応仁の乱が始まった翌年の9月に前関白一条教房は、兵火を避けて家領があった土佐国幡多郡の荘園に避難してきます。
そして、中村を拠点に公家大名に変身していきます。その間も、中村と上方の間を堺港を利用して何度も往復しています。そのため堺を支配する細川氏との関わりも深かったようで、『大乗院寺社雑事記』の明応三年(1494)2月25日には、当時の大阪湾周辺の情勢が次のように記されています。

「細川方へ罷上四国船雑物 紀州海賊落取之、畠山下知云々、掲海上不通也」

 一条氏の急速な台頭の背景には、日明貿易に参入し、巨大な利益を上げていたという説があるようです。一条氏の日明貿易の実態について探ってみることにします。

一条氏を祀る一條神社 本社拝殿と天神社(四万十市)

まず一条氏対明貿易参加説です。
この説は戦前の昭和十年(1935)に野村晋域氏が「戦国時代に於ける土佐中村の発達」で、発表されました。この論文では、次の2点が指摘されました。
①土佐一条氏が対明貿易に参加していたこと
②土佐中村の外港下田が遣明船の寄港地であったこと
  その根拠として示されたのが一条氏が巨大な貿易船を作っているということでした。
その貿易船について、少し詳しく見ておきます。
 天文五年(1536)四月に貿易船建造のために一条氏が土佐国幡多郡から木材を切り出している史料が見つかったようです。しかし、一条氏に貿易船建造能力はありません。そのため堺に技術援助を求めています。堺の造船や貿易事務のテクノラーであった板原次郎左衛門は、この依頼を無視します。しかし、一条氏は前関白という人的ネットワークを駆使して、大坂の石山本願寺の鐙如上人の協力を取り付けます。鐙如上人は浄土真宗のトップとして、信徒である板原次郎左衛門に中村行きを命じます。この結果。天文6年(1537)年三月には、堺から板原次郎左衛門が中村にやってきます。板原氏は、貿易船の蟻装や資材調達の調達などの元締で、堺の造船技術者のトップの地位にいた人物でした。彼が土佐にやってこなければ貿易船を作ることはできなかったはずです。そういう意味では、鐙如上人の鶴の一声は大きかったようです。上人側にも、日明貿易への参画という経済的な戦略があったことが見え隠れします。
日明貿易1

中世の交易船

 中村で船の組み立てが終了すると、板原次郎左衛門は艤装のために船を紀州に廻航しています。その際には、紀州のかこ(水夫)二十人を土佐国に派遣するよう依頼してます。ここからは、当時の中村周辺には、大船の操船技術を持った水夫もいなかったし、最終段階の艤装技術も中村にはなかったことがうかがえます。蟻装が終わった貿易船は、天文7年12月堺に回航されます。それを、鐙如上人は堺まで出向き密かに見物しています。この船は上人にとっても意味のある船だったようです。こうして、一条氏は堺の技術力で貿易船を建造しているのです。

日明貿易3

この時期から日明貿易で手に入れたと考えられる品々を毎年朝廷に貢納するようになります。
さらに、一条氏は平均子疋を朝廷に献金し、一万疋を出して官位を得ようともしています。つまり一条氏の経済力の向上が見られるというのです。このような史料や状況証拠をもとに
「貿易船建造の史料での確認 + 経済力の向上」= 一条氏の対明貿易参加説

が出されることになったようです。
 戦後に出された「高知県史 古代中世編』でも
「一条氏は大坂の石山本願寺や堺と緊密な連絡を保ちながら、日明貿易に関与していたのであろう」

と、石山本願寺と堺商人などと共に対明貿易に参加したと推論します。これが定説でした。
09-05-15 土佐一條公家行列「藤祭り」

これに対して一条氏対明貿易不参加説が戦後になって出されます。
小松氏は
「下田港で唐船は造ったらしいが、貿易は中途挫折してゐる」

として、一条氏の対明貿易不参加説を示します。。
 小松氏に続いて下村敷氏も『戦国・織豊期の社会と文化』で
「対明貿易で手に入れたとされる珍しい外国商品は堺の商人によって、土佐国に販売されたものである」

と小松氏の説を補強します。つまり、天文期には、土佐中村はすでに堺の商圏に入っており、外国商品は一条氏が対明貿易で得たものではないという考え方です。
 これに対して『中村市史』は
「土佐一条氏は対明貿易船の実際経営に当る堺商人と関係を結んでいたことを思えば、堺商人を介して対明貿易に関与したことは十分考えられる」

とします。裏付けとして、天文九年正月一条氏から石山本願寺の当主に贈った唐犬や、朝廷への献上品を挙げて参加説を支持しました。
どちらかというと、地元の高知は関与説のようです。
 しかし、下村氏はその後の論文で、堺商人を大内派と細川派に分けて考察し、天文八年四月に渡海した遣明船のうち、1・2号船の二隻は博多商人が担当し、3号船は
「堺衆でも大内氏と結んでいた片山与三衛門・池永宗巴・同新兵衛・盛田新左衛門などが乗船、細川方の堺衆木屋宗観・小西宗左衛門などが計画していた土佐中村建造の渡唐船は、この時ついに渡海しなかった

ことを明らかにします。『中村市史』が裏付けとする天文8年7の朝廷への献上品、さらに天文9年正月、一条氏が鐙如上人に贈ったとされる唐犬などは、天文8年4月に遣明船によってもたらされたものではなかったのです。これで、一条氏が対明貿易に関与したとする論拠が崩れました。
現在では、一条氏対明貿易不参加説をとる研究者の方が多いようです。その根拠を見ておきましょう。
第一に一条氏が堺商人と共に参加していれば、もっと多くの外国商品が中村市場に出廻り、朝廷へも多種類の品物が献納されたはずであると研究者は考えているようです。貿易船を運用していたにしては、もたらされている貿易品が少なすぎるということです。
 勘合による遣明船の輸出入品は、輸出品は刀剣・鎧・硫黄・銅を主とし、扇・蒔絵・屏風・硯・漆器などがあり、輸入品は銅銭を主とし、生糸・高級織物・錦・書籍などでした。これらの流通が中村周辺では見られないようです。

日明貿易2
第二は、貿易船の乗組員です。
天文8年4月に五島奈留浦より渡海した遣明船の乗組員は
①1号船 官員15人・商人112人・水主58人・合計185人
②2号船 官員 5人・商人 95人・水主40人・合計140人
③3号船 官員 6人・商人 90人・水主38人・合計134人
となっています。相当数の商人・水主を確保しなければならないことが分かります。さらに明国への進物の経費・勘合請料の支払もあります。これらの費用の一部は乗船料・荷駄料から支払われるとしても、一隻の請料は巨額の費用が必要でした。そのため貿易船は、多くの商人が資金を出し合って運営されたいました。また帰国後の輸入品販売のための市場確保も課題です。このような山積みされた課題に一条氏が対応できたのでしょうか? 
 先ほど見た貿易船の建造や水夫(かこ)にしても、堺や紀伊に頼らなければなりませんでした。博多や堺に割って入る形で一条氏が参入できたと考える研究者は少ないようです。
一条教房|中村めぐり

 一条氏が貿易に関与していないとすれば、朝廷や貴族たちに進物した外国商品は、どこから得たのでしょうか
この時期になるとは堺の商人が土佐にやって来るようになります。
琉球との交易の際に、立ち寄ることが多くなったようです。つまり、土佐は堺の交易圏だったのです。その際に、対明貿易で仕入れた商品がもたらされたと研究者は考えているようです。
 それ以外にも一条氏と大内氏の姻戚関係が成立し、大内義興の女が一条房冬に嫁いで、大永四年若君を出産しています。後にはその若君が、大内氏に迎えられ義隆の養嗣子となり晴持として元服します。彼は天文12年5月月に20歳で亡くなりますが、大内晴持の実家は一条氏です。大内家と一条家は強い姻戚関係で結ばれていました。そのため大内義興・義隆父子は、博多商人が遣明貿易でもたらした珍しい高価な品物を、一条氏に進呈したことは十分考えられます。
 つまり一条氏が手に入れた中国からの舶来品は、堺商人や大内氏を通じて手に入れたものだとします。

土佐国 大日本輿地便覧 坤 ダウンロード販売 / 地図のご購入は「地図の ...

また一条氏が南蛮物を手に入れる手段としては、琉球船の来港がありました。琉球船は土佐清水に入港し、そこに南蛮の品々を下ろしていたようです。この交易活動の背後にも、大内氏の支援があったようです。
 このように、一条氏が朝廷や三条西実隆・鐙如上人らに進物とした外国商品は、堺の商人によって土佐へもたらされたものや、当時婚姻関係で結ばれていた大内氏から送られた物が多かったのではないかと研究者は考えているようです。
参考文献
朝倉慶景 土佐一条氏と大内氏の関係及び対明貿易に関する一考察  瀬戸内海地域史研究8号 2000年