わされたものと分かります。
太閤(豊臣秀吉)から若狭宰相(京極高次)に遣わされたと記されています。しかし、秀吉没後も「ニッカリ青江」は豊臣家の下にあり、秀頼が愛用していたのは見てきた通りです。この記述は誤っているようです。ここからは大坂陣から半世紀経った時点で、京極藩への来歴は不正確になっていたことが分かります。
「外ニニツカリノ御由緒書モ有之」とあり、該当すると思われる文書があります。その文章の全文は次のとおりです。
佐々木八九代已前
近江佐々木明神はけ物有、夜四つ時分参候刻、はけ物出につかりとわらい中候事度々ゆへ、其後参詣之もの無之、其段申上候、就夫其時之佐々木殿御一人御刀御指被成候、御越被成候、則かのにつかりと笑候はけ物につかりといたしゆへ、そのまゝ御切被成候ヘハ、ふるき石燈ろうをけさをかけて御切落申給候ゆへ、につかりと名付候
年紀がなく内容からも時期は分かりません。紙質や書体から、江戸時代に記されたものと研究者は考えています。内容は「ニッカリ青江」と呼ばれるようになった霊異譚です。
ここで研究者が注目するのは「ニッカリ青江」の所有者で、化物を斬った人物です。
「名物帳」では所有者は「九理(「クノリ」とふりがなが付けられています。「久理」は太夫で、近江八幡山を領する者の弟となっています。
「所蔵品台帳 京極別邸」の説明書きでは佐々木家の縁者で佐々木家に仕えた「駒丹後守」、
「につかり由緒書」では、特定の人名は出ませんが佐々木家当主となっています。
こうしてみると京極家の記録では、高祖佐々木家につながる人物となっている点に気付きます。さらに「につかり由緒書」では、化物の出没地も佐々木家ゆかりの「近江佐々木明神」です。
つまり、京極家に伝わる「ニッカリ」の出来は、京極家の祖先である佐々木家に引き寄せた内容になっているようです。
ここに「ニッカリ青江」を佐々木家ゆかりの品と一緒に、将軍家の供覧に提出した意図も見えてきます。それと裏腹の関係で、大坂陣で豊臣秀頼から下賜された記憶はうすれていったのでしょう。
ここに「ニッカリ青江」を佐々木家ゆかりの品と一緒に、将軍家の供覧に提出した意図も見えてきます。それと裏腹の関係で、大坂陣で豊臣秀頼から下賜された記憶はうすれていったのでしょう。
京極家は「ニッカリ青江」から豊臣家との関わりを消していったようです。それは拝領した翌年に大坂陣で豊臣家が滅びると同時に、「ニッカリ青江」の金具新調を行った時から始まっていたと研究者は考えているようです。
仮設も含めてまとめておくと
①丸亀京極家の「ニッカリ青江」は、豊臣家の「一之箱」に納められた重要な刀剣のひとつであった。
②「ニッカリ青江」は秀頼の愛刀のひとつで、磨り上げを行ったのも秀頼である。
③京極家への伝来は、大坂冬の陣の調停への秀頼からの下賜であった。
④)京極家内での「ニッカリ青江」は、京極家を代表する重要刀剣に次ぐものとされていた。
⑤その動機は、豊臣家よりの拝領という来歴ではなく、家の由緒に関わる品とされていた。
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 御厨 義道
高松松平家の「切刃貞宗」と丸亀京極家の「ニッカリ青江」
香川県立ミュージアム調査研究報告第8号(2017年3月)






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