
丸亀市飯山町の法勲寺には、中世以来の地名が残っています。そんな地名を追いかけて見ると何が見えてくるのでしょうか。地図を片手に、法勲寺を歴史散歩してみます。まずは法勲寺の位置を確認しておきます.

法勲寺荘は土器川の東岸、飯野山の南側で鵜足郡に属し、古代寺院の法勲寺を中心に早くから開けた地域です。エリアの東側を大束川が北流し、飯野山の東を通って川津方面に流れていきます。今は小さな川ですが、古代においてはこの川沿いに開発が進められたと研究者は考えているようです。古代地名を復元した飯山町史の地図がテキストです。
この地図を見て分かることは
①大束川流域の上法勲寺は条里制地割が全域に残り、古代から開発が進んだ地域であること②西部の東小川は、土器川の氾濫原で条里制地割が一部にしか見えない③また大窪池の谷筋や丘陵地帯も条里制地割は見えないこと
土器川の右岸は、氾濫原で条里制地割は見えません。古代の開発が行われなかった「未開発地域」だったようです。そこへ中世になると開発の手が伸びていくようになります。地図を見ると、太郎丸・黒正・末広・安家・真定や、東小川の森国・国三郎など、中世の人名だった地名が見られます。これらは、名田を開発したり、経営した名主の名前が付けられたものと思われます。
国土地理院の土地利用図です。中世には土器川は大束川に流れ込んでいたことが分かります。
東小川の各エリアを拡大して見ていきます。 まず中方橋のあたりです。
国土地理院の土地利用図です。中世には土器川は大束川に流れ込んでいたことが分かります。
東小川の各エリアを拡大して見ていきます。 まず中方橋のあたりです。
新名という地名は、もとからあった名田に対して、新しく開発された所をさします。地図に見える東小川の新名出水は、土器川からわき出す出水があったのでしょう。これを利用して中世になって、それまで水田化されていなかった氾濫原の開発に乗り出した名主たちがいたようです。その新名開発の水源となったので「新名出水」なのでしょう。地図で、開発領主の痕跡をしめす地名を挙げると
「あくらやしき」「蔵の西」「馬場」「国光」「森国」「馬よけば」
が見えます。新名出水から用水路で誘水し、いままで水が来なかった地域を水田化したことが推察できます。新田の開発技術、特に治水・潅漑にかかわる土木技術をもった勢力の「入植・開発」がうかがえます。
さきほどの中方橋のさら北側のエリアになります。ここには
「明光寺又・円明院出水・首なし出水・弘憲寺又・障子又」
などの古地名が見えます。
「出水」は分かりますが「又」とは何でしょうか?
「又」は用水の分岐点です。出水や用水分岐点は、水をめぐる水争いの場所にもなる所で、重要戦略ポイントでした。そんな所は、竜神信仰の聖地としたり、堂や庵などを建立して水番をするなど、農業経営維持のためのしくみが作られていきます。ここにも「堂の元(下)」という地名がみえますからお堂が用水管理のための施設として建立され、時には寝ずの番がここで行われたのかもしれません。こんなお堂がお寺に成長していくことも多かったようです。
東小川の「障子又」は、「荘司」に由来するようです。
この付近に荘園の管理者、つまり実質的な荘園支配者であった荘司の屋敷か、彼の直接経営する名田があったのでしょう。居館のそばにお堂があったのかもしれません。それが、阿波安楽寺からの伝道者の「道場」となり、農民たちに一向信者が増えると真宗寺院に成長していくというのが丸亀平野でよく見られるパターンのようです。
土器川東岸の東小川が開発されたのは、いつ、誰によってなのでしょうか?
飯山町史は鎌倉後期のこと考えているようです。そして、開発の先頭を切ったのは、地頭などとして関東から移住してきた東国の御家人やその関係者であったとします。確かに、彼らは関東を中心とした広大な湿地帯や丘陵地帯で開発を進めてきた経験と新技術を持っていました。それを生かして、自分たちの領域の周辺部の未開拓地であった氾濫原の開発を進めたというのは納得がいく説明です。
この地図は、東小川の土器川沿いに「川原屋敷」や「巫子屋敷」などがあり、「ぞう堂」という地名も見えます。その背後の丘陵地帯に大窪池があ。法勲寺跡の南側に伸びていく緩やかな傾斜の谷の先です。しかし、この池が姿を見せるのは、近世になってからです。相争い分立する中世の領主達に、こんな大きな池を作り出す力はありません。彼らには古代律令国家の国司のように「労働力の組織化」ができないのです。満濃池も崩壊したまま放置され、その池跡が開発されて「池内村」ができていた時代です。大窪池のある台地は、「岡田」と呼ばれますが。ここが水田化されるのは近世になってからのようです。話を元に戻します。
今見ておきたいのは、この大窪池の下側の谷筋です。
ここは谷筋の川が流れ込み低湿地で耕作不能地でした。これを開拓するしたのが関東の武士たちです。彼らは湿地開発はお得意でした。氾濫原と共に、谷の湿地も田地(谷戸田)化して行ったようです。サコ田と呼ばれる低湿地の水田や氾濫原の開発と経営は、鎌倉時代の後半に、関東からやって来た武士たちによって始められるとしておきましょう。それが、東小川や法勲寺の地名として残っているようです。
ここは谷筋の川が流れ込み低湿地で耕作不能地でした。これを開拓するしたのが関東の武士たちです。彼らは湿地開発はお得意でした。氾濫原と共に、谷の湿地も田地(谷戸田)化して行ったようです。サコ田と呼ばれる低湿地の水田や氾濫原の開発と経営は、鎌倉時代の後半に、関東からやって来た武士たちによって始められるとしておきましょう。それが、東小川や法勲寺の地名として残っているようです。
飯山町史に載せられている讃岐にやってきた武士たちのリストです。全てが実際に讃岐にやって来たわけはなくて、代理人を派遣したような人もいます。例えば那珂郡の櫛無保の地頭となった島津氏は、薩摩の守護職も得ています。後に、島津藩の殿様になっていく祖先です。島津氏は、荘官を派遣して管理したようです。その居館跡が「公文」という名前で、現在も櫛無には残っています。
法勲寺を見ると壱岐時重という名前が出てきます。
彼が法勲寺庄の地頭となったようです。彼の下で、法勲寺や東小川の開発計画が進められたのでしょうか? いったいどんな人物なのでしょうか?それはまた、次の機会に・・・
彼が法勲寺庄の地頭となったようです。彼の下で、法勲寺や東小川の開発計画が進められたのでしょうか? いったいどんな人物なのでしょうか?それはまた、次の機会に・・・
以上をまとめておきます。
①飯山町法勲寺周辺は、条里制地割が全域に残り古代から開発が進んだ地域である。
②それに対して東小川は、土器川の氾濫原のため開発が遅れた
③この地域の開発は、鎌倉中期以後にやってきた関東武士たちによって行われた。
④彼らは出水から用水路を開き新田を拓いた。
⑤それが「出水・又・屋敷・堂・障子」などの古地名として現在に伝わっている
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 飯山町史
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①飯山町法勲寺周辺は、条里制地割が全域に残り古代から開発が進んだ地域である。
②それに対して東小川は、土器川の氾濫原のため開発が遅れた
③この地域の開発は、鎌倉中期以後にやってきた関東武士たちによって行われた。
④彼らは出水から用水路を開き新田を拓いた。
⑤それが「出水・又・屋敷・堂・障子」などの古地名として現在に伝わっている
おつきあいいただき、ありがとうございました。
参考文献 飯山町史







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