丸亀市中津町の中津八幡神社付近のグーグル写真です。
ここに「オーヤシキ」(鬼屋敷・大屋敷)といわれる居館跡があるようです。今では住宅に囲まれた辺りがそうらしいのですが、周りと比べてそれらしい地割は見当たりません。堀跡らしい痕跡もありません。周りの条里型地割の中に溶込んでいます。しかし、航空写真で南北約81m。東西約88mの周囲を回る細長い地割の水田が、周囲よりほんの少しだけ低く凹地となっていることが読み取れると云います。
中津八幡神社
航空写真は、隣り合う空中写真の画面に約60%の重複があり、これを実体視することで、その高低差が分かるようです。周囲の地割に溶け込んでいるような場合でも、注意深く判読すると、堀状にめぐる地割が見えてきて、さらにそれを手がかりに周囲より低くなっている低地が分かると研究者は云います。中津八幡神社の狛犬
オーヤシキの南には、土居の南、堀のたんぼ、蓮堀などと呼ばれる地名が残ります。昔の居館跡を推定できる名前です。また、オーヤシキから東約100mの水田からは、百年ほど前の昭和5年に大きな石と一緒に、中国の唐宋時代の古銭が数千枚出土しているようです。居館の主が、いざというときに備えて隠しておいた「埋蔵金」なのかもしれません。いまは、住宅地の中になっています。
このオーヤシキの主は、どんな武士だったのでしょうか
『西讃府志」の「中津為忠墟」には、次のように記されています。
下金倉村東ニアリ、鬼屋敷トイエリ 延宝年間 廃して田畝トナセリ 相伝フ六孫王経基ノ五男 下野守満快二十一世ノ孫、三郎左衛円為景、此地二居テ、金倉杵原等ヲ領セリ、其子為忠将監卜稀ス、武力人二絶タリ。自其勇ヲ頼ミ、騎奢限リナシ、人呼ンデ鬼中津トイヘリ、香川信景卜善カラズ、天正三年信景、香西伊賀守、福家七郎、瀧宮豊後守、 羽床伊豆守卜相謀り、 討テ是ヲ滅セリ。
意訳変換しておくと
下金倉村の東に鬼屋敷という所がある。ここは延宝年間に、屋敷は廃されて今は田畝となっている。この鬼屋敷の主は六孫王経基の五男である下野守満快の21世の孫で、三郎左衛門為景という。ここを拠点に、金倉や杵原を領有していた。その子の為忠は武力に優れ、それを自慢に奢ることが多かったので、「鬼中津」と呼ばれた。
為忠は天霧城の香川信景と対立関係にあった。そこで、香川信景は天正3(1575)年に、香西伊賀守、福家七郎、瀧宮豊後守、 羽床伊豆守と相談し、 為忠を滅ぼした。
天正3年に香川信景(之景)に滅ぼされたとする点は『南海通記』にも記されています。『西讃府志』の記述は、『南海通記』に拠ったものと研究者は考えています。『西讃府志』の編者は、金倉顕忠の居趾が明らかでないとし、おそらく顕忠は為忠のことではないかと推測しています。いずれにしても金倉氏(あるいは中津氏)が金倉を中心として、その周辺に勢力をもっていたことがうかがえます。そして、それは西讃守護の香川氏との敵対関係を招き、滅ぼされたと云うのです。
南海通記に書かれていることをもう少し見ておきましょう。
為景の子が為忠です。彼は中津将監とも云い、武勇にすぐれ並ぶ者がなかったと伝えられます。
そのため為忠は、次第に驕りたかぶるよになったので鬼中津とも呼ばれたようです。西讃の守護代であった天霧城主香川信景は、中津為忠を戒めて従わせようとしますが、かえって為忠にたびたび多度津方面に侵入されるようになります。そこで香川信景は香西伊賀守、福家七郎、滝宮豊後守、羽床氏ら綾氏一族の力を借り、天正三年(1575)中津為忠を討ちとります。武勇にすぐれた為忠は馬にまたがり奮戦しますが、多勢に無勢で討死します。
そのため為忠は、次第に驕りたかぶるよになったので鬼中津とも呼ばれたようです。西讃の守護代であった天霧城主香川信景は、中津為忠を戒めて従わせようとしますが、かえって為忠にたびたび多度津方面に侵入されるようになります。そこで香川信景は香西伊賀守、福家七郎、滝宮豊後守、羽床氏ら綾氏一族の力を借り、天正三年(1575)中津為忠を討ちとります。武勇にすぐれた為忠は馬にまたがり奮戦しますが、多勢に無勢で討死します。
中津八幡神社
この経緯をまとめると次の通りです。①戦国大名化した多度津の香川氏が勢力を広げ、金倉川沿いの中津にまで及ぶようになった②香川氏の領域支配に、従わず抵抗したのが中津(金倉)為忠である③香川氏は香西・福家・滝宮・羽床などの旧綾氏一族と連携し④天正3年(1575)年に香川・旧綾氏連合は孤立化させた中津(金倉)氏を滅ぼした。
この南海通記の記述を、阿波三好氏との関係の中で年表化すると次のようになります。
天文22(1553)年 阿波の三好三兄弟の一存が、十河氏(そごう)を嗣ぐ。
東讃岐の国人寒川氏や香西氏を配下にし、東讃岐を勢力下に置く。
永禄3(1560)年 阿波三好氏は、西讃岐へも侵攻し、奈良・長尾氏を配下へ
永禄6(1563)年 天霧城攻防戦で、香川氏は毛利氏の下へ亡命
讃岐はその後、三好長治の臣下・篠原長房の氏配下へ
元亀3年(1573)年篠原長房殺害で、長房の下にあった讃岐国人の反三好の行動。
天正2(1574)春 三好長治の讃岐侵攻と、讃岐国人・香西氏と交戦
讃岐国人・長尾氏は長治の叔父・大西覚養と交戦(?)
亡命中の香川氏も毛利氏の援助を得て、讃岐に帰国し、大西氏と交戦(?)
天正3(1575)年 香川氏・香西氏連合は、三好方であった中津(金倉氏)を攻め滅ぼし、中・西讃岐から三好勢を駆逐
しかし、香西氏などの讃岐国人衆が三好氏に反旗を翻したということは、南海通記に記されているだけです。
今度は不確実な南海通記の情報を除いた年表で当時の讃岐の情勢を見ておきましょう
今度は不確実な南海通記の情報を除いた年表で当時の讃岐の情勢を見ておきましょう
1568 永禄11 11・ 三好氏の配下の篠原長房が讃岐国衆を従え備前の児島元太の城を攻める.
9・26 織田信長,足利義昭を奉じて入京する
1570 元亀6 9・- 石山本願寺光佐(顕如),信長に対し蜂起(石山戦争開始)
1575 天正3 5・13 宇多津西光寺.信長と戦う石山本願寺へ.援助物資搬入。
香川信景が、那珂郡の金倉顕忠を,福家・滝宮氏などに討たせる
1576 天正4 15代将軍足利義昭、鞆の浦へ下向。(鞆幕府開府) ・毛利氏、第二次信長包囲網に参加
7・13 毛利輝元が信長側の水軍を破り,石山本願寺に兵粮搬入
7・13 毛利輝元が信長側の水軍を破り,石山本願寺に兵粮搬入
1577 天正5 3月 ・信長方、塩飽諸島を一時期抑える
7月 ・毛利氏、讃岐へ渡海。元吉合戦起こる。
1578 天正6 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
7月 ・毛利氏、讃岐へ渡海。元吉合戦起こる。
1578 天正6 長宗我部元親,藤目城・財田城を攻め落とす(南海通記)
11・16 織田信長の水軍,毛利水軍を破る
年表からは、信長と本願寺の石山戦争が開始され、瀬戸内海の諸勢力がどちらにつくかの判断を求められている時期にあたることが分かります。中津(金倉)氏が滅ぼされた時点での対立構図をまとめると
ここで確認しておきたいことは、この時点では三好氏も香川氏も信長の傘下にあり、対立状況にはないことです。また、讃岐国衆が篠原長房死後に、三好氏より自立化しようとした動きは見えません。石山本願寺方 将軍足利義昭・毛利輝元・小早川・村上水軍・塩飽水軍 宇多津の西光寺信長方 阿波三好氏・西讃守護代香川氏
讃岐国衆が三好氏の配下にあったことをしめす史料を見ておきましょう。
史料1天正五年閏七月二十二日付冷泉元満等連署状写「浦備前党書」『戦国遺文三好氏編』第三二巻
急度遂注進候、 一昨二十日至元吉之城二敵取詰、国衆長尾・羽床・安富・香西・田村・三好安芸守三千程、従二十日早朝尾頚水手耽与寄詰口 元吉城難儀不及是非之条、此時者?一戦安否候ハて不叶儀候間、各覚悟致儀定了、警固三里罷上元吉向摺臼山与由二陣取、即要害成相副力候虎、敵以馬武者数騎来入候、初合戦衆不去鑓床請留候条、従摺臼山悉打下仕懸候、河縁ニ立会候、河口思切渡懸候間、一息ニ追崩数百人討取之候。鈴注文其外様躰塙新右帰参之時可申上候、猶浄念二相含候、恐性謹言、天正五(1578)年閏七月二十二日乃美兵部 宗勝児玉内蔵太夫 就英井上又右衛門肘 春忠香川左衛門尉 広景桂民部大輔 広繁杉次郎芹衛門尉 元相粟屋有近助 元之古志四郎五郎 元清杉民部大輔 武重村上弾正忠 景広 (笠岡)村上形部人輔 武満 (上関)包久宮内少輔 景勝杉七郎 重良冷泉民部大輔 元豊(満)(元吉城普請)岡和泉守殿
この史料は、小早川家臣の岡就栄に元古合戦の詳細を報告した冷泉元満らの連署状です。意訳変換してみると
急いで注進致します。 一昨日の20日に元吉城へ敵が取り付き攻撃を始めました。攻撃側は讃岐国衆の長尾・羽床・安富・香西・田村と三好安芸守の軍勢合わせて3000程です。20日早朝から尾頚や水手(井戸)などに攻め寄せてきました。しかし、元吉城は難儀な城で一気に落とすことは出来ず、寄せ手は攻めあぐねていました。そのような中で、増援部隊の警固衆は舟で堀江湊に上陸した後に、三里ほど遡り、元吉城の西側の摺臼山に陣取っていました。ここは要害で軍を置くには最適な所です。敵は騎馬武者が数騎やってきて挑発を行います。合戦が始まり寄せ手が攻めあぐねているのをみて、摺臼山に構えていた警固衆は山を下り、河縁に出ると河を渡り、一気に敵に襲いかかりました。敵は総崩れに成って逃げまどい、数百人を討取る大勝利となりました。取り急ぎ一報を入れ、詳しくは帰参した後に報告致します。(以下略)
この史料から合戦の推移や参加者の顔ぶれがうかがえます。
ちなみに中津氏を討ち取った香川氏の「外交戦略」は、次のように変化します。
①中津氏を滅ぼした翌年には、信長の傘下に入り、
②元吉合戦の時には毛利氏に③2年後に土佐の長宗我部が侵入してくると、その先兵となって讃岐制圧に協力
「機を見るのに便」なのか「風見鶏」なのかよく分かりませんが、生き残っていくための彼なりにの身の振り方だったのでしょう。
以上からは中津(金倉)氏が香川・香西連合郡に攻め滅ぼされたということには疑問を抱かざる得ません。ここにも南海通記の誤謬・創作があるように私には思えます。敢えて推測するなら、中津氏が毛利氏側について、備讃瀬戸南航路の拠点港(中津?今津)を提供し、毛利氏の瀬戸内海航路確保に協力したことは考えられます。それを嫌った信長から排除要望が三好氏や香川氏に出されて、軍隊を出したという説です。
ちなみに中津氏にについては、次のような後日談があります。
中津為忠には幼児がいて、家臣の西山吉左衛門、前川久左衛門らは、阿波の櫛田の深山に隠れ住みます。やがて四半世紀を過ぎ、関ヶ原の戦いも終わり、讃岐にも生駒氏の手によって天下泰平の世がもたらされます。阿波の櫛田で成長した為忠の一子は、姓を遠山と改めて遠山甚太夫忠英と名乗ります。そして家臣の西山や前川らの家臣ととも金倉へ帰って、金倉川氾濫原の開発にあたったようです。
当時の生駒藩では新規開発地は、開発者のものになるという有利な条件でしたから周辺の国々から讃岐に多くの入植者が入ってきたようです。中津の川向こうの多度津側の葛原を開発したのが以前に紹介した木谷氏です。木谷氏も芸予諸島の村上水軍に属していたようですが秀吉の海賊禁止令後に讃岐にやって来て、生駒氏の下で急速に耕作地を広げ、大庄屋へと成長していきます。
当時の生駒藩では新規開発地は、開発者のものになるという有利な条件でしたから周辺の国々から讃岐に多くの入植者が入ってきたようです。中津の川向こうの多度津側の葛原を開発したのが以前に紹介した木谷氏です。木谷氏も芸予諸島の村上水軍に属していたようですが秀吉の海賊禁止令後に讃岐にやって来て、生駒氏の下で急速に耕作地を広げ、大庄屋へと成長していきます。
中津八幡神社
中津氏(遠山氏)も中津で耕地を拡大していきます。以後、遠山家は代々下金倉(中津)に住し、その家は分かれてこの地域の有力者として江戸時代を生き抜いていきます。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。 2025/02/12改訂
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