写真は、丸亀市の南端にある垂水城の比定地付近の航空写真です。
写真右(東)側に白く写っているのは土器川の河床です。矢印で示しているのが「古城山浄楽寺」という浄土真宗の寺で、垂水城の故地とされています。
讃岐名所図会には、浄楽寺について次のように記します。
写真右(東)側に白く写っているのは土器川の河床です。矢印で示しているのが「古城山浄楽寺」という浄土真宗の寺で、垂水城の故地とされています。
讃岐名所図会には、浄楽寺について次のように記します。
一向宗阿州安楽寺末寺 藤田大隈守城跡也 塁跡今尚存在せり」
阿波の美馬にある安楽寺の末寺で、1502年に藤田氏の城跡に子孫が出家し、創建したと伝えられています。
買田の恵光寺の記録には、次のように記します。
塩入の奥に那珂寺あり、長宗我部の兵火で灰燼後に浄楽寺として垂水に再建
現在も塩入の奥に「浄楽寺跡」が残り、また浄楽寺の檀家もいます。このことから垂水の藤田大隅守の城跡へ、旧仲南の塩入から浄楽寺が移転再建されたと考えられます。
どちらにせよ当時は、阿波美馬の真宗興正寺派安楽寺が、讃岐山脈を越えて布教活動を活発化させていた時代です。山から里へ伸びてきた教宣ラインの最前線に建立された寺院のようです。しかし、江戸時代になると安楽寺を離れて、西本願寺に帰属します。
『讃岐国名勝図絵』には、垂水城は藤田大隅守城跡とされ、次のように記されています。
「南北84㍍、東西69㍍の寺の敷地が城跡。その西北部に幅4m高さ2mほどの土塁の一部が残り南西辺および西辺の外縁にそれぞれ幅3㍍・9,3㍍の堀跡を示す水田地がある」
しかし、写真からは、西辺の細長い水田以外に、それらしい地割を見つけることはできません。周囲には丸亀平野の条里制が良く残っています。しかし、これを古代からのものとみることはできないようです。
土器川生物公園付近(丸亀市垂水町)は、もとは遊水池
この辺りは土器川がすぐそばを流れていて、広い河床はかつての霞堰堤だったところです。そこが今は「土器川生物公園」として整備されています。つまり、垂水は江戸時代に堰堤整備が行われる前は氾濫原だったようです。古代の条里制整備の対象外だった所です。条里制は古代に線引計画は行われますが、それが全て着工され整備された訳ではないようです。中世になってから耕地化されたところもあるのです。垂水は「後発地域」だったことになります。その開発を行ったのが東国からやってきた武士団だったというのがひとつの仮説です。 話が横道に過ぎてしましました。私ならこれで「探求停止」になるのですが、研究者は、ただでは起きません。別の地点に居館跡を見つけたのです。
それは浄楽寺の東北に広がる点線で囲んだエリアです。
ここはよく見ると周囲の条里制地割と方向が少しちがいます。堀や土塁の痕跡は見えませんが、周囲は1町(110㍍)四方になります。
ここはよく見ると周囲の条里制地割と方向が少しちがいます。堀や土塁の痕跡は見えませんが、周囲は1町(110㍍)四方になります。
付近の小字名を調べると、
①垂水神社の参道を境に西が馬場、東が行時と呼ばれている②馬場の西北部が「ホリノクチ」と呼ばれている。③東北角×部の「鬼門」のところから、五輪石の一部の石造物が多量に出土④浄楽寺は「裏鬼門」の方向に当たる
福家惣衛は昭和30年に調査した結果を次のように報告しています。
城郭の規模は、東西六九丁、南北八四丁、面積五八で(約五反八畝)、土居(築地)は西北に残り、長さ96㍍、幅9㍍、高さ2㍍である。堀は南と西にその跡があり、南側では東西73㍍、西側では南北78㍍、幅は南西の所で6㍍、北西の所で9㍍あり、東側と北側に堀は無い。南側の西の方では堀のあった跡は農道となり、東側には満濃池の用水路が造られていたが、現在ではわずかに溝を残してブロック塀が築かれ浄楽寺の境内となった。西南にある鐘楼の所は隅櫓があった所であろう。さらに西隣の田地20町(約二反)と六町余(約200坪)の田地は旧城に付随していたものと思われる。また近くに馬場や弓場という地名があり、調馬場や弓の練習場であったのであろう。
この調査報告以後は「浄願寺=垂水城」説が定説となっているようです。航空写真による「浄願寺東北部=垂水城」は、それに対する仮設となるようです。どちらにしてもここにあるのは武士の居館で、私たちがイメージする近世以後の城郭とは、ちがうことだけは確かです。
垂水城ではなく垂水居館と呼んだ方が、いいような気もします。
垂水城ではなく垂水居館と呼んだ方が、いいような気もします。
武士の居館
ここを拠点とした武士集団の性格を私なりに考えて見ました。垂水居館の主は、土器川の氾濫原の開発に積極的に取組み、上流に井堰を築き導水し、居館の周りを水堀としていたのかもしれません。そして周辺の開拓を推し進めたのではないでしょうか。
近くには垂水神社がありますがこの神社が氏神とすれば、面白い物語が浮かびます。
垂水神社の由来は、次のような悪魚退治伝説を伝えます。
昔、日本武尊は南海に悪魚がいることを聞きこれを退治した。その時に負傷した兵士に水を飲ませたところ快癒したという所が坂出にあり、かヤ參の水として知られている。その後、尊の子孫が那珂郡三宅の里を治めていたが、日照りが続き人々は苦しんだ。その時、この地の松林の中によく茂った松の大木が三本あり、その枝葉の先から水が滴り落ちていたので地下には水の神が鎮まっていると考え、社を建て神々を祭り垂水の社と名付けたところ、以後は豊かな水に恵まれて豊作が続き、天平勝宝八年(756)には社殿も再建され村を垂水というようになった
というものです。
悪魚退治伝説は、中世に綾氏系譜に最初に登場します。古代のものではなく中世に作られた伝説です。綾氏の祖先が悪魚退治を行った神櫛王で、その功績として讃岐を賜り最初の讃岐国造となり讃留霊王と呼ばれた。その子孫が綾氏であるというものです。神櫛王を祖先とする綾氏一族(擬似的な血縁集団)は、この出自を誇りとして一族の団結を深めました。その際の聖地が綾氏の氏寺である飯山の法勲寺(後の島田寺)だと私は考えています。一族は法勲寺に集まって先祖をともらう「法要」を営むと同時に、一族の団結を誓ったのでしょう。
これを逆に見ると悪魚伝説を伝える神社は、(意識的には)綾氏一族に属する武士集団の氏寺であったことになります。土器川周辺に広がる神櫛王の悪魚退治伝説は、綾氏一族やその配下の勢力範囲と一致するというのが私の仮説です。ここに居館を構えた武士たちも自分たちが神櫛王の子孫と信じる綾氏につらなる武士たちだったのかもしれません。
さらに想像を飛躍させれば、次のような物語も紡ぎ出すことが出来ます。
綾氏一族(=香西氏・羽床氏・滝宮氏)の本拠は阿野(綾)郡です。
綾氏一族(=香西氏・羽床氏・滝宮氏)の本拠は阿野(綾)郡です。
羽床氏や滝宮氏は、大束川沿いに阿野郡から鵜足郡へ勢力を伸ばします。坂出福江湊を拠点に大束川を遡ってきた綾氏の勢力と飯山地域で合流します。そして、土器川を越えて垂水に居館を作ります。そして那珂郡や多度郡の勢力と対峙することになります。つまり悪魚退治伝説のある垂水神社や櫛梨神社は、東から伸びてきた綾氏勢力の最前線だったと私は考えています。戦国末期には、丸亀平野は多度津・天霧山の香川氏か、西長尾城の長尾氏が南北に分かれて勢力範囲を分け合う情勢になります。綾氏一族のエリアは、羽床・坂本・岡田・垂水・櫛梨ラインになるのでしょうが、この時点では「神櫛王伝説」も効力を失い、綾氏の結束は乱れます。
そのよう中で垂水の居館にいた「棟梁」は、どのような道を歩んだのでしょうか?ついでに、それも想像で描いてみましょう。
①神櫛王伝説を信じる一族が土器川を渡り、その西にある垂水の地に居館を構える
②土器川の氾濫原開発を進め急速に力を蓄え、垂水神社を氏寺として造営する
③綾氏一族の祖先を祀る法勲寺で行われる「法要」には必ず参加し、結束を深める
④阿波美馬の安楽寺からの浄土真宗の布教ラインが土器川上流より次第に北上してくる
⑤多度津の香川氏と西長尾の長尾氏の小競り合いが周辺で多発するようになる
⑥頼りにする綾一族は、香西氏や滝宮氏・羽床氏が抗争を激化させ後盾とはならなくなる
⑦動乱への予感と不安の中で、垂水居館の主は浄土真宗へ改宗し、館の南西に「道場」を開く。
⑦そして戦国末の動乱の中で垂水居館の主は敗れ去り、姿を消した
⑧後に子孫が浄土真宗の僧侶となり、かつての居館の道場があった所に浄楽寺を開く
⑨垂水神社に伝えられていた悪魚退治伝説は、金毘羅神として生まれ変わり、金毘羅大権現繁栄の道を開く
以上、おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
木下晴一 中世平地城館跡の分布調査
―香川県丸亀平野の事例 大堀館
―香川県丸亀平野の事例 大堀館
香川県埋蔵文化財調査センター 研究紀要3 1995
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