金比羅神を追いかけていると修験者の姿が目に入るようになり、修験者を追いかけると熊野行者に行き着くことになりました。しかし、熊野信仰については知らないことばかり、分からないことばかりです。そのための読書メモを取りながら読み進んでいくしかないようです。その読書メモの一部を備忘録代わりに公開しておきます。

讃岐の熊野信仰関係で史料で、最も古い記録は熊野本宮の「実賢檀那譲状写」弘安3(1280)のようです。
そこには、熊野にやってきた次のような5人の人たち(檀那)の名前が記されています。
十郎刑部、
十河(そがわ)(木田郡十河村)の三郎左衛門、
庵治(同郡庵治町)の四郎左衛門、
香西(高松市)のエモム、
柞原(丸亀市)
ここからは次のようなことが分かります。
①13世紀後半には熊野行者が讃岐にやってきて、信者獲得のための布教活動を行っていたこと
②熊野行者の布教エリアは東讃から丸亀までの広範囲およんでいたこと
③熊野先達に引率されて、5人の檀那が熊野詣でにやってきたこと
その次に古い資料は永仁六年(1296)の「導覚紛失状」です。
ここには逸見一門があげられています。しかし、その後の南北朝期の先達や檀那の動きを示す史料はないようです。

  次に熊野詣でが出てくるのは室町時代になります
まず登場するのが、讃東の大内荘(大内町)与田寺の増吽です
彼は明治以前の讃岐では空海に次いで有名なお坊さんだったようです。その増吽が応永(1394-1428)末頃、阿波と讃岐の経衆二十人、伶人三人をともなって船で能野に詣でています。増吽は、この熊野詣での前の明徳年間(1390-94)に、大内荘に能野三山を勧進(再興)しています。与田寺周辺の大内荘は真言密教系の僧侶の動きが活発で、書写活動や勧進活動が大規模に行われており、その中心に増吽はいたようです。そして増吽に連なる僧侶たちは、修験者で山野での修行も行っていたようです。
 大内荘には文正二年(1467)白鳥の先達の名前が見られます。実報院と廊之坊の檀那帳には、東山(白鳥町)の先達善知房、その東隣りの引田港(大川郡引田町)には先達筑前がいたことが分かります。鎌倉期から百年ほどで、熊野先達を行う修験者の数が増えていることが分かります。
 次に資料に残る高松近辺の先達を挙げてみましょう
①高松氏一族を導いた屋島の高松寺(八十四番札所)
②熊野社のある池田(高松市)の善清坊、
③三谷郷(高松市)の香西一族の束殿内方や豊後殿の女中を導いた実報院先達西林房
④円座の西蓮寺
⑤一宮の持宝坊(共に高松市)、
⑥飯田の西坊。林の武蔵坊(共に高松市)
⑦塩の積出港の野原(現高松市)の角坊
⑧白峰寺の先達(八十一番札所、坂出市青海町)
ここからは、次のようなことが分かります。
①⑤⑧は現在の四国霊場の札所になります。
四国霊場の中には、熊野先達の流れをくむ修験道の痕跡が色濃く残る所があります。屋島寺や一宮、白峰寺など、修験者の行場があるところには熊野先達がいたようです。①の屋島寺はの熊野先達は、高松氏の帰依を得て、熊野詣でに導いています。 
 JR屋島駅の南の小高い丘の上に、今は喜岡寺や喜岡権現社などが建っています。ここが高松頼重(舟木氏)の居城でした。舟木氏は美濃源氏・土岐氏の流れをくみ、鎌倉時代に伊勢から渡ってきた東国出身の御家人です。建武の新政の勲功により讃岐守護に任じられ、高松郷と呼ばれたこの地を居城としてから高松氏を名乗るようになります。つまり、讃岐守護を務める重要人物を屋島寺の熊野先達は檀那にしていたことが分かります。これは屋島寺にとっては、大きな加護となったでしょう。
③の高松西部の三谷郷の先達は、香西氏や豊後氏の帰依を得て檀那として、その婦女子を連れて熊野詣でを行っています。高松地区では、有力武士団の棟梁層が熊野先達に帰依していたことが分かります。
⑧の白峰寺は、先ほど見た大内荘の増吽が請われて住職を勤めたことがあります。中世の讃岐の修験道ネットワークの拠点のひとつと考えられます。ここにも熊野先達はいます。

鎌倉時代のこの地区の先達は「庵治(同郡庵治町)の四郎左衛門」「香西(高松市)のエモム」の二人のみでした。それが百年余りで、庵治周辺や、香西周辺にテリトリーを拡大して、数を増やしています。
続いて中讃の熊野先達を見てみましょう
①福江(坂出市)の玉泉坊
②宇多津の仲善坊
③垂水郷(丸亀市)の釈迦堂。光泉坊
④竹鼻の宝光坊
⑤杵原(丸亀市)の明法坊、
⑥国府(坂出市?)の菖蒲池椎ゐ尾正連坊。宝林坊
⑦飯山別当成福寺
⑧陶(綾歌郡綾南町)の陶王子坊主
⑨南条山(旧綾上町)の新坊
⑩小松(琴平町)の津守兵部
⑪高篠(まんのう町)の泉阿闇梨
が記録に残っています。
①の福江は、悪魚退治伝説に登場する中世の港で、現在の坂出になります。②の宇多津は、中世においては讃岐で最も活発な交易活動を行っていた港です。先ほど見た高松地区の⑦の野原(現高松市)も高松平野を後背地とする港町です。熊野先達は、瀬戸内海交易を活発に行う港町などに拠点を置く者も多かったようです。
13世紀末には柞原(丸亀市)に熊野先達が拠点を構えていましたが、それが周辺の③⑤⑦⑩⑪などへも広がっているのがうかがえます。
讃岐西部の三豊・観音寺を見てみましょう
①細川氏の先達の観音寺
②坂本(観音寺市)の宝林坊
③中郡(三豊郡)天王(仁尾町)の安全坊・勝蔵坊・加戒坊
鎌倉時代末期には先達の記録がなかったこの地域にも、熊野先達が定着しています。ここでも熊野先達たちは、財田川河口の琴弾八幡神社の門前町として開け海運業が盛んであった観音寺や、京都賀茂社へ御厨として神人が海運事業に進出した仁尾に拠点をおいています。背後の七宝山や紫雲出山の行場での鍛錬を重ねながら先達の役割も果たしていたのでしょう。彼らは勧進活動や書写活動も展開します。これらが仁尾や観音寺の中世寺院の隆盛に繋がっていくようです。
国境を越えた伊予の先達を見ておきましょう。
  宇摩郡新宮村には大同二年(807)勧請と伝える熊野社があります。この神社は、周辺の熊野信仰の布教センターの役割を果たしたと研究者は考えているようです。吉野川を更に遡って土佐方面に向かう熊野行者の拠点にもなったようです。ここを拠点に伊予方面にも進出していきます。妻鳥(川之江市)には、めんとり先達と総称される三角寺(六十五番札所、同市金田町)と法花寺がいました。また新宮村馬立の仙龍寺は、三角寺の奥院とされます。めんとり先達も、新宮の熊野社を拠点に、川之江方面で布教活動を展開していたようです。そして、めんとり先達の修行場所は、現在の仙龍寺の奥だったことがうかがえます。以上から、次のような筋書きが描けます。
①吉野川沿いにやって来た熊野行者が新宮村に熊野社勧進
②さらに行場として銅山川をさかのぼり、仙龍寺を開き
③里下りして瀬戸内海側の川之江に三角寺を開いた
大山祗神社をまつる大三島では、妙光坊、弥勒寺、大山祗二十四坊の一つ宝積坊、いとく寺、道場左衛門太郎などの先達の活動が記録されています。大山祗神社の各坊にも熊野修験者たちの影響力が及んでいたことが分かります。
 松山近辺には数多くの先達がいたことが記録されています
五十番札所で近世期に石鎚山先達も勤めた繁多寺
道後神崎荘の先達大弐公重勢・少先達大進公、
同荘宮前大弐阿闇梨坊宥清、
同荘北方重蔵房律師少弐、
道後和気郡の法善坊、宝性房賢慶、
長福寺の近江阿闇梨直海・法性房阿闇梨賢慶、宝泉寺、道後福王寺、道後三谷先達
などです。四国でもっとも先達の数が多かったのが伊予のようです。伊予に先達や檀那が多かっだのは、天文から天正頃に、来島村上氏が堺への「定期航路」運行していたようで、これを利用できる利便性にあったと研究者は考えているようです。
山内譲「中世後期瀬戸内海の海賊衆と水運」『瀬戸内海地域史研究』

 熊野先達とは、どんな人たちだったのでしょうか 
研究者は、熊野先達の性格を4つに分類して分析します。
第一は、熊野の御師が自分の直接配下とした先達です。
熊野の御師の直属先達です。これが出来るのは、那智山で大きな勢力を持った廊之坊と実報院だけだったようです。この2つの御師だけが直属の先達を擁していたようです。
第2の先達は、各地を遊行して、その先々で檀那を熊野に導く遊行先達です。
彼らは、屋島や石鎚山などの霊山や社寺などに、修行のために客僧として住みつきます。やがて、その社寺の僧侶・社僧、近くの武士を熊野に導くようになります。先達の中には、自分の出身地を示す国名や地名をつけた名前を持つものがいます。これが遊行先達のようです。例えば 
讃岐阿闇梨円慶(越後)、伊与法眼(美作)、伊与(因幡)・
土佐公(美濃)、土佐公玄智(近江)、土佐先達(山城)、土佐律師(美作)

括弧内は、活動した国名です。讃岐阿闇梨円慶は、讃岐出身ですが故郷には帰らずに越後で熊野先達として活動したようです。特に武蔵や越後には、遊行先達が多く入り込んできています。彼らは戦国末から江戸時代初頭にかけて定着して里修験となっていきます。
第三の種類が在地先達です。
彼らは各地の霊山、社寺、港などを拠点に、在地の宗教者や俗人を熊野に導いた先達です。熊野で修行した後に、各地の行場を巡った山伏が、霊山や社寺、熊野権現などに客僧として住みこみ、在地の僧侶、社僧、武士などを熊野に導くのです。その後、彼らはその霊山や社寺に常住するようになります。そして、その子孫が能野先達になったり、住僧や社僧の中からも熊野先達が育まれたようです。このパターンが四国霊場の札所には、いくつも見られます。また、讃岐の増吽が勧請した熊野三山がある大内荘の白鳥先達もこれに分類できるようです。
能野先達の中には修験者以外に念仏聖・比丘尼・六十六部・十穀聖・陰陽師などもいたようです
  ①念仏聖は社寺よりも港・市などの町場を活動の舞台としているものが多いようです。特に時宗とかかわりがある念仏聖が多かったことが熊野本宮の願文からは分かります。
  ②参詣者の中に武士や人の妻女、比丘尼など数多くの女性が含まれていました。讃岐の香西氏の女人をつれて、熊野詣でを行っている先達がいたことは、先ほど見た通りです。比丘尼のうちには、口寄せをする巫女(神子)もいたようです。これらの中には先達を勤めた女子もいたらしく、美濃の平野荘の「みこ先達」、越後国山東郡白鳥には神子坊の永吽と慶順などがいます。こうした比丘尼や神子がのちの熊野比丘尼へと成長していくようです。
 また阿波国では文安四年(1444)に乞食坊主が先達を勤めています。さらに阿波・阿波には、陰陽道の舞々の一類、讃岐の陰陽師若杉・月の下門下三白・讃岐の陰陽師光勝坊などの記録が残ります。陰陽師も熊野先達を務めたいたことが分かります。

 檀那の種類については
社寺の神職・僧侶・比丘尼・聖、武士や豪族・彼らに所属した下人・地下人・百姓など・町や市・港の商・職人・漁民などがいたことが分かります。しかし、熊野詣でには大金が必要でした。庶民がお参りする近世の伊勢詣でや金毘羅詣でとはちがって、誰もが行けるものではありません。経済的に裕福な人たちだけに許された参拝でした。

 京都、大坂、堺や全国各地の都市や港で結成された熊野講は、リニューアルした姿で近世に姿を見せます。それは、庶民が自分たちで結成して大峰登拝を始めた大坂や堺の八嶋役講、富士講、木曾御岳講などです。それが地方に伝わると立山講、白山講、大山講、石鎚講というプロの御師によるものではない、俗人による登拝講に姿を変えていきます。つまり、石鎚講は熊野修験者の組織が原型にあるということになります。
以上 おつきあいいただき、ありがとうございました。