道隆寺 堀越津地図

 多度津町の四国霊場第77番の道隆寺周辺の中世の復元図です。この復元図からは、次のような事が分かります。
①道隆寺周辺には多度津と堀江津という二つの港があった。
②金倉川河口西側に砂堆があって、そこに多度津があった
③弘浜は砂堆と砂洲との間にあり、ここが堀江津であった。
④砂洲の背後には潟(ラグーン)があり入江を形成した。
⑤入江の奥に道隆寺があり、船着場として好地であった
⑥道隆寺は堀江津にも近く、港をおさえる位置にある。
砂州が沖合に一文字堤防のような形で形成され、その背後に大きな潟ができていました。まさに自然の良港だったようです。そして道隆寺の北はすぐに海です。多度郡の港町は 
①古代 弘田川河口の白方
②中世 道隆寺背後の堀江
③近世 桃陵公園下の桜川河口
と移り変わります。中世に堀江が港町だった時代に、その港湾センターの役割を果たしたのが道隆寺であることは、以前にもお話ししました。
道隆寺1航空写真

今から約60年前の1962年の航空写真です。
多度津・丸亀線が道隆寺境内が境内の北側を通るようになったために、今では北側の駐車場に車を止めてお参りする人が多くなりましたが、雰囲気があるのは南側からのお参りです。人や車の行き来が少なくなって、昔の趣が残されています。

道隆寺山門

この寺にお参りすると風通しの良さというか、のびのびとした感じを受けます。なぜそう感じるのかを考えて見ると、本坊や庫裡が伽藍の中にないのです。善通寺の東院と同じよう感じです。朱印記帳も伽藍の方でできるので、本坊がどこにあるのかは分からずしまいです。

道隆寺伽藍

それでは本坊は何処に?

道隆寺 堀越津地図2
多度津道隆寺周辺 入道屋敷跡
 航空写真で見ると、仁王門や金堂などの建つ伽藍から東南東に100㍍ほどの所に本坊があります。
今回とりあげる居館跡は、この本坊西側の長方形の畑です。
東西75m・南北65mの畑で、20年ほど前までは周りに堀城の凹溝があったとそうです。この土地は昔から「入道屋敷」と呼ばれ、道隆寺と関連する城館址とされてきました。畑の周りは水田なのにここだけが畑なのは、周囲より少し高く水掛かりが悪く水田に出来ないからだといいます。この入道屋敷の主は誰なのでしょうか?  もし武士だとすると、なぜ道隆寺のすぐそばに居館があるのでしょうか。道隆寺との関係をどう考えればいいのでしょうか?


道隆寺 グーグル

 
「道隆寺文書」(『香川叢書』史料篇②収)には14世紀初頭(1304)の発願状があって、寺の由来を次のように記しています。
①鎌倉時代末期の嘉元二(1304)年に、領主の堀江殿が入道して、本西と名乗ったこと。
②讃岐国仲郡鴨庄下村地頭の沙弥本西(堀江殿)は、道隆寺を氏寺として崇拝する理由を、藤原道隆と善通寺の善通は兄弟だからだ答えたこと
③兄の善通が多度郡に善通寺を建てたのを見て、仲郡に道隆寺を建立したこと。
④ふたつの寺が薬師如来を本尊としているのは、兄弟建立という理由によること。
 道隆寺は、もともとは法祖宗のお寺でしたが、その後衰退したのを那珂郡鴨庄・地頭の堀江殿が「入道」し、本堂と御影堂と本尊、道具、経論、などを建立し伽藍整備を行ったとします。堀江殿は「道隆寺中興の祖」で、「入道」して修験者でもあったようです。彼は真言密教の修験者なので、その後の道隆寺は真言宗に属すようになります。

道隆寺 道隆廟

 なぜ堀江殿が道隆寺を復興(実際には新規建立?)したのかというと、由来書は善通寺を建立した善通と、道隆寺を建てた道隆は兄弟であったからだというのです。ここには、当時西讃地方で最も名の知られていた善通寺と、道隆寺が因縁の深い寺であるというセールス戦略があるようです。この由来を、そのままは信じられませんが中世の港である堀江港を支配下に置く地頭の堀江殿が「入道」し、道隆寺を建立したというのです。
道隆寺は堀江殿の「氏寺」として「再」スタートしたということになります。
「入道」は広辞苑には
「在家のままで剃髪・染衣して出家の相をなす者。」
「沙弥」は「剃髪しても妻子があり、在家の生活をする者」
とあります。道隆寺を建立し、堀江港の港湾管理センターの機能を担わせるには「入道」は良い方法のように思えます。
 
道隆寺3

道隆寺の記録「道隆寺温故記」には、次のように記されています。
(嘉元二(1304)年)
鴨之庄地頭沙彌輛本西(堀江殿)、寄田畠百四町六段、
重修造伽藍
ここからは鴨庄の領主は、その名称から賀茂社で、その地頭を堀江殿が務めていたことが分かります。そして鴨庄は道隆寺のある葛原郷北鴨と南鴨のあたりにあった荘園であったことが分かります。

金倉 鴨
道隆寺と多度津鴨庄

 以上をまとめておくと、嘉元二年(1304)、鴨荘下村の地頭沙弥本西(堀江氏)が田畠を寄進し、僧円信を助けて伽藍を修造するとともに、新たに御影堂を造るなどして再興し、氏寺としたということです。
その後は、領家光定をはじめ、西讃守護代で多度津に拠点を置く香川氏やその家臣とみられる管主などさまざまな階層から所領の寄進を受けるようになり、道隆寺は発展します。
 ある研究者は、本西(堀江氏)が子々孫々に対して道隆寺を氏寺と定め、その一族や一門にも信仰を厳命したことについて、

「氏寺の信仰を媒介として一族の結合と所領経営の維持・強化を図る武家の惣領としての強固な覚悟の表現である。ここに、氏のための寺である氏寺としての大きな役割がある」

と、道隆寺が中世においては、武士団の結束を固める一族の寺であったとしています。
道隆寺仏像

 伽藍整備などのハード面の整備は堀江殿によって行われたとしても、お寺に魂を吹き込むのは僧侶たちです。優れた僧侶がいないとお寺は繁栄しません。

道隆寺の復興を行った僧侶は、永仁三年(1295)に院主となる円信のようです。『道隆寺温故記』には、永仁三年(1295)二月の記事として、次のような記事があります。
 円信、従根来持若干ノ自相・教相ノ書峡井仏像・絵多幅、仏道具等、来暫住当山、故慶、譲院主於信、謀興廃道隆寺、因以同七月十一日、移住于明王院焉、
次のように意訳します。
 円信が紀伊国根来から、若干の事相・教相の書物をはじめ仏像・絵、諸道具等を持って暫く道隆寺に滞在したところ、明王院主であった信慶が、この円信に院主を譲り、荒廃していた道隆寺の再興をゆだねたため、円信が明王院に移住した

ここからは次のような事が分かります。
① 円信は紀伊の根来寺の僧侶であったこと
② 聖教や各種の書物や仏像を持って堀江津にやってきた
③ 興廃していた道隆寺の院主に請われて就いたこと
 円信が道隆寺住職に就任した9年後に、堀江氏(本西氏)による伽藍建立が始まります。この間に円信は堀江氏を帰依させ、強い信頼感と信仰心を抱かせ、氏寺として復興しようとする決意を形作らせていったことになります。堀江氏の円信に対する信頼は強かったようで、道隆寺のお寺としてのランクを維持するために必要な道具・本尊・経論・聖経などを調えたは円信であったとして、彼の功績を賞賛しています。

道隆寺本堂

 それでは円信はこれらの「寺宝」を、どのようにして手に入れたのでしょうか?
それは瀬戸内海海運による各地域とのネットワークで入手したと研究者は考えているようです。注目するのは道隆寺と根来寺との関係です。例えば道隆寺に残る医書『伝屍病計五方』の奥書には、次のように記されています
「千時建武元年十月七日於讃州香東郡野原書写之、大伝法院我宝生年三十五」
ここからは建武元年(1334)に紀州根来寺からやってきた我宝という僧侶が、讃岐国野原(現高松市のサンポート周辺)のお寺で、これを書写したとあります。根来寺の僧侶が書写する書物をもとめて讃岐にやってきています。
 この我宝は、大須観音宝生院の真福寺文庫の『蓮華院月並問題』の奥書にも名前が残っています。
  杢二
為院家代々之祖師報恩講抄之。
正平九年甲午四月廿九日 第八代院務権少僧都頼豪 七十二
同十四年己亥一一月十八日  我宝      (朱書)
  貞治三年五月中旬比於讃州道隆寺明王院書写丁
この奥書からは、分かることは
①院家代々の祖師への報恩講のために書写した
②正平九年(1354)4月に根来寺の頼豪(72歳)が書いた本を
③5年後に我宝が書写した。書写の場所は、根来寺か野原(高松)かは分かりません。
④貞治三年(1363)五月に道隆寺明王院で、再度書写された。
根来寺の我宝が書写した本が、道隆寺にもたらされていたことが分かります。ここからも道隆寺と根来とのつながりが見えてきます。
道隆寺多宝塔

 書写は修行の一貫とされていました。
若い僧侶は、まだ見ぬ書物を求めては各地の寺院に出かけ、時には何ヶ月もかけて書写を行っていたようです。それが修行でした。貴重な書物を多く持つ寺院は自然と学僧が集まり、評価が高まっていきます。姫路にはそれを山号にした書写山圓教寺というお寺もあるくらいです。書き写すべきものは経典だけでなく、医学書や薬学・土木工学などにもおよんでいました。多くは中国から日宋・日明貿易を通じてもたらされましたが、留学僧が持ち帰ったものもあります。留学僧の目的のひとつは、どれだけ多くの書物を持ち帰るかにあったようです。そのためパトロンの博多商人から多額の資金を集めて、留学するのがひとつのセオリーでもあったようです。
 このようにしてもたらされた貴重な書物をどれだけ保管しているかを、有力寺院は競い合っていたようです。今の大学が「内の図書館の蔵書は100万冊で、珍本として○○がある」という自慢話と似ています。まさに、近世以前の大寺院は「大学」であり、学問の場でもあったようです。

 話を元にもどします。道隆寺は円信と堀江氏の連携で再興を果たして寺院体勢を整備していきます。それが可能となった背景の一つに、交易活動が活発に行われている港にある寺院という強みがありました。それを生かして道隆寺は、円信以後も紀伊国根来と人とモノの交流を行っていきます。それは経済的な交易活動ももちろん含みます。双方向だけでなく根来寺が作り上げた「瀬戸内海 + 東シナ海」交易網のひとつの拠点として、堀江津は動いていたことになるようです。
 当時の寺院は奈良の西大寺のように、積極的に瀬戸内海に進出し、拠点港に寺院を構えます。ある意味、寺院は交易上の「支店」でもありました。そのネットワークは日明貿易を通じて、東アジアに広がっていきます。この交易網に属していれば、巨大な富の動きに関われます。
 この時期の堀江津の道隆寺は「堀江殿」によって、根来寺のネットワークに参加することができるようになったのかもしれません。道隆寺再興には、堀江港の繁栄があったのです。繰り返しになりますが道隆寺は、堀江氏の自前の寺なのです。そこに居館が置かれても商人たちが不満や反発することはありません。この点が宇多津の日蓮宗の本妙寺や、観音寺の禅宗聖一派の西光寺と異なるところです。
 堀江津は最初の地図で示した通り、砂嘴の入口にあったようです。
そこには港として町屋があり、海運業者や問屋などが集住していたかもしれません。そこを避けて自分の居館のある入江奥の地に、堀江殿は道隆寺を建てたのかもしれません。居館が先、氏寺はその後、だから伽藍と本坊が分離したとも考えられます。
 港をおさえる立場にあった道隆寺は海運を通じて、塩飽諸島の寺社を末寺に置き広域な信仰圈を形成します。まさに、海に開かれた寺院に成長していくのです。そこには、真言密教に関わる修験者の活動が垣間見えるように思います。周辺には塩飽本島を通じて岡山倉敷の五流修験者の流れや、醍醐寺の理源の流れが宇多津の聖通寺や沙弥島には及んでいます。そのような影響が道隆寺にも及んでいたと私は思っています。
 まとめておくと
①中世の堀江津を地頭が堀江氏(本西氏)が管理していた。
②13世紀末に、衰退していた道隆寺の院主に紀州根来寺からやってきた円信が就任した
③円信は堀江氏を帰依させ、道隆寺復興計画を進めた
④新しい道隆寺は、入江奥の堀江氏の居館のそばに整備された。
⑤居館と伽藍が並び立つようなレイアウトで、堀江氏の氏寺としての性格をよく示したいた。
⑥道隆寺は、根来寺の「瀬戸内海 + 東シナ海」交易ネットワークの一拠点として繁栄した。
⑦道隆寺は、経典類も数多く集められ、学問所として認められ、多くの学僧が訪れるようになり、地域の有力寺院に成長していく。
⑦西讃岐守護代香川氏も菩提寺に準じる待遇を与えた。
  以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献
  上野 進 海に開かれた中世寺院 道隆寺  香川県立ミュージアム調査研究報告